第66話 迫る影
ラグーサに滞在して三日が過ぎていた。ロドリゴからの続報を待ちながら、五人はそれぞれの役割に従い、街の様子を静かに探っていた。無法の港町での日々は、これまで旅してきたどの街とも違う、独特の緊張感を伴っていた。連日の情報収集は思うように進まず、焦りと苛立ちが少しずつ蓄積していく日々だった。
「今日も収穫なしか」
宿の一室に戻ったアキトが、椅子に体を投げ出すようにして座った。窓の外には、夕暮れの街並みが広がっている。三日間歩き回った足が、じんわりと疲労を訴えていた。
「港の警備隊にも、それとなく探りを入れてみましたが、倉庫街の一件については、誰も多くを語りたがりません。……関わらないようにしている、というのが正直なところでしょう」
シルヴィアが報告する。険しい表情には、思うように情報が集まらないもどかしさが滲んでいた。
「警備隊すら及び腰、か。よっぽど厄介な連中ってことだな」
アキトが顎に手を当てて考え込む。表向きの治安維持組織すら手を出せないという事実は、それだけ相手の裏の力が強大であることを物語っていた。
「ミミの方も、市場の噂話くらいしか集まらなかったのです……。でも、みんな『倉庫街には近づくな』って、口を揃えて言うのです」
ミミがしょんぼりと耳を垂らした。三日間、街中を駆け回った疲労が、その小さな肩に見て取れる。それでも、少しでも役に立とうと必死に聞き込みを続けてきた健気さが、その様子からは伝わってきた。
「無理させちまったな、悪い」
「ううん、平気なのです! ミミ、お役に立ちたいのです!」
アキトが労うように頭を撫でると、ミミは元気を取り戻したように顔を上げた。
「まあ、そう焦るな。ロドリゴの探りを待つのが、一番確実だって話だったろ」
アキトが慰めるように言うと、リーゼロッテも頷いた。帳面を閉じながら、小さく息をつく。窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと弱まりつつあった。
「ええ。……ただ、こう毎日成果がないと、少し落ち着かない気持ちにもなりますね」
「贅沢言うなよ。休息だって必要だろ」
軽口を叩き合う二人の様子に、ガイウスが窓辺から静かに口を開いた。彼は腕を組んだまま、外の景色を眺めていた。
「そういえば、ロドリゴから連絡が来る頃合いだが」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、宿の扉が乱暴に叩かれた。
「アキトさん! お客さんです、それも、ただごとじゃない様子で!」
宿の主人の切迫した声に、五人は一斉に立ち上がった。階下に降りると、そこには血の滲んだ布を腕に巻いたロドリゴが、壁にもたれかかるようにして立っていた。息も荒く、額には脂汗が滲んでいる。
「ロドリゴ! どうしたんだ、その怪我は」
アキトが駆け寄ると、ロドリゴは苦しげな笑みを浮かべた。
「……油断したな、俺としたことが。倉庫街の見張りに、探りを入れてるところを見つかっちまった」
「見つかったって、まさか」
「ああ。逃げるのに手一杯で、深追いはされなかったが……。奴ら、俺の顔を覚えたはずだ。もう、この街で悠長にしてる時間はねえかもしれん」
ロドリゴの言葉に、その場の空気が一気に張り詰めた。壁にもたれたまま、彼は苦しげに呼吸を整えている。長年の経験を持つ元傭兵をもってしても、あれほどの怪我を負わせる相手――その事実だけで、敵の実力の一端が窺い知れた。
「とりあえず手当てだ。ミミ、水と布を持ってきてくれ」
「わかったのです! すぐ持ってくるのです!」
ミミが慌てて階段を駆け上がっていく。リーゼロッテが手早くロドリゴの傷を確認し、シルヴィアが周囲を警戒するように扉の外へと視線を向けた。宿の主人も心配そうに様子を窺っている。
「深い傷ではないようですが、放っておくのは良くありません」
リーゼロッテが応急処置を施しながら、ロドリゴに問いかける。手際よく傷口を清め、布を巻き直していくその手つきには、これまでの旅で培われた確かな経験が見て取れた。ミミが持ってきた水と布を、次々と手渡していく。
「痛むところがあれば、遠慮なく言ってください」
リーゼロッテが優しく声をかけながら作業を続けた。
「あの、悪いな。エルフの嬢ちゃんに世話になるとはな」
ロドリゴが苦笑しながらそう呟くと、リーゼロッテは涼しい顔で答えた。
「気にしないでください。あなたはガイウスの大切な友人ですから」
その言葉に、ロドリゴは少し驚いたように目を見開き、それから静かに頷いた。仲間としての繋がりを、いつの間にか当たり前のように受け入れている自分に、彼自身どこか戸惑いを覚えているようだった。
「倉庫街について、何か掴めましたか」
「ああ……。奴らの拠点、倉庫街の一番奥、他より一回り大きい建物だ。夜になると、頭目格らしき奴が出入りしてるのを見た。……右手に、確かに火傷の痕があった」
ロドリゴは息を切らしながらも、はっきりとそう証言した。命懸けで得た情報だという重みが、その言葉には込められている。
アキトの目つきが鋭くなった。ようやく、確かな標的の場所が見えてきた。これまで積み重ねてきた手がかりの断片が、ついに一つの明確な目的地へと結びついた瞬間だった。
「見つかったってことは、向こうも警戒を強めるはずだ。悠長にしてる時間はねえな」
アキトは腕を組み、険しい表情でそう告げた。これまでの穏やかな旅路とは違う、確かな緊迫感が全身に満ちていくのを感じていた。
アキトの言葉に、シルヴィアが頷いた。剣の柄に軽く手を添え、すでに戦いへの心構えを固めているようだった。
「今夜、決行するべきかもしれない。時間を置けば置くほど、向こうに準備の時間を与えることになる」
シルヴィアの声には、これまでにない緊迫感が滲んでいた。剣を握る手にも、自然と力が籠っている。
「ですが、ロドリゴさんの怪我もあります。今すぐ動くのは、あまりに拙速ではないでしょうか」
リーゼロッテが慎重な意見を述べる。彼女らしい冷静な判断が、逸る気持ちに歯止めをかけていた。両者の意見がぶつかり合う中、部屋の空気は緊張感を増していく。
「俺のことは気にするな。……この程度の傷、動くのに支障はねえ」
ロドリゴが立ち上がろうとするのを、ガイウスが手で制した。強引に立ち上がろうとする戦友の肩を、しっかりと押さえつける。
「お前は休んでろ。ここから先は、俺たちの役目だ」
「ガイウス、お前は本当にそれでいいのか。ロドリゴは、お前の大事な友人だろ」
アキトが尋ねると、ガイウスは静かに頷いた。窓の外に視線をやったまま、しばし沈黙してから口を開く。
「だからこそだ。これ以上、こいつを危険に晒すわけにはいかねえ。……それに、俺たち五人で十分に立ち向かえる相手のはずだ」
ガイウスの決意に満ちた言葉に、アキトは小さく笑った。
「頼もしいこと言うじゃねえか」
「お前に言われたくはないがな」
軽口を交わしながらも、五人の間には確かな覚悟が満ちていた。ロドリゴが心配そうに見つめる中、五人はそれぞれの武器や道具を静かに確認し始めた。
「作戦を確認しておこう」
シルヴィアが地図を広げながら、テーブルの上に指を滑らせた。ロドリゴから預かった簡素な地図には、倉庫街の位置が大まかに記されている。ランプの灯りに照らされたその地図を、五人は真剣な面持ちで覗き込んだ。
「倉庫街は見張りが厳重だという話だ。正面から突っ込むのは得策じゃない。まずは物陰から様子を窺い、機を見て行動に移すべきだろう」
「ミミの鼻があれば、見張りの位置も匂いで大体わかるのです!」
ミミが自信満々に胸を張る。獣人特有の鋭敏な感覚は、こうした潜入任務において何よりの武器になる。
「頼りにしてるぜ、ミミ」
「任せてほしいのです!」
ミミが胸を張って答える姿に、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。こうした何気ないやり取りが、五人の絆を支えているのだと、アキトは改めて実感していた。
アキトがミミの頭を撫でると、彼女は誇らしげに尻尾を振った。
「俺とガイウスが前衛だ。シルヴィアも戦闘要員として動いてくれ。リーゼロッテとミミは、後方から状況を見極めてくれ」
アキトが指示を出すと、それぞれが頷きながら自分の役割を確認していった。
「承知しました。……ですが、無茶な突撃だけはしないでくださいね」
リーゼロッテが釘を刺すように言うと、アキトは苦笑しながら頷いた。
「わかってるよ。慎重に行く」
アキトは静かにそう応じた。
準備が整いつつある中、ロドリゴが横たわったまま声をかけてきた。
「なあ、アキト」
「なんだ、どうした」
「……無事に帰ってこいよ。ガイウスの大事な仲間なんだろ。それに、大陸博打大会の優勝者が、こんな場末の街で命を落としたなんて話になったら、洒落にならねえ」
ロドリゴは横になったまま、天井を見つめてそう告げた。乱暴な物言いの奥に、隠しきれない不器用な気遣いが滲んでいる。
ロドリゴの不器用な激励に、アキトはニヤリと笑った。
「心配すんな。俺は死ぬまで博打を楽しむって決めてるんでな。こんなところで終わってたまるかよ」
その言葉に、ロドリゴも小さく笑い返した。痛みを堪えながらも、その表情には確かな信頼が浮かんでいる。
その夜、アキトは装備を整えながら、静かに窓の外を見つめていた。日中の喧騒が嘘のように、街は静寂に包まれ始めている。
「アキト、少しいいですか」
リーゼロッテが静かに部屋に入ってきた。廊下の灯りを背に、その表情はいつもより幾分か柔らかく見えた。
「どうした」
「……無理はしないでください。あなたが一番大切なのは、正義を貫くことより、私たちが皆、無事に帰ることです」
その言葉には、いつもの淡々とした口調とは違う、確かな想いが込められていた。アキトは少し驚いたように目を見開き、それから優しく笑った。
「わかってるよ。俺だって、命は惜しい方だ。……だが、ここで退いたら、この先もずっと奴らに怯えながら生きることになる。それだけは御免だ」
アキトの瞳には、これまでにない強い意志の光が宿っていた。前世からの博徒としての矜持が、その言葉には確かに込められている。
「……そうですね。私も、同じ気持ちです」
リーゼロッテはそう言うと、静かに部屋を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、アキトは改めて気を引き締めた。
準備を終えた五人は、宿の玄関に集合していた。それぞれの装備を確認し合いながら、最後の打ち合わせを行う。
「ミミ、体調は万全か」
「バッチリなのです! 今日のためにいっぱいご飯食べてきたのです!」
ミミが元気よく答えると、その場の緊張感がわずかに和らいだ。腰に下げた小さな短剣を、誇らしげに軽く叩いてみせる仕草も、どこか微笑ましかった。
「シルヴィア、剣の調子は」
「問題ない。いつでも抜けるぞ」
シルヴィアが腰の剣に手を添えたまま、静かに頷く。その眼差しには、これまでの数々の戦いを乗り越えてきた者だけが持つ、揺るぎない落ち着きがあった。
「ガイウス、お前は」
「骰子より、こっちの方が慣れてるんでな。心配いらねえ」
ガイウスがそう言って、腰の剣の柄を軽く叩いてみせた。かつての傭兵としての顔が、その仕草には確かに滲んでいる。窓の外はすでに夕暮れ、薄紫色の空が港町を静かに包み込んでいる。
「よし、準備を整えるぞ。今夜、倉庫街に乗り込む」
アキトの号令に、全員が力強く頷いた。宿の主人が見送りに出てきて、心配そうな表情を浮かべながらも、静かに頭を下げた。玄関先の灯りが、五人の背中を静かに照らしていた。
「気をつけて。……無事のお帰りをお待ちしております」
宿の主人が深々と頭を下げる。この数日の滞在で、すっかり気心の知れた間柄になっていた。
「ああ、任せとけって」
夜の街を進みながら、アキトはふと隣を歩くリーゼロッテに視線を向けた。
「なあ、ここまで来られたのも、お前らのおかげだよ。改めて、礼を言っておく」
「今更ですか。……でも、ありがとうございます」
リーゼロッテがそう答えると、頬にわずかな赤みが差した。柔らかく微笑むその表情には、緊張感の中にも確かな温かさが滲んでいた。
「ミミも、頑張るのです! みんなで無事に帰るのです!」
後ろからついてくるミミが、元気よく声を上げる。その明るさに、一同の顔にも自然と笑みがこぼれた。
「シルヴィア、この先の道順は」
アキトが確認するように尋ねる。夜の闇に目を凝らしながら、先を歩くシルヴィアの背中に声をかけた。
「ロドリゴの地図によれば、あと少しで倉庫街の入り口だ。……ここからは、一層の警戒が必要になる」
シルヴィアが低い声でそう告げた。
シルