第69話 旅立ちの朝
老人の家を訪ねてから三日が過ぎた頃、宿に一通の手紙が届いた。差出人の名を見て、アキトは思わず目を見開いた。窓の外では、朝の光が港町を穏やかに照らしていた。
「イザベラからか」
「ええ。彼女の情報網が、何か掴んだのかもしれません」
リーゼロッテが期待と緊張の入り混じった表情で答えた。
リーゼロッテが慎重に封を切ると、几帳面な文字で綴られた手紙が現れた。上質な紙に記されたその筆跡は、まさに彼女らしい端正さを感じさせるものだった。
「クロイツェル商会の調査により、焔の輪と思われる組織が、大陸中央の複数の貴族家と密接な関係を持っていることが判明しました。……詳細は、直接お会いしてお伝えしたく存じます」
リーゼロッテが読み上げると、一同の間に緊張が走った。手紙の端正な文字からも、彼女の慎重な性格が滲み出ているようだった。
「イザベラの奴、律儀に情報を送ってきてくれたんだな」
アキトが感慨深げに呟く。決勝で死闘を演じた相手が、今ではこうして貴重な情報を届けてくれる。その繋がりの不思議さを、改めて噛み締めていた。
「直接会って、って。……まさか、こっちに来るつもりか?」
アキトが驚いたように呟くと、リーゼロッテも同じ予感を抱いているようだった。
「おそらくは。彼女の行動力を考えれば、驚くことではありませんね」
リーゼロッテが小さく笑うと、そこへ折よく、宿の主人が慌ただしく駆け込んできた。息を切らしながら、興奮した様子で報告する。
「お客様! たった今、大変立派な馬車がお見えになって……!」
宿の前に停まっていたのは、クロイツェル商会の紋章を掲げた豪奢な馬車だった。扉が開き、姿を現したのは、記憶にある通りの気品を纏ったイザベラその人だった。すれ違う街の人々が、思わず足を止めて見惚れるほどの華やかさがあった。
「お久しぶりですね、アキト様」
「早いな、おい。手紙が届いたばかりだってのに」
「手紙より先に、私自身がこちらに向かっていたのです。情報の重要性を鑑みれば、一刻も早くお伝えすべきだと判断しましたので」
イザベラは涼しい顔でそう言うと、優雅に一礼した。その後ろには、数名の護衛が控えている。護衛たちの規律正しい佇まいからも、クロイツェル商会の格の高さが窺えた。
「詳しい話を聞かせてくれ」
アキトが真剣な面持ちでそう促すと、イザベラは静かに頷いた。
宿の一室に通されたイザベラは、持参した書類を広げながら語り始めた。書類の枚数は相当な量で、彼女の情報網の広さを物語っていた。
「焔の輪は、表向きには解体されたことになっています。ですが、実際には姿を変え、大陸中の貴族家や商会に、深く根を張り巡らせているのです」
「貴族家、って。……もしかして」
アキトの脳裏に、嫌な予感がよぎった。
「ええ。クラウス・エルドレッドの実家、エルドレッド家も、その一つでした。もっとも、クラウス自身は末端の駒に過ぎなかったようですが」
イザベラの言葉に、アキトは複雑な表情を浮かべた。あの決勝の一件も、この巨大な陰謀の一部に過ぎなかったのだ。
「灰色の都については、何か掴めたか」
アキトが尋ねると、イザベラは頷いた。
「正確な位置は、まだ特定できていません。ですが、大陸中央の山岳地帯、複数の交易路が交差する場所の近くにあるという情報を得ています。……この地図を」
イザベラが広げた地図には、いくつかの候補地に印がつけられていた。老人から得た情報とも一部が重なっており、その信憑性の高さを裏付けているようだった。
「その組織、上層部の人物について、何か分かっているのか」
アキトが探るように尋ねると、イザベラは慎重な口調で答えた。
「まだ確証はありません。ですが、大陸各地の権力者の中に、焔の輪と繋がりを持つ者が複数いると見て間違いないでしょう。……表舞台に立つ者たちの裏で、静かに糸を引いている、そんな構図です」
「厄介な話だな。正体も分からねえ相手に、正面から立ち向かうことになるわけか」
アキトが腕を組みながら唸る。姿の見えない敵というのは、これまで戦ってきたどの相手よりも不気味だった。
「ですが、手がかりが全くないわけではありません。この書類をご覧ください」
イザベラがそう言って、慎重な手つきでさらに書類を取り出した。長年の調査の蓄積を物語る、分厚い束だった。
イザベラが差し出した書類には、いくつかの取引記録が記されていた。
「これは、焔の輪の資金の流れを追跡した記録です。……大陸中央の、ある一点に、多くの資金が集中していることが分かります」
イザベラが指し示した箇所には、複数の商取引の記録が几帳面に整理されている。金額の桁を見るだけでも、その規模の大きさが窺い知れた。これほどの調査を短期間でまとめ上げた彼女の手腕に、アキトは改めて感心せずにはいられなかった。
