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第1話 しおりの一文



 雨の日の図書室は、いつもより少しだけ世界の輪郭がやわらかい。


 窓を打つ雫の音は細く途切れず、遠くで誰かがノートをめくる気配さえ、その向こうに沈んでいく。湿った空気に紙の匂いが混じっていた。古い本の乾いた繊維の匂いと、傘から落ちた水滴の冷たさが、静かな部屋の隅々にまで薄くひろがっている。


 放課後の図書室には、数えるほどしか人がいない。


 入口近くの新聞ラックには誰も立っておらず、閲覧席には三年生らしい男子がひとり、参考書に顔を寄せていた。司書の先生はカウンターの奥でラベルの貼り替えをしていて、はさみの小さな音だけがときおり聞こえる。


 そんな中で、僕はいつもの席に座っていた。


 窓際から二列目、文庫棚に近い四人掛けの机の端。ここに座ると、人の出入りが視界の端にだけ映って、ちょうどいい。近すぎず、遠すぎず、誰にも邪魔されない場所だ。教室にいると、自分がどこにいれば自然なのかたまに分からなくなるけれど、図書室ではそれがない。


 借りていた文庫本を閉じると、表紙のコーティングが指先にひんやりと張りついた。


 読み終えたばかりの余韻はまだ胸の内側に残っているのに、物語の熱だけが先に手のひらから逃げていく気がした。僕は栞代わりに挟んでいた貸出票を抜き取り、本をぱたんと閉じる。最後のページの端が少しだけ波打っていた。今日みたいな雨の日は、紙がすぐ湿気を吸う。


 立ち上がって返却棚へ向かおうとしたときだった。


 本のあいだから、細い紙片がひらりと落ちた。


 白、と呼ぶには少しやわらかい色だった。古い便箋を細く切ったみたいな、かすかに繊維の見える紙。床に落ちるまでがずいぶん遅く見えたのは、それがあまりに軽くて、空調の風にふわりと持ち上がったからかもしれない。


 僕はしゃがみこんでそれを拾う。


 紙はひどく薄くて、指の腹にのせると、そこだけ体温を奪っていった。半分に折られていたそれを開くと、中央に一行だけ文字があった。鉛筆で書かれた、小さくてきれいな字。


 『きょうは雨の音がきれいでした』


 たったそれだけだった。


 誰かのメモにしては説明が足りなくて、伝言にしては宛先がない。読書感想なら短すぎるし、落書きと片づけるには字が整いすぎていた。


 僕は返却棚の前に立ったまま、その一文をもう一度読む。


 『きょうは雨の音がきれいでした』


 言葉としては簡単なのに、妙に引っかかった。雨の音なんて、うるさいとか、憂鬱だとか、そういうふうにしか考えたことがなかったからかもしれない。けれど今、耳を澄ませてみると、窓ガラスを細かく叩く音と、屋根のどこかでまとめて流れ落ちる水の音は、たしかに違っていた。規則正しいようでいて、少しずつずれていく。そのずれが重なって、部屋の空気を薄く震わせている。


 きれい、なのかもしれない。


 そう思った瞬間、ただの雨音だったものが、急に耳に近づいた。


 僕は紙片を本の間に戻すべきか迷い、結局そのままポケットに入れた。返却棚へ本を置いたあとも、指先に残る紙の感触が消えなかった。


 誰が書いたんだろう。


 そんなことを気にする必要はないはずなのに、気になってしまった。


 貸出カウンターの前を通り過ぎるとき、司書の先生が顔を上げた。


「返却だけ?」


「はい」


「また降ってきたから、帰り気をつけてね」


「ありがとうございます」


 そう返しながら、僕は自然を装って新着棚の方へ回り込んだ。そこからなら、貸出記録カードの整理箱がよく見える。いまどき紙のカードなんて、もうほとんど使わない学校のほうが多いのかもしれない。でもこの図書室では、古い本にだけまだそれが残っていた。


 返したばかりの文庫のタイトルを探し、同じ背表紙を棚の端に見つける。取り出して最後の見返しを開くと、カードが一枚差し込まれていた。貸出日と名前が何人分か、青いインクで並んでいる。


 僕の名前のひとつ前に書かれていたのは、見慣れない名字だった。


 玻璃坂。


 読み方がすぐには分からない、ひどくきれいな字面だった。ガラスの玻璃に、坂道の坂。最近転校してきた子にそんな名字がいた気がする。教室のざわめきの中で一度だけ聞いた名前。前の席の女子たちが、すごい美人だとか、近寄りがたいとか、小声で言い合っていた。


