第8話 クズの本領発揮、ブラフの幕開け
六十手目から、地獄が始まった。
全力のリーゼロッテは、半端ではなかった。
これまでも十分すぎるほど強かったが、「本気を出します」と宣言した後の彼女は、別の生き物のように見えた。カードを配る手の動きがより鋭く、より速く、より正確になった。ベットの判断が研ぎ澄まされ、こちらが「次はこう来るだろう」と読んだ一手の先を、常に半歩上回ってくる。
俺がチートで手牌を底上げすれば、それを見越したかのように慎重に降りて損失を最小化する。ブラフを仕掛ければ、「これはブラフだ」と判断して強く受けてくる。チートとブラフを混ぜれば、その「混ざり具合」ごと計算に組み込んで対応してくる。
完璧だ。さっきまでと比べても、明らかに「別次元」の集中力だった。
思えばこの女は、百二十年以上をプロのディーラーとして生きてきた。それだけの時間をかけて積み上げた技術と経験が、今この卓で全解放されている。二十四年しか生きていない俺が、真っ向から張り合えるはずもない。それでも今まで互角に戦えていたのは、チートとブラフという「規格外の手段」があったからだ。だが、その規格外の手段すら、全力のリーゼロッテには通じにくくなっている。
六十五手目を終えた時点で、俺のチップはまた最初の五割弱まで削れていた。取り戻した分が、またみるみる持っていかれている。残り魔力を計算しながら、俺は頭の中で算盤を弾いた。
(まずい。このペースだと、チートを使い切る前に詰む)
魔力残量はまだある。だが、リーゼロッテの全力状態に対してチートを小出しに使い続けても、その全てを「最小限の被害で凌ぐ」方向に処理されてしまっている。つまり、小さく稼いでも、それ以上に小さく削られている状態だ。
このままでは、じり貧で沈む。
*
七十手目。俺はいったん手を止めた。
ベットの前に、チップを指先でゆっくりと弄びながら、俺は思考を整理した。ここまでに分かっていること。リーゼロッテの全力状態は、チートもブラフも通じにくい。これほどの読みの精度になると、どんな技術的な手も、ほぼ正確に見切られてしまう。
では、どうするか。
答えは一つだ。「読まれてもいい手」を打てばいい。
技術で読み勝てないなら、技術で勝とうとするのをやめる。代わりに、「読んでも意味がない状況」を作り出す。それがブラフの本質だ。相手にこちらの手が見えていても、それでも降りざるを得ない状況――すなわち、降りることのコストが、受けることのリスクを上回る局面を、人為的に作り出すこと。
つまり、ここからは規模の問題だ。
チートでもブラフでも、一手一手の精度で戦う段階は終わった。次に打つべきは、「一発で勝負を終わらせる規模のベット」だ。残りのチップを全部、あるいはそれに近い量を積み上げる。そうすることで、リーゼロッテは「降りれば今の差を維持できるが、受けて負ければ自分も大きく傷つく」という選択を迫られる。
その選択の瞬間に、俺はブラフを叩き込む。
もちろん、これには一つの大前提がある。俺自身が持っている手は、できるだけ強くなければならない。弱い手で全額を積んで、リーゼロッテが受けた場合、負ける。だから今夜最大のチートを、この一手に注ぎ込む。チートで最強手を引き込みながら、それを「自信なさげなブラフ」に見せて相手を降ろす。チートとブラフを完全に融合させた、今夜の最終兵器だ。
(賭けになる。だが、これしかない)
チップを静かに置き直しながら、俺は腹を決めた。
*
七十三手目。
俺は【絶対因果】を発動した。今夜最大規模の操作だ。「次の手牌で、最強クラスの役が揃う確率」を最大限まで引き上げる。魔力の消費がどっと押し寄せる感覚があった。指先に熱が集まり、それが一瞬で散った。
これで今夜の魔力はほぼ使い切りになる。後がないということは、この一手に全てを賭けるということだ。万が一チートを使っても最強手が来なかった場合――あるいは手は揃っても、リーゼロッテが受けに回って結果的に俺の負けになった場合、今夜の全てが消える。宿もない、飯代もない、それどころか明日の路銀すらない状況に逆戻りだ。だが、そういう「絶対に負けられない一手」こそが、博打の本当の醍醐味じゃないか。恐怖よりも先に、腹の底から高揚感が来た。
リーゼロッテがカードを配った。
五枚のカードを手元に引き寄せ、そっと傾けて確認した。
ロイヤルストレートフラッシュ。この勝負における、絶対的な最強手だ。同じ柄で十、ジャック、クイーン、キング、エースが揃う、理論上の最高の手。これに負ける手は存在しない。
(上等だ)