「それが、灰色の都ってわけか」
アキトが確認するように呟くと、イザベラは静かに頷いた。
「その可能性が高いと、私は見ています」
イザベラの分析に、一同は改めて気を引き締めた。漠然としていた目的地が、少しずつ確かな輪郭を帯びてきている実感があった。
「これだけ絞り込めれば、十分だ。ありがとよ、イザベラ」
「お礼には及びません。私も、あの組織には決着をつけたい理由がありますので」
イザベラの瞳には、静かな決意が宿っていた。その言葉の奥に、何か個人的な事情が隠されているのを、アキトは何となく感じ取っていた。クロイツェル商会という情報産業の家に生まれた者として、彼女もまた、この闇の組織と無縁ではいられない立場にあるのかもしれない。
「なあ、イザベラ、お前も一緒に来るのか」
アキトが尋ねると、イザベラは少し考えてから答えた。
「いいえ。私は商会の情報網を活かし、後方からの支援に徹します。それに、私が前線に出るよりも、こうして裏で動く方が、あなた方の役に立てるはずですから」
「頼りになるな、本当に相変わらず」
「お互い様です」
イザベラが微笑むと、リーゼロッテも同意するように頷いた。かつての強敵たちが、今や確かな仲間として繋がっている。この事実こそが、アキトにとって何よりの財産だった。
「なあ、イザベラ。お前、なんでそこまでして俺たちに協力してくれるんだ」
アキトがふと尋ねると、イザベラは少し考えてから答えた。窓から差し込む光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
「六年間、私は情報という盾に守られながら、負けを知らずに生きてきました。ですが、あなたに敗れたあの日、初めて本当の意味で世界と向き合った気がしたのです。あなたが立ち向かおうとしている巨悪に、私も自分の意志で関わりたいと思いました」
その言葉には、これまでの淡々とした口調とは違う、確かな熱がこもっていた。単なる情報提供者としてではなく、一人の人間としての覚悟が、そこには滲んでいる。
「大層な理由だな。……だが、悪くねえ」
アキトがニヤリと笑うと、イザベラも柔らかく微笑んだ。窓から差し込む陽光が、二人の間に流れる穏やかな空気を優しく包み込んでいた。互いの過去を認め合うような、静かな時間だった。
旅立ちの前日、五人は最後の準備に追われていた。
「食料と水は十分に確保しました。装備の点検も終えています」
リーゼロッテが荷物のリストを確認しながら報告する。几帳面な彼女らしく、リストには細部まで抜かりなく記入されていた。
「馬車の調子も問題ない。ロドリゴの紹介で、腕のいい馬具屋に整備してもらったからな」
シルヴィアが荷馬車の車輪を軽く叩きながら言った。長旅を見据えた入念な点検が、いかにも彼女らしい丁寧さを感じさせた。
「ミミの荷物も、バッチリなのです! お土産用の干物も忘れてないのです!」
ミミが得意げに荷袋を掲げてみせると、アキトは苦笑した。旅の緊張感の中でも、彼女らしいマイペースさは健在だった。
「お前、いつの間にそんなもん買ったんだよ」
アキトが呆れたように笑いながら尋ねると、ミミは得意げに胸を張った。
「市場のおじさんが、旅の無事を祈って、って安くしてくれたのです!」
ミミの無邪気な報告に、一同の間に和やかな笑いが広がった。緊張感に満ちた日々の中でも、こうした何気ないやり取りが、五人の心を支えていた。
旅立ちの朝、身支度を整えた五人は、ロドリゴと老人、そしてイザベラに見送られながら、ラグーサを発つ日を迎えた。宿の前には、これまで世話になった人々が集まっていた。潮風が心地よく吹き抜ける、穏やかな朝だった。
「世話になったな、みんな」
アキトが感謝を込めてそう言うと、ロドリゴが豪快に肩を叩いた。旅立ちを前にした朝の光が、集まった人々の顔を穏やかに照らしていた。
「気にすんな。また困ったことがあれば、いつでも頼ってこい」
ロドリゴの言葉には、これまでの旅の日々で培われた確かな友情が滲んでいた。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その眼差しは温かかった。
「儂の伝手も、お前さんたちのために存分に使ってくれ」
老人の言葉に、アキトは深く頭を下げた。皺だらけの手が、アキトの手をしっかりと握り返してくる。長い人生を歩んできた者だけが持つ、確かな重みのある握手だった。
「儂も、若い頃はそれなりに顔が広かったんでな。年寄りの意地ってやつだ」
