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脳の中には神経と呼ばれる回路が存在し、微弱な魔力が常に流れているという。
かつて僕が住んでいた日本の常識で言えば、脳内の情報伝達は、電気的な活動電位と化学的な神経伝達物質の組み合わせによってなされていたはずだ。
異世界ではこの情報伝達を、魔力が補っているという。
僕は脳と神経の仕組みを知識として知ってはいたが、頭の中に神経がどのように走っているのか確認したことはない。
第四位階魔法【鑑定】を使用することで、この神経の中を通る魔力を探知することが、ヤエの速度に達するための第一歩だ。
「ヤエ公爵、速さの秘訣を教えていただきありがとうございました。先ほどのお話を参考に、少し実験させていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんどうぞ」
「ありがとうございます。それでは【鑑定】」
僕は【鑑定】で頭の中がどのようになっているのか探っていく。
しかし何もわからない。
本当に微弱な魔力が常に流れているというのだろうか。
ヤエの話によると、魔力容量が少なければ少ないほど【鑑定】の精度が上がるのだという。
だとすれば、僕ほど魔力容量が【極めて少ない】人間はそうそういないであろう。
何か、鑑定の精度に影響をあたえるような要素は他にないだろうか。
「ヤエ公爵、すみませんが、カーテンを閉めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいですよ。誰か」
ヤエ公爵の後ろで控えていたメイドが、厚手のカーテンを閉めてくれた。
これで、応接室に差し込む陽の光は遮断することができた。
僕は太陽の光を浴びていると、魔力が無限に回復するという特殊な体質をしている。
普段はこの体質に助けられているのだが、もしかすると【鑑定】の精度に影響を与えている可能性がある。
さらに、魔木の指輪も念の為全て外した。
魔木の指輪はモモチから買い取ったもので、僕は両手の親指から小指まで計10個を身につけている。
指輪には一つ当たり約100の魔力が蓄積されており、指輪の魔力を使って魔法を使うことも出来るし、魔力を指輪から吸収することも出来る。
さらに僕が身につけている物で魔力を蓄えているのは、神の枯枝だ。
これはツキの本体であるケヤキの世界樹から採取したもので、かつて僕はもりんちゅ1号に搭乗し、神の枯枝を振るって雲を割った。
その神の枯枝の小ぶりなものを、僕は護身用ナイフのように鞘に入れて装着していた。
小さいながらも魔力蓄積量は破格の1万であり、特に夜間は肌身離さずに身につけている。
当然、これも外してテーブルの上に置く。
後は僕の右腕に絡みついているユリネだが、僕はユリネを優しく起こして隣の椅子の上に移動させた。
これで僕は素寒貧の魔力容量が【極めて少ない】弱弱落ちこぼれ魔法士となった。
フジ山の精霊殿で精霊御膳を食べることにより、元々10だった魔力容量が20に増えているが、それぐらいは許容範囲だろう。
これまで僕は【鑑定】を使う時は魔木の馬車に蓄えた魔力を使っていたりして、素の状態で【鑑定】を使うことはあまりなかった。
それに加えて、脳の内部を【鑑定】するという発想が今まで無かったし、魔力が少ない方が【鑑定】の精度が上がるというのも初耳だ。
なので、この【鑑定】は僕にとって初めての試みである。
「それでは、【鑑定】うわっ!」
【鑑定】を使用した僕は驚いて声を出してしまった。
僕の脳内には、まるで銀河の星々のように無数のシナプスが存在し、神経伝達物質が絶え間なく放出されているのがわかる。
ぼんやりと霞がかったように見えるのは極細い神経が無数に錯綜しているからで、微弱な魔力が常に流れているようだ。
まるで小宇宙に迷い込んだような気分だが、ヤエの話によるとここで第五位階魔法【強化】を使うとさらに別次元の効果があらわれるらしい。
「ほう、ゼルコバ様にも感じ取ることができたようですね」
「はい、おっしゃる通り、脳の中には無数の神経が張り巡らされており、常に微弱な魔力が流れているようです」
「それはよかった。ゼルコバ様は新たな世界に足を踏み入れたようですね」
「はい、それでは勝負の続きをお願いします」
「いつでもどうぞ」
「それでは、【強化】」
その瞬間、僕が認識する世界は激変した。
先ほどまで遠音で聞こえていた音楽はいつのまにか止まっていたが、しかし意識を集中するとすぐ近くで音が鳴っているようにも聞こえる。
しかし音楽が進行することはない。
僕の体感時間が引き伸ばされて、一瞬が永遠に近い状況になっているからだ。
この無限の世界で動くことが出来るのは、僕の他にはただ一人、ヤエしかいない。
ヤエは先ほどまでとは違い、僕が手を伸ばす前からすでに動き始めていた。
スローモーションの世界の中で、唯一ヤエだけが動いている。
僕も動かなければならない。
手を伸ばしてお手玉を取ろうとするが、ヤエの方が先に動き始めているため、このままでは間に合わない。
さらにもう1段階、速度を上げる方法はないか。
魔法はイメージだ。
そして魔法には無数の使い方がある。
ヤエに教えてもらったように、自らの脳内を【鑑定】して神経を直接【強化】するなど、第五位階以下の魔法にも知らないことがまだまだありそうだ。
例えば僕は、第一位階魔法【性質変化】と第二位階魔法【形状変化】を応用することで、異世界では再現不可能な強度の魔力ロープを作り出すことができる。
ロープは解せば糸となり、さらに解せば繊維となる。
繊維は元を辿ればさらに細かい繊維がより集まった物で、さらに拡大してみれば無数の分子が結合した物だ。
さらに細かく見ていくと、原子があり、原子核には陽子と中性子があり、電子を伴っている。
僕が作り出す魔力ロープを細くしていけば、神経回路の模倣を脳内に作り出すことが出来るのではないだろうか。
僕の手はこのままいくとお手玉に届かない。
ヤエの手が先に届くだろう。
さらなる工夫を求められている。
僕は直感に従い、第二位階魔法【形状変化】と第五位階魔法【強化】を同時に発動することにした。
先ほどまでは漠然とした形状だった【強化】が、僕の神経回路をコピーするかのように広がっていく。
僕は繊維の一本一本まで忠実に再現した魔力神経回路を、自らの神経回路に一体化させて魔法を発動させた。
「(第二位階魔法【形状変化】、第五位階魔法【強化】!)」
すると、世界が止まった。
応接室に待機している使用人たちは息すらしていないし、なんなら心臓も動いていない。
部屋に漂う微細な埃は空中で停止し、カーテンを閉めたために灯されたランプの炎は彫刻のように固まっている。
ヤエの動きも止まっている。
白濁した瞳は僕の胸の辺りに向けられており、なぜか微笑を湛えている。
そのヤエの迫り来る右手を追い越し、僕はついにお手玉を掴んだ。
「(やった、取れたぞ!)」
喜びもつかの間、僕の意識はお手玉を取ったところで暗転した。
僕はこの時、あまりにも長い時間、止まった世界を維持し続けてしまったのである。
1秒にも満たない刹那の時を濃密に体験した僕は、お手玉を手にしたまま笑顔で気絶していたという。
当の僕自身は気絶したことにすら気がついておらず、次に目を覚ました時は見知らぬベッドの上に横たわっていたのであった。
目を覚ました僕の胸には、なぜか、大変良く出来ました、と書かれた花マルが取り付けられていたのであった。