だが、俺はそのカードの強さを表情に出さなかった。むしろ、微妙に間を置いて、迷っているように見せた。最強手を持っていながら、「どうしようか」という演技をする。この逆説的な行動が、今日の締めの布石だ。
弱い手を持っている時のように眉を寄せる。チップを手に取り、また置く。もう一度手に取り、少しだけ積む。「自信がないように見せる」所作だ。その差は外からは分からない。分からないからこそ、意味がある。
リーゼロッテがこちらを見ていた。全力モードの鋭い目で、俺の全てを読もうとしている。この女の全力の観察眼が、俺の一挙一動を精査している。それが分かるからこそ、俺は徹底的に「弱者の振る舞い」を演じた。
リーゼロッテが、大きくレイズしてきた。
(来た)
この女は、俺の「迷い」を弱さと読んだ。全力モードで研ぎ澄まされた彼女の観察眼が、「アキトは今、自信のない手を持っている」と判断した。それは正しい読みだ。普通の状況なら。しかし今回、チートで引き込んだ手は最強だ。
俺は静かに、全てのチップを積んだ。
フォルトゥーナの二番卓に、静寂が落ちた。
周囲の観客が、誰一人声を出さなかった。誰かが息を呑む音だけが聞こえた。全額。俺の持ちチップの全てが、今卓の上に積まれている。これで負けたら本当の文無しだ。だが、今更引くつもりはない。博打打ちが一度積んだチップを引っ込めるようでは、それはもう博打ではない。
リーゼロッテは動かなかった。
今度の沈黙は、これまでのどれよりも長かった。五秒、十秒、十五秒。彼女の目が俺の顔を、チップを、俺の手元を、また顔を、順番に見ていく。考えている。計算している。「アキトが持っている手は何か。この全額ベットは本気か、ブラフか」。
俺は微動だにしなかった。呼吸も一定に保った。心臓が騒いでいるのを、意識で押さえ込んだ。
これは純粋な化かし合いだ。チートで最強手を持っているが、それをリーゼロッテには見えない。彼女の目には、「自信なさげにしていたアキトが、突然全額を積んだ」という事実しか映らない。それが本物の強さから来るのか、絶望的な賭けから来るのか――判断できない状況を、俺は意図的に作り出した。
フロア全体が、二番卓に引き寄せられていた。ルーレットの音も、ダイスの音も、どこか遠くなった気がする。二十人以上の観客が、この卓を囲んで固唾を呑んでいた。フォルトゥーナでこれほどの規模のドラマが生まれたのは、いつ以来のことだろう。
三十秒が過ぎた。
「……」
リーゼロッテが、口を開いた。
「アキト様」
「なんだ」
「あなたは今、笑っていません」
俺は一瞬、意味を考えた。
「これまでのブラフの時、あなたは必ず口元を緩めていた。今は違う」
(しまった)
俺はその瞬間、自分の表情を強く意識した。彼女の言う通りだ。大ブラフの時、俺はいつも「勝てる」という確信からくる笑みが出ていた。しかし今回は、チートで本当に最強手を持っている。ブラフではないから、「ブラフの時の笑み」が出ていない。逆説的に、それが「本物である」というサインになってしまった。
だが、リーゼロッテはそれを「笑っていないから弱い手」と読むか、「笑っていないから本物の強手」と読むか、まだ判断しきれていない顔をしていた。この女でも迷う局面がある。ならば――
今から笑えばいい。
俺はゆっくりと、口の端を吊り上げた。
「鋭いな」
「……」
「でも、その読みが正しいかどうかは、めくってみなけりゃ分からないだろ」
俺は静かに続けた。
「笑ってなかったのは、全額を積む緊張感があったからだよ。これだけの金が動くんだ。さすがに心臓に来るさ」
それは半分本当で、半分嘘だ。緊張していたのは事実。だが理由が違う。しかしリーゼロッテには、「アキトが緊張しながら賭けている=弱い手かもしれない」という解釈と、「アキトが本物の強手でわざと緊張を演じている」という解釈が、同時に成立してしまっている。
また沈黙があった。今度は短い。
リーゼロッテが、カードを卓に伏せた。
フォールドだった。
会場が静まり返った一拍の後、観客の間から声が上がった。「降りた」「リーゼロッテが降りた」。その声が波のように広がっていく。俺はチップを引き寄せながら、ここで初めて深く息を吐いた。
*
チップが、俺の手元へ戻ってきた。
膨大な量だ。これまでの勝負の流れの中で積み上がった、今夜最大のポットが、全部こちらへ来た。一気に、最初の持ち金をはるかに超える量になった。
周囲の観客が、どっと沸いた。誰かが叫んだ。誰かが手を叩いた。「リーゼロッテが降りた」「しかも全額に対して」という声が飛び交った。フォルトゥーナの二番卓で、この種の結末を見たことのある客は、ほとんどいないはずだ。フロアの奥からも人が流れてくる気配があった。勝負の最後の瞬間を見逃した者たちが、何が起きたのかを聞き回っている。
