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第3話 忘れられる前に



 その週の水曜日、雨はやんでいた。


 朝の空はまだ薄く曇っていたけれど、校舎の窓に叩きつける音がないだけで、世界はずいぶん広く感じられる。昇降口にこもる湿った匂いも、今日は少し軽かった。乾ききらない傘立ての金属の匂いと、ワックスの落ちかけた床の匂いが、春とも冬ともつかない冷たい空気に混ざっている。


 けれど教室に入った瞬間、僕はそこで何かが欠けているのに気づいた。


 玻璃坂澪の席が空だった。


 窓側の後ろから二列目。彼女の机の上には、誰かが勝手に触れた形跡のない教科書だけがきちんと揃っている。椅子は机に半分押し込まれたままで、そこだけ朝のざわめきから切り離されて見えた。


「玻璃坂さん、休みなんだって」


 前の席の女子が、隣の子にそう言っていた。


「体弱いのかな。昨日もちょっと顔色悪くなかった?」


「もともとそういう感じしない?」


 声はひそやかだったけれど、ひそやかであること自体が、彼女の不在をどこか他人事にしていた。


 僕は席につきながら、窓の外を見る。


 曇り空の下、中庭の植え込みにはまだ雨粒が残っていた。葉の先に留まった水が、風もないのに時々落ちる。あれが落ちるたび、昨日までの雨の気配が一滴ずつ剥がれていくみたいだった。


 澪がいないだけで、教室の色が少し薄い。


 そんなふうに思うのは大げさだと分かっている。僕と彼女は、図書室で何度か話しただけだ。教室ではほとんど会話もしないし、友達と言い切れるのかも曖昧だ。


 でも、もうそれだけではなかった。


 昨日の夜、机の引き出しに並べた二枚の紙片を、僕は寝る前にももう一度読んでいた。ひとりに慣れるのと、ひとりが好きなのは、少し違う。あの一文を見つめていると、紙の白さの向こうに、図書室の湿った空気と、向かい側に座る澪の静かな声が浮かんでくる。


 だから今日、彼女がいないことは、ただの欠席以上の意味を持ってしまっていた。


 授業のあいだ、何度か無意識に後ろを振り返りそうになった。


 数学の途中でチョークが折れる乾いた音がしたときも、英語の先生がプリントを配るために列の間を歩いたときも、誰かが笑って椅子を鳴らしたときも、そのすべての出来事のどこかに、澪が遅れて入ってくる気配を探していた。けれど昼になっても、午後になっても、彼女の席は空のままだった。


 終礼のあと、僕はほとんど考えずに図書室へ向かった。


 廊下の窓から射し込む光は、雨の日とは違う角度で床に落ちていた。乾きかけたワックスのにおいが、夕方の冷たい空気と混ざって鼻に残る。図書室の扉を開けると、紙の匂いがいつもよりはっきりした。雨がない日の本は、少しだけ乾いている。その匂いは軽くて、でも澪のいない図書室ではどこか空疎だった。


 いつもの机には誰もいない。


 向かいの椅子も、窓際の光も、そのままなのに、そこへ座るはずの気配だけが抜けている。僕は鞄を置き、文庫棚の前へ立った。澪が昨日借りていた詩集はもう返ってきているだろうかと、そんなことを思ったからだ。


 棚を探していると、カウンターの奥から司書の先生の声がした。


「探しもの?」


「いえ、ちょっと」


 僕は振り返る。司書の先生はラベルの束を指先で揃えながら、やわらかく笑った。


「今日は、玻璃坂さん来てないのね」


 その言い方に、ほんの少しだけ驚く。先生も彼女のことを覚えているのだ。


「……はい」


「たまにあるのよ。体調がよくない日」


「そうなんですか」


「前も長く休んでいたことがあったし」


 そこまで言ってから、先生は少しだけ目を伏せた。口にしすぎたと気づいたような間だった。


 僕は手にしていた文庫の背を握り直す。


「長くって、どれくらい」


「去年の秋くらいだったかしら。数週間、だったかな」


 数週間。


 その長さが、心の中に重く落ちた。風邪や体調不良で一日休むのとは、違う時間の長さだ。僕の中の澪は、いつも図書室にいて、静かに本を読んでいて、雨の日には少しだけ言葉が増える人だった。その輪郭に、いま初めて別の影が差した気がした。