 そのときは興味が持てなかった。どうせ教室の中心で笑う人たちの話だと思っていたからだ。


 けれど今、貸出カードの上の名前は、静かに僕の指先を止めていた。


 背後で椅子の脚が床を擦る音がした。僕は反射的に顔を上げる。


 文庫棚の向こうに、人が立っていた。


 最初に目に入ったのは髪だった。窓からの薄い光を吸った、青みがかった黒。まっすぐ落ちるその先だけがわずかに揺れていて、濡れた夜の表面みたいに見えた。肩より下まである髪のあいだから、白い頬と細い首筋がのぞく。制服の上に羽織った紺のカーディガンは少し大きくて、手首の先を半分隠していた。


 その子は、棚越しにこちらを見ていた。


 目が合った、と思うまでに、ほんの半拍の遅れがあった。瞳の色が黒ではないからだ。灰色に青を落としたような、温度の低い色。けれど冷たいわけではなくて、雨上がりのガラスみたいに、向こう側の光を薄く抱えていた。


 僕は慌てて本を閉じる。


「ご、ごめん」


 何に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。記録カードを見ていたことかもしれないし、図書室で名前の主を勝手に探してしまったことかもしれない。


 少女は少しだけ首をかしげた。


「どうして謝るの」


 声まで、雨の音に似ていた。


 高すぎず、強すぎず、耳もとに近づいてからようやく輪郭を持つような声だった。


「その、本を……借りてた人の名前、見えたから」


「見ようと思って見たの?」


「いや、違う。たまたま」


 言い訳がましくなった気がして、余計に居心地が悪くなる。教室なら、たぶんもう会話は終わっていた。相手が困ったように笑うか、無言で離れていくか、そのどちらかだ。


 でも彼女はそうしなかった。


「なら、いいよ」


 そう言って、文庫棚の角を回ってくる。足音はほとんどしない。靴底が床に触れるたび、制服のスカートの裾だけがかすかに揺れた。


 近くで見ると、思っていたよりずっと顔立ちが整っていた。目元も鼻筋も口元も、ひとつずつ見れば柔らかいのに、全部が揃うと妙に完成されていて、こちらの視線の置き場がなくなる。綺麗、というより、丁寧に描かれた絵がそのままこちらを向いたみたいだった。


 けれど、その完璧さのせいで近寄りがたく見えるのに、表情は不思議と静かだった。笑っているわけでも、警戒しているわけでもない。ただ、こちらの言葉を待っている顔。


 僕はポケットの紙片を意識した。


「これ」


 口が先に動いた。自分でも驚くくらい自然に、その紙片を取り出していた。


「本から落ちたんだけど」


 彼女は紙片に目を落とす。長いまつげの影が頬に薄く差した。


「返したほうがいいのかなと思って」


「そう」


 彼女は受け取らない。


 白い紙の上で、鉛筆の文字だけが小さく浮いている。


「君の?」


 そう訊くと、彼女は一度だけ僕を見た。視線はまっすぐなのに、どこか曖昧だった。


「そうかもしれないし、違うかもしれない」


「どっち」


「読んだなら、それでいいのかもしれない」


 意味が分からなくて、僕は瞬きをする。


 彼女のほうは困った様子もなく、ただ窓の外に耳を澄ませるように少し顔を傾けた。


「雨の音、ほんとうにきれいだから」


 さっき紙片にあったのと同じ言葉なのに、声で聞くと少し違った。文字では静かな独り言に見えたのが、いまはこの部屋全体へ向けて置かれたみたいに感じる。


「……あんまり、そう思ったことなかった」


「うるさいって思う?」


「たぶん」


「それも分かるよ」


 彼女は小さく微笑んだ。口元がほんのわずかにやわらいだだけなのに、窓辺の明るさが変わった気がした。


「でも、今日はやさしい音がする」


 僕もつられて窓のほうを見る。


 ガラスには細い水の筋が何本も流れていた。外の中庭は白く煙って、植え込みの緑がいつもより深く見える。鉄柵の向こうを走っていく車のタイヤが、水を切る音を遠くに残していった。


「やさしい、か」


「うん。誰にも急かされない感じがするから」


 彼女の言葉は、説明というより感覚そのものだった。理解した、とは言えない。でも分からないまま捨てるには惜しいものとして、胸のどこかに沈んでいく。


 しばらく、ふたりで黙った。


 沈黙が気まずくないのは珍しかった。たぶん彼女が、その静けさごと受け入れているからだ。無理に会話を継がなくてもいいと分かるだけで、人はずいぶん楽になる。


 やがて彼女が口を開く。


「それ、持っていて」


「え」


「紙」


「でも」


「読まれた言葉は、少しだけ生き残るから」


 その言い方があまりにも自然で、僕は何も返せなかった。


 生き残る。


 紙片に書かれた一文が、そんな大げさな意味を持っているようには見えなかったのに、彼女がそう言うと、たしかにただのメモではなくなる気がした。誰かの一瞬が、そのままここに折りたたまれているみたいだった。


