第9話 今日からお前は俺の相棒(財布)だ
フォルトゥーナを出た俺は、その足で近くの酒場に向かった。
勝利の余韻に浸りながら一杯やるつもりだったが、席に着いて早々、店の主人に声をかけられた。
「兄さん、もしかしなくても、フォルトゥーナの二番卓で暴れた客かい?」
「耳が早いな」
「そりゃ早いさ。この街でリーゼロッテを負かした客なんて、開店以来聞いたことがない。もう噂で持ちきりだよ」
主人は興奮気味にそう言うと、頼んでもいない酒を一本、サービスでテーブルに置いていった。異世界とはいえ、こういう「話題性で得をする」構造は元の世界と変わらないらしい。
酒場の中を見回すと、既に何人かの客が俺の方をちらちらと窺っているのが分かった。噂話というのは、こういう狭い街ではあっという間に広まるものらしい。誰かが「あれがフォルトゥーナの二番卓を陥落させた男か」と囁くのが聞こえた。悪い気はしない。むしろ、こういう注目を浴びる状況は嫌いじゃなかった。前世でも、勝負師として名を上げることには一種の中毒性があった。
俺はグラスを傾けながら、懐のチップを数え直した。フォルトゥーナで現金化した金額は、想像以上のものだった。宿を取り、しばらく遊んで暮らせるどころか、この街で小さな店の一つも構えられそうな額だ。異世界転生初日にしては、上出来にも程がある。
酒場の中では、他の客たちも昨夜の噂話に花を咲かせていた。「リーゼロッテを負かした男がいる」という話は、既に街の裏社会にまで広がっているらしい。誰かが「それは相当な手練れの博打打ちに違いない」と言えば、別の誰かが「いや、そんな生易しいものじゃない、何か特別な力を持っているんじゃないか」と応じる。まさか本当に神様からチートを貰っているとは、誰も思わないだろう。それを想像すると、思わず笑いがこみ上げてきた。
それにしても、たった一日でここまで来られるとは、我ながら驚きだった。側溝に落ちて死んで、女神からチートを授かって、路地裏の賭場で軍資金を稼いで、フォルトゥーナに乗り込んで、裏部屋のイカサマ師と用心棒を返り討ちにして、最強のディーラーを追い詰めた。前世の人生二十四年分よりも、この一日の方が濃密だったかもしれない。
(それにしても……)
俺は先ほどのリーゼロッテの顔を思い出していた。「考えておきます」という一言。完璧な仮面の下に、確かに人間らしい何かがあった。あの女がどんな答えを出すのか、想像するだけで胸が高鳴る。
酒を飲み干し、俺は宿を取ることにした。今夜ばかりは、ゆっくりと体を休めたい。明日、返事を聞きに行けばいい。焦る必要はどこにもなかった。
*
翌朝、俺はもう一度フォルトゥーナへ足を運んだ。
昨夜の大勝負の噂は、想像以上に広まっていたらしい。フロアに入った瞬間、周囲の視線が一斉にこちらへ集まるのを感じた。「あの客だ」「二番卓のあいつだ」という囁きが、あちこちから聞こえてくる。悪い気分ではない。むしろ心地よかった。
受付の係員も、昨日とは明らかに態度が違った。あからさまに緊張した面持ちで会釈をしてくる者もいれば、興味津々といった様子でこちらを観察してくる者もいる。フォルトゥーナという店にとって、リーゼロッテが客に敗れたという事実は、それだけ衝撃的な出来事だったのだろう。
二番卓に向かうと、リーゼロッテはいつも通り、涼しい顔でカードを扱っていた。だが、こちらに気づいた瞬間、その手が一瞬だけ止まった。
「……アキト様」
「おう。返事、聞きに来たぜ」
リーゼロッテはしばらく無言だった。周囲の客の視線が、二人のやり取りに集まっているのが分かる。それでも彼女は、いつもの平静な調子を崩さずに口を開いた。
「勤務中です。私用の話は、休憩時間にお願いできますか」
「律儀だな、こういう時まで」
俺は苦笑した。だが、それも嫌いじゃない。むしろ、こういう堅物なところが、この女の面白いところだ。仕事とプライベートをきっちり分ける姿勢は、昨夜の勝負の間も一貫していた。感情の起伏をどれだけ揺さぶられても、最低限のプロ意識だけは崩さない。それがこの女の芯の強さなのだろう。
*
昼過ぎ、リーゼロッテの休憩時間に、俺たちはフロアの隅にある従業員用の休憩スペースで向かい合った。
「それで、返事は」
俺が切り出すと、リーゼロッテは一つ息をついてから、静かに話し始めた。
「昨夜、あなたに敗れてから、ずっと考えていました。私はこの店で、十年以上働いています。給金は悪くありません。地位もそれなりに得ました。ですが」
「ですが?」
「正直に申し上げますと――退屈していました」
