第2話 雨の日の声
次の日も雨だった。
朝から空は低く、校舎の窓ガラスに薄い灰色を貼りつけている。傘を閉じて昇降口に入ると、床にはまだらに濡れた足跡が重なっていた。湿った靴下の匂いと、濡れた制服の布の冷たい匂いが混じって、息を吸うたびに肺の奥まで雨が入り込んでくるようだった。
教室はいつも通りうるさかった。
後ろの席では誰かが昨日の動画の話をしていて、窓際では女子たちがコンビニの新作スイーツの感想を言い合っている。笑い声がいくつも重なって、黒板の前まで薄く跳ね返る。僕は椅子に座り、鞄から教科書を出しながら、無意識に窓の外を見た。
ガラスについた雨粒が、細い筋になって下へ落ちていく。
その向こうを、ひとりの女子生徒が渡り廊下へ入っていった。青みのある黒髪と、少し大きめの紺のカーディガン。見間違えるはずがなかった。
玻璃坂。
名前を思い浮かべただけで、昨日ポケットに入れた紙片の感触まで戻ってくる。引き出しの奥にしまったはずなのに、あの細い紙はまだ指先に残っている気がした。
昼休みになっても、雨は弱くならなかった。
校庭は全面が濡れて、サッカーゴールの白い枠だけが水気を吸った空気の中にぽつんと立っている。教室で弁当を食べ終えたあと、僕は借りるつもりでいた文庫本のことを思い出した。昨日、彼女が持っていたあの本。静かな本、と彼女は言った。
たぶん、放課後まで残っている。
根拠はない。けれど、そう思った。
午後の授業は妙に長く感じた。数学の板書も、英語のリスニングも、頭に入ってこないわけではないのに、どこか薄い膜を隔てた向こう側の出来事みたいだった。気づけば、何度も時計を見ていた。
終礼が終わると、教室のざわめきが一気に大きくなる。
「カラオケ行く人ー」
「傘一本でいけるかな」
「購買まだ残ってるかな」
そういう声を背に、僕は鞄を持って席を立った。誰にも何も言われないのは気楽で、そのくせ今日は少しだけ心細かった。自分が向かう先に理由がありすぎる気がして。
廊下を歩くと、窓の桟から冷気が滲んでいた。図書室の前に来ると、扉のガラスが白く曇っている。いつもより早い時間だからか、中にはまだ人が多かった。何人かが自習席に広がり、カウンターの近くでは一年生らしい男子が返却手続きをしている。
僕は昨日と同じ机に向かう前に、文庫棚へ足を向けた。
探していた背表紙はすぐに見つかった。淡い灰色の帯がかかった、薄い文庫本。手に取ると、表紙の紙が少しだけしっとりしていた。誰かの手の熱が、まだ完全には消えていないみたいだった。
最後のページに視線を落とす。
何も挟まっていない。
当然だと思いながらも、ほんのわずかに落胆した自分がいた。僕は本を持ったまま席へ向かう。窓際から二列目の机に鞄を置き、椅子を引く。脚が床を擦る乾いた音のあと、周囲の静けさがまた戻ってくる。
ページを開くと、紙の匂いが立った。新しくはないけれど、古びてもいない匂い。インクと接着剤と、棚に並んでいた間に吸い込んだ空気の匂い。その中に少しだけ、昨日の雨の匂いが残っている気がした。
最初の数ページは、うまく頭に入らなかった。
文字を追っているはずなのに、ふとした瞬間に視線が入口のほうへ流れる。扉が開くたびに、そこへ意識が引っ張られる。誰かが入ってきても違う顔ばかりで、そのたびに胸のどこかが静かに下がる。
もう来ないかもしれない。
そう思い始めた頃、扉が開いた。
外の湿った空気が一瞬流れ込み、雨音が少しだけ近くなる。その向こうに彼女が立っていた。紺のカーディガンの肩口に、まだ細かな雨粒が残っている。髪の先はほんの少し濡れていて、黒に近い青がいつもより深く見えた。
玻璃坂は室内を見渡し、僕を見つけると、ほんのわずかに目を細めた。
その変化が笑顔かどうか、たぶん他の人には分からない。でも僕には、昨日より少しやわらかい表情に見えた。
彼女はまっすぐこちらへ歩いてきた。
「その本、借りたんだ?」
机の向かいに立ったまま、彼女が言う。
「昨日、言ってたやつ」
「うん」
自分の声が、思っていたより少しだけ高かった。
「静かな本って、どんなのか気になって」
「どう?」
「まだ最初だけど、確かに静かかもしれない」
彼女は小さく頷いた。
「座ってもいい?」
「もちろん」
そう言ったあとで、もちろん、なんて言い方は自分に似合わないなと思った。でも彼女は気にした様子もなく、向かいの椅子をそっと引いた。制服のスカートがかすかに擦れる音がする。椅子に座る動作まで静かで、そこだけ図書室の空気の密度が変わった気がした。
近くに来ると、彼女から微かな匂いがした。香水みたいに作られた匂いではなく、雨で少し冷えた布と、石けんの清潔な匂い。白いページの近くにいる人の匂いだと思った。
「今日は読めてるね」
「え」
「昨日は、同じ行を二回読んでた」
僕は思わず本を閉じかけて、慌てて手を止めた。
「そんなに分かる?」
「見てたから」
言われた瞬間、心臓が軽く跳ねる。
彼女はこともなげに言って、机の上に自分の借りる本を置いた。ハードカバーの詩集だった。濡れた指先で触れたせいか、表紙のつるりとした光沢が少し曇って見える。
「見るの、好きなの?」
「読む人を見るのが?」
「……うん」
彼女は少し考えるように、窓の外へ目をやった。
「好き、かもしれない。黙っていても、何か考えてるのが分かるから」
「そんなの、分かる?」
「少しだけ」
雨が窓を細かく叩いている。昨日より粒が小さいのか、音は高く、透明だった。時々、風に押された枝先がガラスを掠める音が混じる。図書室の中では誰かがページをめくり、カウンターの奥では司書の先生がスタンプを押していた。規則的な音と、ばらばらの雨音が重なって、それでも不思議と喧嘩しない。
彼女の声は、その真ん中にすっと落ちる。
「雨の日は、本の音も少し変わるよね」
「本の音?」
「ページをめくる音。乾いてる日は、もう少し軽い」
言われて、自分の手元の文庫を一枚めくる。たしかに、昨日より紙が少しだけ柔らかい。擦れる音が丸い。薄い皮膜を指先で撫でるみたいな、頼りない音だ。
「ほんとだ」
「ね」
たったそれだけのやりとりなのに、なぜだか嬉しかった。
教室では、会話はもっと分かりやすいものばかりだ。面白いとか、だるいとか、腹減ったとか、そういう即物的な言葉がほとんどで、それはそれで自然なのだと思う。でも彼女との会話は、目に見えないものを確かめるみたいだった。雨の音とか、本の声とか、ふつうはわざわざ口にしないものを、一度言葉にしてしまうと、たしかにそこにあったと気づかされる。
「昨日の紙」
彼女がふいに言った。
「なくしてない?」
「うん。家の机の引き出しに入れた」
「そう」
「大事そうだったから」
そう言うと、彼女は一瞬だけ目を伏せた。長いまつげの先に窓の光が引っかかる。
「大事っていうか」
「違う?」
「なくなるのが嫌なだけ」
声は静かだったのに、その言い方だけは少し硬かった。
僕は返す言葉を探す。けれど、軽い相槌ではいけない気がした。
「そういうの、ある」
考えた末に出てきたのは、ひどく短い言葉だった。
彼女は顔を上げる。
「ある?」
「消耗品みたいなものでも、なくなると困るっていうか。別に高いものじゃなくても、ずっと使ってるシャーペンとか、古いしおりとか」
「うん」
「なくなる前から嫌になる」
彼女はしばらく僕を見ていた。
灰青色の瞳は、静かな色をしているくせに、ときどきこちらの言葉をまっすぐ射抜く。見透かされる感じとは違う。もっと丁寧に、奥まで触れようとしてくる感じだ。
「少し、似てるね」
「何が」
「なくなる前から、なくなるのが怖いところ」
言われて、うまく笑えなかった。
そこまで大げさなつもりはなかった。でも彼女の口から出ると、ただの癖みたいに思っていた感覚が、輪郭を持ちはじめる。
「玻璃坂さんは、そういうの多そう」
「名字で呼ぶんだ」
「え」
「別に嫌じゃないけど」
彼女は、そこで初めて少しだけ楽しそうに笑った。
「澪でいいよ」
その一言で、机の上の空気が変わった。
名前を渡されるというのは、こんなに静かなのに、こんなに大きなことなんだと思う。僕は喉が少し乾くのを感じた。図書室は涼しいはずなのに、耳のあたりだけ熱かった。
「……じゃあ、澪」
呼んでみると、思っていたより自然に口から出た。
彼女は小さく頷く。
「うん」
「僕は」
「知ってる」
遮られて、言葉が止まる。
「え」
「貸出カード、見たから」
昨日の自分をそっくり返された気がして、思わず黙る。彼女は少しだけ首をかしげた。
「だめだった?」
「いや、だめじゃないけど」
「じゃあ、よかった」
あっさりそう言って、本の背を指先でなぞる。その指が細くて白いせいか、厚紙の表紙が少しだけ重そうに見えた。