 彼女は本を一冊、棚から抜き出す。背表紙の薄い文庫で、僕が先週借りようか迷ってやめたものだった。


「それ、面白い?」


 思わず訊くと、彼女は表紙を見下ろしてから答えた。


「まだ途中。でも、静かな本」


「静かな本ってあるんだ」


「あるよ。声の大きさみたいなものが、本にも」


 彼女はそこで初めて、ほんの少し楽しそうに笑った。目元だけに淡く浮かぶ笑みだった。


「君、この前ずっと同じページで止まってたでしょう」


「え」


「窓の外を見てた」


 図書室の空気が、一瞬だけ変わる。


 見られていた、と思った。いや、たぶん、見られていたというほど大げさではない。ただ、同じ部屋の中で、僕のことを視界から完全には外していなかったという、それだけのことだ。


 なのに胸の奥が不自然に跳ねた。


「……覚えてるんだ」


「うん」


 彼女は当たり前みたいに頷く。


「本を読む人って、少しだけ分かるから」


 その言葉の意味はよく分からなかったけれど、嫌ではなかった。むしろ、自分がただ背景の一部ではなかったことに、ひどく戸惑っていた。


 カウンターのほうで時刻を告げるチャイムが鳴る。閉室十分前の合図だった。


 彼女は手にした本を軽く持ち直す。


「借りるから、先に行くね」


「あ、うん」


 歩き出しかけた彼女が、ふと振り返った。


「君」


「なに」


「その紙、なくさないで」


 今度は、たしかに僕に向けて言った。


 やわらかいのに、なぜか少しだけ切実に聞こえた。


 返事をする前に、彼女はカウンターへ向かって歩いていく。青みがかった黒髪が、肩の後ろで静かに揺れた。司書の先生に貸出カードを渡す横顔は、曇った窓から差す薄い光の中で、触れれば消えてしまいそうなほど白かった。


 玻璃坂。


 きっと、あの名前で合っている。


 彼女が出ていったあとも、図書室にはまだ雨の匂いが残っていた。僕はポケットの中の紙片を指先で確かめる。薄い感触はそこにあって、折り目の角が肌に当たるたび、小さな存在を主張してくる。


 なくさないで。


 たった一枚の紙なのに、そう言われたせいで、急に意味を持ちはじめた。


 帰り支度をして図書室を出る。廊下の窓は外気で冷えていて、手の甲が触れるとじんとした。昇降口には湿った傘の匂いがこもり、床には点々と水の跡が続いている。


 下駄箱で靴を履き替えるとき、前のほうで女子たちが小さくざわめいていた。


「やっぱり綺麗だよね、玻璃坂さん」


「でもなんか近寄りづらくない?」


「分かる。優しいけど、壁ある感じ」


 その会話の向こうで、彼女は傘を開いていた。


 透明なビニール傘に、雨粒がぱらぱらと跳ねる。横顔はやっぱり整いすぎるほど整っていて、けれど誰にも触れさせない透明な膜を一枚まとっているように見えた。


 彼女は人波の中へ消えるように校門の方へ歩いていく。


 呼び止める理由なんてない。だから僕は何もしないまま、その背中を見送った。


 ただ、ポケットの中の紙片だけが妙にあたたかくなっていた。


 家に帰って制服を脱ぎ、机の前に座ってからも、僕はそれを取り出して何度も読んだ。部屋の窓を叩く雨は学校より少し強くて、屋根を伝う水の音が長く尾を引く。


 きょうは雨の音がきれいでした


 鉛筆の線は細く、ところどころわずかに濃さが違う。書いた人の指先の力が、そのまま残っているみたいだった。便箋を切ったような紙の端は、定規ではなく手で折ってから裂いたのか、ほんの少し毛羽立っている。


 それを、教科書の間に挟もうとして、やめた。


 代わりに机のいちばん上の引き出しを開けて、誰にも見られない奥へそっと入れる。閉じたあとも、そこにあると分かるだけで少し落ち着かなかった。


 たった一度、図書室で話しただけだ。


 名前だってまだ読み方を知らない。


 なのに、明日もまたあの場所へ行けば、彼女がいるかもしれないと思ってしまう。


 窓の外で雨はまだ降り続いていた。耳を澄ますと、たしかに音がいくつも重なっている。ベランダの手すりを叩く軽い音、遠くの道路で水を切る重い音、隣家の樋を流れる細い音。


 そのどれもが、昨日までとは少しだけ違って聞こえた。


 机の引き出しの中で、あの一文はまだ静かに生きているのかもしれない。そう思ったとき、胸の奥に小さな熱が灯った。


 次に借りる本を、もう決めてしまっている自分に気づく。


 それは、彼女が手にしていた、静かな本だった。


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