その一言に、俺は思わず眉を上げた。あの完璧な仮面の女が、退屈という感情を口にするとは思わなかった。
「この店に来る客の九割九分は、私の相手ではありません。技術も、度胸も、話術も。誰もが同じような手で挑み、同じように負けていく。刺激的な勝負などほとんど存在しませんでした。ですが、あなたは違いました」
「光栄だな」
「あなたは私を負かしました。それも、一度や二度ではなく、私が全力を出しても届かないところで。あんな経験は、初めてでした」
リーゼロッテは、そこで初めて、しっかりとこちらの目を見た。
「昨夜の勝負を終えてから、久しく忘れていた感覚を思い出しました。心臓が高鳴る感覚です。負けるかもしれない、いや、負けるだろうという恐怖と、それでも次の一手を見たいという好奇心が、同時に胸の中にありました。百年以上生きてきて、あんな感覚を味わったのは初めてでした」
俺は黙って聞いていた。この女が、これほど饒舌に自分の内面を語るのを見るのは初めてだった。普段の淡々とした業務口調とは違う、どこか噛みしめるような話し方だった。長い年月を、完璧な仮面の下に押し込めてきた何かが、少しずつ表に出てきているようだった。
「あなたの下で働けば、退屈しない日々が続くのでしょうか」
「保証はできねえよ」
俺は正直に答えた。
「だが、少なくとも退屈だけはさせない自信はある。俺はろくでもない男だ。働くのは大嫌いだし、楽して金儲けがしたいし、美味い酒と美女に目がない。おまけに手癖も悪い。だが――」
「だが?」
「勝負に手を抜いたことは一度もない。それだけは誓える」
リーゼロッテはしばらく沈黙した。それから、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「分かりました。お受けいたします」
「マジか」
「言葉を疑うのですか」
「いや、まさか。ただ、こんなにあっさり決めるとは思わなかっただけだ」
「私も、あっさり決めたわけではありません。昨夜、一晩中考えました」
リーゼロッテは静かに続けた。
「あなたという人間は、間違いなくろくでなしです。初対面から、風を操って私のスカートをめくろうとするような男です。ですが、その一方で、勝負に対する誠実さだけは本物でした。矛盾した人間だと思います。ですが、その矛盾が、私には妙に興味深く映ったのです」
「褒めてんのか貶してんのか分からねえな」
「両方です」
「ただし、条件があります」
リーゼロッテはすっと背筋を伸ばした。
「あなたの金銭管理は、私が全て担当させていただきます。昨夜のような大勝負で得た金を、あなたのような人間に自由にさせておけば、あっという間に酒と女に消えることは目に見えています」
「……お前、初対面でそこまで俺のこと分かるのか」
「顔に書いてあります」
俺は思わず吹き出した。この女、口が悪いわけではないのに、時々とんでもなく手厳しい。
*
その日のうちに、リーゼロッテはフォルトゥーナに退職の意を伝えた。長年の功績があったためか、店側からは強い引き止めがあったらしい。支配人らしき壮年の男が直々に出てきて、給金の引き上げから待遇の改善まで、あらゆる条件を提示してきたと後から聞いた。だが彼女の意志は固く、最終的には円満に送り出されることになった。
「本当に、いいのか。あんたほどの腕があれば、この店でもっと良い条件を引き出せたんじゃねえのか」
「良い条件というのは、退屈しのぎには代えられません」
リーゼロッテはそう言って、荷物をまとめた鞄を肩にかけた。フォルトゥーナの制服を脱ぎ、普段着に着替えた彼女は、これまでとは少し印象が違って見えた。仕事着から解放されたことで、どこか肩の力が抜けたような雰囲気がある。白銀の髪をまとめていたお団子も、少しだけ緩めに結い直されていた。
「その髪型、いつもとちょっと違うな」
「勤務中はきっちりまとめる決まりでしたので。もう関係ありませんから」
「へえ、そういう細かい規則もあったのか」
「フォルトゥーナは、細部にまで拘る店でした。それも含めて、悪くない職場ではありました」
リーゼロッテは名残惜しそうに、フロアの方をちらりと振り返った。十年以上勤めた場所を離れる感慨が、その横顔に一瞬だけ滲んだ。だがそれも、すぐに消えた。
「それで、これから何をするのですか」
「決まってるだろ」
俺は懐のチップを軽く叩いてみせた。
「この稼ぎを元手に、もっとデカい勝負に出る。この街のカジノを、片っ端から食い荒らしてやるのさ」
「随分と欲張りな計画ですね」
「クズなんでね」
リーゼロッテは呆れたように、しかしどこか楽しげに小さく息を吐いた。