「君の名前、字の形がやさしいね」
「名前って字でそんなに変わる?」
「変わるよ」
「例えば」
「鋭い字の人もいるし、急いでる字の人もいる。君のは、急いでない感じ」
それは褒められているのかどうか分からなかったけれど、彼女にそう言われると悪い気はしなかった。
「澪の字はきれいだった」
言ってから、紙片のことをそのまま認めたようで少し気まずくなる。けれど彼女は否定しなかった。
「見やすい字にしてるだけ」
「どうして」
「読んでほしいから」
さらりと返されて、僕は黙る。
雨が少し強くなった。窓を打つ音が密になって、ガラスの向こうの景色がいっそう白くぼやける。中庭の植え込みは水を含んで重そうだった。誰かの忘れ物らしい青い傘が、傘立ての横でひとつだけ色を浮かせている。
「君は」
澪が窓の外を見たまま言う。
「ひとりでいるの、平気?」
質問は静かなのに、返事を間違えたくない種類の響きがあった。
「平気、かな」
「かな」
「ほんとは、たぶん平気っていうより、慣れてるだけかも」
口にした瞬間、自分でも少し驚く。そんなふうに説明したことは今までなかった。ひとりが好きか嫌いか、なんて、誰かに考えて話したことがなかったからだ。
澪は僕を見た。
「わたしも」
小さく言う。
「ひとりが平気なんじゃなくて、慣れてるだけ」
その言葉は、教室のどんな会話よりも低い温度で、それでいてまっすぐ胸に入ってきた。
彼女は転校してきたばかりで、教室では確かに目立っていた。綺麗だから、自然と人の目を引く。でも、目立つことと、ちゃんと誰かの中に居場所があることは、たぶん別なんだろう。
「……そっか」
うまい返しはできなかった。
でも、澪はそれで困った顔をしなかった。
むしろ、少しだけ安心したように見えた。
「君は、ちゃんと聞いてくれるね」
「そんなことないと思う」
「あるよ」
彼女は即答した。
「みんな、答えやすい言葉を待ってることが多いから」
「答えやすい言葉」
「たとえば、平気だよ、とか。大丈夫、とか。そういう、きれいに終わる言葉」
澪の指先が、本の角をそっと撫でる。紙と爪が触れる、ほとんど聞こえないくらい小さな音がした。
「でも、ほんとはそんなにきれいじゃないこともあるでしょう」
その言い方が、彼女自身のことを含んでいるように聞こえた。
訊いてはいけない気がした。何があったのか、とか。どうしてそんなことを言うのか、とか。聞けばたぶん彼女は拒まない。でも、まだそこへ踏み込む段階ではないと分かった。
だから僕は別のことを言う。
「静かな本って、そういうことかも」
澪が顔を上げる。
「きれいに終わらないことを書いてる本」
「……うん」
彼女は少しだけ驚いたように目を見開いて、それから笑った。
「それ、好き」
好き、という言葉が耳に残る。
別に僕自身を指したわけじゃないのに、それでも胸の奥がかすかに熱くなる。単純だと思う。でも、彼女の言葉にはそういう力があった。大きく持ち上げるわけでも、露骨に褒めるわけでもない。ただ静かに、こちらの言葉を受け取って、大事そうに置いてくれる。
そのとき、入口の方から明るい声がした。
「あ、玻璃坂さんいた」
同じクラスの女子だった。名前までは知らないけれど、いつも友達の多そうな子だ。濡れた前髪をハンカチで押さえながら、図書室の中を軽い足取りで歩いてくる。
「こんなところにいたんだ。探したよ」
澪は自然にそちらを向いた。
「ごめん。何かあった?」
「次の文化祭の係のことでさ、連絡グループ入ってなくて。あとで招待するねって」
「分かった。ありがとう」
声音は丁寧で、やわらかい。けれど、さっきまでの会話の温度と少し違った。よそゆきというほど冷たくはない。ただ、きちんと整えられた声だった。
女子は僕のことを一瞬見て、すぐに視線を外した。
「あ、ごめん、話してた?」
「ううん、大丈夫」
澪が答える。
「またあとで」
「うん」
女子は軽く手を振って去っていった。残ったのは、さっきより少しだけ薄くなった静けさだった。カウンターの方ではコピー機が短く唸り、窓の外では風が強まったらしく、雨の線が斜めに流れている。
僕はなんとなく本に視線を落とす。
さっきのやりとりに、別に意味はない。クラスメイトが用事を伝えに来ただけだ。澪も普通に返しただけ。なのに、胸の中に小さくざらつくものが残っていた。
澪はそれに気づいたみたいに、少しだけ身を乗り出した。
「君と話すほうが静かで好き」
囁くような声だった。
僕は顔を上げる。
「え」
「いまの、嫌だったでしょう」
「嫌っていうか」
「邪魔された感じ」
図星だった。そんなふうに思うのは勝手すぎると自分で分かっていたから、余計に否定しづらい。
「……少し」
そう認めると、澪は不思議なくらい満足そうに目を細めた。
「よかった」
「よかった?」
「君が少し嫌だと思ってくれたなら、わたしだけじゃないから」
その意味を考えるのに、数秒かかった。
わたしだけじゃない。
つまり、澪もまた、同じように感じたということだろうか。さっきの女子が来たとき、会話を断ち切られるのを惜しいと思ったのだろうか。
胸の奥で何かが音もなく動く。
嬉しい、というには静かすぎて、でも確かに形を持った感情だった。
「澪って」
「うん」
「たまに、急にすごいこと言う」
「そう?」
「言う」
彼女は少し考えるふりをして、それから小さく首をかしげた。
「でも、ほんとうだから」
その一言で、また何も返せなくなる。
閉室十分前のチャイムが鳴った。
室内にいた何人かが一斉に顔を上げ、椅子を引く音が順番に続く。遠くで本を閉じる音。鞄のファスナーが閉まる音。そういう日常的な動作の中にいても、僕の周りだけまだ少しだけ別の速度で時間が流れている気がした。
澪は席を立つ。
「今日は借りないの?」
「借りる」
僕も慌てて本を持つ。
カウンターへ並ぶと、前に立った澪の髪から微かな湿り気が香った。近くにいるだけで、雨の日の外気が彼女の輪郭に残っているのが分かる。司書の先生が貸出処理をしながら、穏やかに笑う。
「ふたりとも、今日は同じ時間なのね」
僕は何も言えなかったが、澪は静かに頷いた。
「雨の日は、ここが落ち着くので」
「分かるわ。外、冷えるものね」
手続きを終えて図書室を出ると、廊下は昼より暗くなっていた。窓の向こうの空はもう夕方の色を失って、均一な灰色に沈んでいる。
昇降口へ向かう途中、澪が歩幅を少しだけ緩めた。
「君、傘ある?」
「あるけど」
「よかった」
「澪は?」
「あるよ」
昇降口には、さっきよりずっと濃い湿り気がこもっていた。傘立てからビニールの擦れる音が聞こえる。外へ出ると、空気はひやりとして、肌に細かな水気がまとわりついた。
澪は透明な傘を開く。弾かれた雨粒が、街灯の代わりに玄関の灯りを受けて白く光った。
「またね」
彼女が言う。
「また、図書室で」
「うん」
それだけの約束なのに、妙に確かな感じがした。
僕は紺色の傘を開く。布を打つ雨音は、図書室の中で聞くより少しだけ乱暴だった。でも、その向こうに彼女の声がまだ残っている気がした。
君と話すほうが静かで好き。
その一言だけで、雨に煙る校門までの道が、いつもより少し明るく見えた。
家へ帰ると、部屋の空気は外より乾いていて、制服の袖に残った湿気がかえって目立った。鞄を置き、机の引き出しを開ける。昨日の紙片は、入れたときと同じ場所にあった。
その横に、今日借りた文庫本をそっと置く。
紙片を取り出して読む。
『きょうは雨の音がきれいでした』
昨日と同じ文字なのに、今日は少し違って見えた。ただの綺麗な一文じゃない。そこに澪の声が重なっている。やわらかくて、静かで、でも少しだけ切実な声。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
耳を澄ますと、ベランダを叩く音の向こうに、もっと遠い音がいくつもあった。道路を走る車の音、隣家の雨樋を落ちる水の音、風に煽られた枝先が揺れる音。それらが混ざり合って、部屋の中まで薄く満ちてくる。
きれい、というより、今日は少しやさしく聞こえた。
机の上の文庫本を開くと、途中のページに、薄い紙片が一枚挟まっていた。
心臓がひとつ、大きく鳴る。
昨日のものより短い、同じ白い紙。開くと、そこにはまた鉛筆で一行だけ書かれていた。
ひとりに慣れるのと、ひとりが好きなのは、少し違う
僕はしばらく動けなかった。
部屋の中は静かで、雨だけが降っている。
けれどその一文は、たしかに今日の図書室の空気を連れてきていた。窓辺の冷たい光、湿ったページの匂い、そして向かいの席から聞こえた、あの低い声まで。
僕はその紙片を、昨日の隣に並べて置く。
たぶん、明日も図書室へ行く。
もう理由を探す必要はなかった。