リーゼロッテは静かに座っていた。カードを集める手も、表情も、乱れていない。だが、その静けさが、今は別の意味を持って見えた。嵐の後の凪。感情を押さえているのではなく、感情の全てを出し切った後の、虚脱に近い静寂だ。
「……見事でした」
彼女は、短くそう言った。
「ありがとよ」
「一つ、確認させてください。最後の手は」
「強い手だったよ」
俺は正直に答えた。
「チートを使ったのか、と聞くわけにはいきませんね」
「ご想像にお任せする」
リーゼロッテはしばらく沈黙した。それから、初めてはっきりと口元を動かした。笑ったのか、それとも何か別の感情の動きなのか、俺には判断できなかった。だがその表情は、これまでに見せたどの顔とも違う、ほんの少しだけ「人間らしい」ものだった。
「あなたのような方と勝負したのは、初めてです」
「そりゃどうも。俺もだよ」
俺はチップの山を眺めながら、さて、と内心で考えた。今夜の稼ぎはかなりのものだ。宿も取れる。飯も食える。しばらく遊んで暮らせる分は、十分にある。
だが、それだけでは終わらない気がした。
この女がいれば、もっと大きなことができる。計算能力、記憶力、ディーラーとしての専門知識、そしてカジノというフィールドでの実務経験。俺一人ではたどり着けない場所へ、この女と組めば行ける。そういう確信が、気づいたらそこにあった。
それに、率直に言って、この女のことがもっと知りたかった。百二十年以上生きてきて、完璧な仮面を纏って仕事を続けてきたエルフのディーラー。その仮面の内側に何があるのか。今夜の勝負の終盤で、かすかに見えた「人間らしさ」の正体が何なのか。
そういう好奇心が、俺の胸の中にあった。
「なあ、リーゼロッテ」
「……はい」
「俺と組まないか」
リーゼロッテの目が、かすかに動いた。
「今夜の勝負で、俺はあんたをほぼ全額で買ったようなもんだ。この店で働き続けるより、俺の相棒になった方が、ずっと面白い思いができると思うぜ」
「……それは、プロポーズですか」
「採用の打診、だ」
沈黙が続いた。リーゼロッテは俺を見ていた。その目に何が映っているのか、今の俺にはまだ読めない。だが、少なくとも即座に拒絶はされなかった。今夜の勝負の中で、俺という人間の少なくとも一部は、この女に伝わったはずだ。クズで、欲望に忠実で、チートをセクハラに使うような男だが、勝負に対しては正直だということくらいは。
それで、十分だった。
「返事は後でいい。今夜のところは、一杯奢ってやるよ」
俺はチップを懐にしまい、席を立った。全身が心地よく疲れていた。これほど長く、これほど深い勝負は、前世でも経験したことがない。だが、不思議と清々しかった。
フォルトゥーナの二番卓を離れながら、俺は振り返った。リーゼロッテはまだそこに座っていた。白銀の髪が、フロアの光の中で静かに輝いていた。
「――考えておきます」
その声は、小さかったが、確かに聞こえた。
リーゼロッテはまだ座ったまま、手元のカードを整えていた。その横顔は相変わらず無表情に近い。だが、今夜最初に見た時と比べると、何かが違う。固く閉じていた何かが、ほんの少しだけ開いたような――そういう気配があった。
百二十年以上、完璧な仮面を纏って仕事をしてきた女が、「考えておきます」と言った。即座に断らなかった。それがどれほどの意味を持つか、俺には分かった。
俺は口の端を吊り上げた。今夜の、最高の一手だった。
勝負に勝った。チップも稼いだ。そして最後に打ったこの一手が、もしかすると今夜一番の大勝負だったかもしれない。リーゼロッテという最高の相手から「考えておきます」を引き出せたなら、それはどんな賭けの勝利よりも価値がある。フォルトゥーナを去る足取りは、来た時より確かに軽かった。
異世界転生から始まったこの一日は、気づけば丸一日以上が経過していた。路地裏の賭場から始まり、裏部屋の用心棒、そしてフォルトゥーナの二番卓での大勝負。これだけ詰め込んだ一日は、前世でも記憶にない。それでも俺の胸の中にあるのは、疲労ではなく、次の勝負への期待だった。
俺はギャンブラーだ。前世でも、今世でも。それだけは変わらない。そして今日という一日が証明したのは、異世界に転生してもその本質が何一つ変わっていないということだった。銅貨三枚から始まって、今は懐がずっしり重い。明日からも、この調子でいこう。次の勝負が、もう待ち遠しかった。これが、俺の生き方だ。