「でも、戻ってきてからはずっと来てたのよ。ここにもよく」


 司書の先生はそう言って、棚の方を見た。


「本を返すとき、よく紙を挟んでたの。しおりみたいな細い紙。忘れ物かと思って、最初は追いかけようとしたんだけど」


 僕は喉の奥がかすかに熱くなるのを感じた。


「それで?」


「次の本にもまた入ってたから、ああ、そういう癖なのかなって」


 癖。


 たしかにそれは、外から見ればそういうものなのだろう。貸した本の間にいつも細い紙が挟まっている。誰に向けたものかも分からない一文。知らない人から見れば、少し変わった癖にしか見えない。


 けれど、僕はあの紙片を引き出しにしまっている。寝る前に何度も読み返した。自分でもよく分からないくらい、大事なものとして扱っている。


 ただの癖だとは思えなかった。


「その詩集なら、返ってるわよ」


 先生が棚のいちばん端を指さす。


「昨日、昼に」


 僕は礼を言って、詩集を取り出した。硬い表紙はひんやりしていて、指先にすべる感触がある。開いてみても、もう何も挟まっていない。昨日ここへ置かれたあと、誰かが借りたのか、司書の先生が確認したのか、それとも最初から何もなかったのか。


 分からないまま、僕はその本を持っていつもの席に座った。


 窓の外は、雨のあと特有の白い明るさに包まれている。空は曇っているのに、濡れた校庭が光を跳ね返して、眩しいくらいだった。野球部の掛け声が遠くから聞こえる。乾ききらないグラウンドを踏む靴音は、いつもより鈍く響いていた。


 図書室の中にも、いつもと違う音がある。


 晴れた日のページをめくる音は軽い。椅子を引く音は雨の日より乾いている。なのに、そこに澪の声だけがない。


 詩集を開くと、活字のあいだに微かな紙の匂いが立った。読もうとしても、視線は何度も入口へ向かってしまう。来るはずがないのに。


 もしかして、このまま何日も来ないのだろうか。


 そんな考えが浮かぶと、胸のあたりに冷たいものがじわりと広がった。


 なくなる前から、なくなるのが嫌。


 前に僕が言った言葉を、澪は少し似てるね、と言った。あれがただの会話ではなく、自分の内側に近いものとして受け取られていたのだとしたら。今のこの不安も、きっと同じ種類のものなのだと思う。


 閉室の少し前、僕は詩集を借りた。


 カウンターでバーコードを通してもらうとき、司書の先生がやわらかく言う。


「玻璃坂さんに会ったら、返却急がなくていいって伝えておいて」


「会えたら、伝えます」


 その返事は、自分でも驚くほど自然に出た。


 会える前提で話していることに、心のどこかが少しだけ救われる。


 図書室を出て昇降口へ向かう途中、廊下の窓から見えた空は、夕方に近づくにつれて鉛色を濃くしていた。晴れきらない日の終わりは、雨の日よりかえって重い。空気の中に水分が残っていて、息をすると少しだけ喉に絡む。


 帰り道、僕は遠回りをした。


 澪の家を知っているわけではない。けれど、前に一度だけ、校門を出て右へ曲がる彼女の姿を見たことがある。その方向へ行けば、何か分かるかもしれないと思った。自分でも、ひどく曖昧な理由だと思う。


 駅とは逆の住宅街へ入ると、舗道の脇に植えられた木から、まだ水滴が落ちていた。車の通りは少なく、遠くで犬の鳴く声がする。どの家も夕方の匂いをさせている。洗濯物の柔軟剤の匂い、どこかの台所から流れてくる醤油を温めた匂い、庭の土がまだ湿っている匂い。


 そのまましばらく歩いた先で、古い洋館が見えた。


 門柱の石は少し黒ずみ、鉄の門には細かな錆が浮いている。庭の木々はきちんと手入れされているのに、どこかひっそりとしていた。窓の形がいまどきの住宅とは違っていて、玄関脇の丸い照明だけが先に夕方を始めている。


 ここがそうだ、と断言できる根拠はなかった。


 けれど、その家の前で僕は足を止めた。澪が似合いすぎると思ったからだ。古びているのに綺麗で、静かで、誰かが丁寧に守っている場所。


 門の向こうから、細い咳払いの音が聞こえた。


 顔を上げると、玄関へ続く小径の途中に人が立っていた。


 澪だった。


 学校の制服の上に、薄い色のカーディガンを羽織っている。家の中で着るためのものなのか、学校の紺より少し明るい灰色だった。髪は下ろしたままで、外の空気に少しだけ揺れている。顔色は教室で見るより白く、頬の赤みも薄かった。


 彼女は驚いたように目を開く。


「……どうして」


 僕は自分が何をしているのか、そこでようやく少しだけ恥ずかしくなった。


「ごめん。たまたま、こっち通って」


 あまりにも嘘が下手だった。澪もそれは分かったらしく、小さく息を吐くみたいに笑った。


「やさしい嘘だね」


「嘘っていうか」


「心配したの?」


 夕方の冷たい空気の中で、その問いだけが少しあたたかかった。


「した」


 否定しても意味がないと思って、そう言った。


 澪は門のほうへ歩いてくる。砂利を踏む音が細く続く。近づいてくるほど、彼女の白さが際立って見えた。体調が悪いときの白さだと分かる。けれど、立っている姿はまっすぐで、すぐに壊れそうな感じはしなかった。


「今日は熱が少しあっただけ」


 門越しに彼女が言う。


「大げさなものじゃないよ」


「でも休んだ」


「うん」


「前も長く休んでたって」


 口に出した瞬間、踏み込みすぎたかもしれないと思う。


 けれど澪は顔をしかめなかった。ただ、門柱に軽く指先を置いて、少しだけ遠くを見るような目をした。


「去年ね」


 声は落ち着いていた。


「ちょっと長く、入院してた」


 入院。


 その二文字が、今まで曖昧だった不在の輪郭をはっきりさせた。図書室に来ない日があること。体調が悪いこと。白い横顔。どれもその言葉につながっていたのだと思う。


「いまは、もう大丈夫なの?」


「大丈夫、にしてる」


 彼女はそう言ってから、困ったみたいに笑う。


「こういう答え方、ずるいね」


「でも、本当なんだろ」


「うん。本当」


 門の向こうの庭は、夕方の湿気をゆっくり吸い込んでいた。低い生垣の葉にまだ水滴が残っていて、灯りの色をかすかに映している。どこかで白い花が咲いていて、風に乗って甘すぎない匂いがした。


「図書室、今日も行った?」


「行った」


「そう」


 その一言に、澪の声が少しだけほどける。


「詩集、借りた」


「借りると思った」


「分かるんだ」


「少しだけ」


 前にも聞いた返事だった。なのに今日は、その言葉の奥行きが少し違う。見ているとか、気づくとか、そういうことが澪にとってどれだけ大事なのかが、少しだけ分かってきたからかもしれない。


 門の隙間から覗く彼女の指は白く細い。爪の形まで整っているのに、そこへ体温の弱さみたいなものが滲んで見える。


「紙、読んだ?」


 澪が小さく訊く。


「読んだ」


「嫌じゃなかった?」


「全然」


「ならよかった」


 彼女は目を伏せる。


「残したくなるから」


「何を」


「その日のこと」


 風が少し吹いて、庭木の葉が揺れた。濡れた葉の擦れる音は小さいのに、妙に耳に残る。空の色はさらに沈んで、家々の窓に灯りがともり始めていた。


「忘れるの、いやなの?」


 気づけば、そう訊いていた。


 澪はすぐには答えなかった。


 灰青色の瞳が一度だけこちらを見て、それからまた門柱の陰へ滑る。沈黙は長くはなかったはずなのに、そのあいだに夕方の空気が少し冷えた気がした。


「いや、というより」


 彼女はゆっくり言葉を探すように口を開く。


「怖い」


 その一言は、思っていたよりずっと静かだった。


「自分が忘れるのも、忘れられるのも」


 喉の奥がかすかに締まる。


 澪の声は大きくない。泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、整理されすぎた静けさの中に、本物の温度だけが残っている。