「まあ、そのくらい欲張りな方が、退屈しなくて済みそうです」
「話が分かるじゃねえか」
「ただし」
リーゼロッテは指を一本立てた。
「無計画な散財と、無謀な大博打だけは、私が全力で止めさせていただきます。あなたの『勝負師としての矜持』は尊重しますが、『クズとしての本能』の暴走までは尊重できません」
「厳しいなあ、おい」
「厳しくなければ、あなたの財布はすぐに空になります」
俺は苦笑しながらも、悪くない、と思った。この手厳しさこそが、この女を相棒に迎える価値だ。俺一人では絶対に持てない視点を、この女は持っている。
「今日からお前は俺の相棒――」
俺はそこで一度言葉を切り、にやりと笑った。
「――兼、財布だ。よろしく頼むわ」
「……その言い方、後で撤回を求めても?」
「求めるだけなら自由だぜ」
リーゼロッテは呆れた顔をしながらも、拒否はしなかった。その様子に、俺は満足げに頷いた。
異世界に来てまだ二日目。だというのに、既に懐は温かく、頼れる相棒まで手に入れた。前世では考えられないほどの速度で、俺の異世界ライフは加速している。
だが、これで満足するつもりはない。ここはまだ、序章にすぎない。この街には他にも大きなカジノがあり、まだ見ぬ強者がいて、そしてこの世界特有の何かが、まだまだ俺の前に転がっているはずだ。
「さて、リーゼロッテ」
「なんでしょうか」
「次はどこを攻める?」
リーゼロッテは呆れた顔をしながらも、懐から小さな帳面を取り出した。フォルトゥーナで培った経営感覚を、早速働かせているらしい。
「この街には、フォルトゥーナ以外にも中規模のカジノが三つあります。いずれも、フォルトゥーナほどの規模ではありませんが、それぞれに特色があります」
「へえ、詳しいじゃねえか」
「同業他社の情報収集は、基本です」
リーゼロッテは帳面のページをめくりながら、淡々と説明を続けた。
「一つは貴族向けの高級会員制クラブ。もう一つは庶民向けの大衆賭博場。そして三つ目は、少々怪しい噂のある店です。裏で違法な賭博が行われているという話もあります」
「面白そうなのは三つ目だな」
「予想通りの答えですね」
リーゼロッテは小さくため息をついた。だが、その口調に非難の色はなかった。むしろ、こちらの反応を最初から見越していたような、余裕すら感じられた。
「ですが、飛び込む前に、まずは情報を集めるべきです。相手の素性も分からないまま突撃するのは、勝負師としては褒められた行為ではないと思いますが」
「分かってるじゃねえか、それでこそ相棒だ」
俺は思わず笑った。この女がいれば、これまでのような無計画な突撃も、もう少しだけ賢く立ち回れそうだ。もっとも、その賢さに全面的に従うつもりも、正直あまりない。時には無鉄砲な勝負を選ぶことも、俺という博徒の生き方には必要だ。だが、その時々の判断材料が増えるのは、悪い話ではなかった。
「よし、決めた」
俺は立ち上がり、伸びをした。
「まずは腹ごしらえだ。それから、次のカモを探しに行こうぜ」
「カモ、ではなく対戦相手と呼ぶべきでは」
「細けえことはいいんだよ」
リーゼロッテは小さくため息をついたが、その口元には、確かに小さな笑みが浮かんでいた。フォルトゥーナで見せていた完璧な仮面の笑みとは、明らかに質の違う、自然な笑みだった。
こうして、クズ博徒アキトと、元凄腕ディーラーのエルフ、リーゼロッテの奇妙な相棒関係が、正式に始まった。異世界での本当の意味での冒険――いや、博打の旅は、まだ始まったばかりだった。
二人は連れ立って酒場を後にし、賑わう大通りへと歩き出した。次にどんな勝負が待っているのか、どんな相手と対峙することになるのか、今の俺にはまだ分からない。だが一つだけ確かなことがある。この相棒がいる限り、この先の異世界ライフは、決して退屈なものにはならないだろう。
差し込む陽光の中、白銀の髪を揺らしながら隣を歩くリーゼロッテの横顔を、俺はちらりと盗み見た。彼女もまた、心なしか軽い足取りでこちらの隣を歩いている。フォルトゥーナで見せていた完璧な仮面の表情は、今は少しだけ緩んでいるように見えた。
この街で、これからどんな博打が待っているのか。想像するだけで、腹の底が疼くような高揚感が湧き上がってくる。それこそが、俺という男が生きる理由そのものだった。銅貨三枚から始まった異世界二日目は、こうして頼れる相棒と共に、次なる勝負へと歩み出していった。この先どんな困難が待ち受けていようとも、この相棒さえいれば、きっと乗り越えられる。そんな確信めいた予感が、俺の胸の中に静かに宿っていた。