老人はそう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。その表情には、長年抱えてきた重荷を、ようやく誰かと分かち合えたことへの安堵が滲んでいた。
「爺さん、体には気をつけてくれよ」
「なに、儂はまだまだ死なんよ。お前さんたちが焔の輪に決着をつける日を、この目で見届けるまではな」
老人の力強い言葉に、一同の顔にも自然と笑みがこぼれた。
「なあ、リーゼロッテ。これから向かう道のりについて、何か懸念はあるか」
準備を進める最中、アキトがふと尋ねた。
「懸念は尽きません。ですが、最も気がかりなのは、焔の輪が私たちの動きにすでに気づいている可能性です。ラグーサでの一件は、決して小さな騒動ではありませんでしたから」
リーゼロッテが真剣な表情でそう分析した。
「確かにな。……あの火傷の男、逃げおおせたわけだしな」
アキトが苦い顔で呟くと、リーゼロッテも同意するように頷いた。
「ええ。奴が上層部にすでに報告していれば、私たちは既に警戒対象になっているでしょう。道中、これまで以上の警戒が必要です」
リーゼロッテの冷静な分析に、アキトは頷いた。決して楽観視できない状況ではあるが、それでも前に進むしかない。
「まあ、来るならいつでも来いってんだ。返り討ちにしてやるまでよ」
アキトの不敵な笑みに、リーゼロッテも小さく笑い返した。不安を口にしながらも、決して後ろ向きにはならない、その姿勢がいかにも彼らしかった。
「灰色の都に辿り着いたら、必ず連絡します」
イザベラの言葉に、アキトは頷いた。
「頼むぜ。……にしても、お前もすっかり頼れる仲間になったもんだな」
アキトがしみじみとそう呟くと、イザベラは少し驚いたように目を見開いた。
「あなたに敗れたおかげです。……感謝、しております」
イザベラが少し照れたようにそう言うと、ミミがくすくすと笑い声を漏らした。その素直な反応に、シルヴィアも思わず口元を緩めている。
「イザベラさん、また会えるの、楽しみにしてるのです!」
ミミが尻尾を振りながら、満面の笑みでそう告げた。
「ええ、私もですよ、ミミさん」
イザベラが優しく微笑みながら、ミミの頭を撫でた。かつての決勝の対戦相手が、今ではこうして温かい交流を交わしている。その光景に、シルヴィアとガイウスも満足げな表情を浮かべていた。長い旅路の果てに、こうした思いがけない縁が積み重なっていくことこそ、アキトたちの旅が持つ、何よりの豊かさなのかもしれなかった。
イザベラの言葉を最後に、五人は街道の先へと歩き出した。ラグーサの朝日が、五人の背中を優しく照らしている。
街道を歩きながら、リーゼロッテがふと足を止めた。
「アキト、これから向かう道のりは、これまで以上に厳しいものになるはずです」
「わかってる。……だが、俺たちならきっと乗り越えられる」
アキトが力強くそう言い切ると、リーゼロッテは静かに頷いた。振り返れば、ラグーサの街並みが遠くに小さく見えている。あの無法の港町で得た、数々の繋がりと経験――それは、これから待ち受ける困難に立ち向かうための、確かな力になるはずだった。
「シルヴィア、ガイウス、ミミ。……みんな、これからもよろしく頼むぜ」
アキトが振り返ってそう言うと、三人はそれぞれの形で頷いた。旅の途中で幾度となく交わしてきた、この確かな絆の言葉が、今また新たな決意として胸に刻まれていく。
銅貨三枚から始まった物語は、今、大陸中央という新たな舞台へと、その歩みを進めようとしていた。焔の輪の正体、そして灰色の都の真実――すべてが明らかになるその日まで、この博徒たちの旅は、まだまだ続いていく。
旅の途上、アキトはふと空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。
「なあ、リーゼロッテ。俺たち、ちゃんと最後まで辿り着けると思うか」
アキトが珍しく弱気な声で尋ねると、リーゼロッテは少し驚いたように目を見開いた。
「わかりません。……ですが、これまでも幾度となく、不可能に思えた壁を乗り越えてきました。今回も、きっと同じでしょう」
リーゼロッテの声には、確信めいた響きがあった。これまで共に歩んできた日々が、彼女にそう言わせているのだろう。
「頼もしいこと言うじゃねえか」
「今更ですか」
いつものやり取りに、二人は静かに笑い合った。街道の先には、まだ見ぬ大陸中央の景色が広がっている。長い付き合いの中で積み重ねてきた、こうした些細なやり取りの一つ一つが、二人の絆をより確かなものにしていた。焔の輪という巨大な闇に立ち向かう旅は、まだ始まったばかりだった。