「入院してるとね」


 彼女は続ける。


「学校の時間が、急に自分だけ別の速さになるの。みんなは授業して、休み時間に話して、放課後にどこか行って、そうやって毎日を進めていくでしょう」


「うん」


「でも、自分だけ止まってるみたいになる」


 門の向こうの石畳に、木の枝の影が細く落ちていた。風で揺れるたび、その影が澪の足元をかすめる。


「戻ってきたとき、もう前の話が分からないことがあるの。誰と誰が仲良くなったとか、どんな空気になってるとか。知らないうちに、わたしのいない時間が積もってる」


 その感覚を、僕は想像する。


 たった一日休んだだけでも、教室の空気は少し変わる。席替えがあったり、話題が移り変わったり、誰か同士の距離が縮まったりする。数週間ならなおさらだ。その間、自分だけが世界から少しずつ押し出されていく感じなのかもしれない。


「それで、紙を?」


 僕が訊くと、澪は頷いた。


「たぶん。最初は、なんでもいいから残しておきたかった」


「その日を?」


「うん。きれいだったこととか、聞こえた音とか、考えたこととか。そういう小さいものって、すぐなくなるから」


 彼女はそこで、少しだけ笑った。でもその笑いは明るくなかった。諦めに似た、薄い笑みだった。


「なくなるものを、最初から大切にしないなんて、わたしには無理みたい」


 前に一度聞いた言葉だった。けれど今日のそれは、図書室で交わした静かな会話ではなく、もっと深い場所から出てきているのが分かる。


 僕は門に手をかけることも、彼女に近づくこともできなかった。ただそこに立ったまま、言葉を探す。


「僕は」


 口を開いて、少しだけ息を継ぐ。


「忘れたくないと思うことがあっても、たぶんそのうち薄れるんだと思う」


 澪は黙って聞いている。


「でも、薄れるかもしれないからって、大事じゃなかったことにはならない」


 自分で言いながら、それがどれだけ澪の怖さに届くのか分からなかった。慰めとしては、たぶん弱い。完全な約束ではないからだ。


 それでも嘘は言えなかった。


 絶対に忘れない、なんて。


 そんなことを軽く言いたくなかった。


「……うん」


 澪は静かに頷く。


「たぶん、そうだよね」


「ごめん。うまく言えない」


「いいの」


 彼女は今度こそ、少しだけあたたかく笑った。


「君、きれいに終わる言葉を選ばないから」


 その言い方に、胸の奥がわずかに痛んで、同時に救われる。


 僕はポケットの中の手を握る。冷えた指先が掌に触れて、そこに自分の体温だけが残る。


「君まで」


 澪が不意に言う。


 声はさっきまでより小さかった。


「君まで、わたしを忘れたらどうしようって思うことがある」


 風が止んだ。


 遠くで車の走る音が一度だけ聞こえて、それきり、住宅街は驚くほど静かになった。門柱の脇の灯りに、細かな虫が一匹だけ寄ってきている。どこかの家から食器の触れ合う音がした。


 その静かな夕方のまんなかで、澪のその一言だけが、ひどく鮮明だった。


 僕はすぐに返事ができなかった。


 それは、ほとんど告白に近い響きだった。好きだと言われたわけではない。けれど、自分の記憶の中にいてほしいと、そう願われている。いや、それ以上かもしれない。忘れられることを怖がる澪が、その恐れを僕に向けて見せている。


 こんな重さを、僕は受け取っていいのだろうか。


 受け取りたいと思ってしまっているのに。


「忘れない」


 反射みたいに出かけた言葉を、僕は飲み込んだ。


 違うと思った。それでは足りないし、正しくもない。


 代わりに、ゆっくりと言う。


「覚えていたい」


 澪の睫毛が、わずかに震えた。


「たぶん、ずっと同じ形のままじゃいられないかもしれない。でも」


 自分の声が少しだけ掠れる。


「いま、こうして会って、話してることを、大事にしたい」


 それは約束というより、願いに近かった。


 でも澪は、しばらく何も言わずに僕を見ていたあと、ほんの少しだけ目を細めた。


「……それ、好き」


 前にも聞いた言葉だった。


 けれど今のは、図書室で交わしたときよりずっと深く胸に沈んだ。好き、という音の中に、安心と寂しさと、少しのあきらめまで混ざっている気がしたからだ。


 玄関の奥で、誰かがドアを開ける音がした。家の中の明るい空気が、わずかに外へ漏れてくる。


「澪」


 女性の声だ。母親だろうか。


「うん」


 澪が振り返って応える。


 その横顔は、家の灯りを受けて少しだけあたたかく見えた。けれど白さは消えない。薄い陶器みたいな危うさが、まだそこにある。


「ごめん。もう入る」


「うん」


「来てくれて、ありがとう」


 そう言ってから、彼女は少しだけ迷うように立ち止まる。


「明日、行けたら行く」


「無理しなくていい」


「でも、行きたいから」


 その一言が、妙に嬉しかった。


「じゃあ、図書室で」


「うん。図書室で」


 澪は門から離れ、砂利道をゆっくり戻っていく。灰色のカーディガンの裾が、歩くたびにかすかに揺れた。玄関の灯りの中へ入る直前、彼女は一度だけ振り返る。


 僕は小さく手を上げた。


 彼女もほとんど分からないくらいの動きで、指先を上げる。


 そのあと扉が閉まると、洋館はまた静かな家に戻った。


 帰り道、空は完全に夜へ落ちていた。


 街灯の下のアスファルトは、昼に残っていた水気をまだ少し抱えていて、踏むと鈍く光る。夜の住宅街には、昼間より音が少ない。遠くの電車の走る音と、見えない場所で鳴く虫の声、どこかの家のテレビが漏らす笑い声。そのすべてのあいだに、自分の足音だけが一定のリズムで続いていく。


 ポケットの中で、家の鍵が小さく触れ合った。


 覚えていたい。


 自分で言った言葉を、何度か心の中で反芻する。約束より頼りなくて、でも嘘ではない言葉。澪が欲しかったのは、もしかしたら完全な保証じゃなくて、その不完全さごと受け取ることだったのかもしれない。


 家に着いて机に向かうと、引き出しの中の紙片を取り出した。


 一枚目。きょうは雨の音がきれいでした。


 二枚目。ひとりに慣れるのと、ひとりが好きなのは、少し違う。


 その横に、今日は何も増えない。


 なのに、引き出しの中は前よりずっと重く見えた。澪の言葉が、紙の外側にまで滲んでいるからだ。


 窓の外では、昼間やんでいたはずの雨が、また少しだけ降り始めていた。


 最初は気のせいかと思うほど小さな音だった。ベランダの手すりに、ぽつ、ぽつ、と粒が当たる。やがてそれが線になり、夜の静けさの上を薄く流れていく。


 僕はしばらくその音を聞いていた。


 雨の音は、あの日から少し変わった。うるさいだけではなくなった。きれい、とまではまだ言い切れない日もある。でも、誰かの声と結びついた音は、簡単には元のただの音に戻らない。


 机の上のノートを一冊引き寄せ、僕はページを開く。


 何を書けばいいのかは、まだはっきりしなかった。ただ、今日という日も、どこかへ残しておきたかった。門の向こうに立つ澪の白い指先。湿った庭の匂い。夕方の空気の冷たさ。君までわたしを忘れたらどうしよう、という小さな声。


 僕は鉛筆を持つ。


 芯が紙に触れた瞬間、乾いた細い音がした。


 書いた文字は、澪のように綺麗ではない。急いでいないと言われた字も、今日は少しだけ乱れていた。けれど、それでもいいと思った。整っていなくても、残すことはできる。


 最初の行に、こう書く。


 今日は、夕方の空気が冷たかった。


 それだけで、胸の奥の不安が少しだけ形を持った気がした。


 たぶん明日、また図書室へ行く。


 澪がいるかどうかは分からない。それでも行く。もう、そこはただ本を読むだけの場所じゃない。なくなる前から、なくなるのが怖いものが、少しずつ増えていく場所だ。


 窓の外で、雨は静かに降り続いていた。


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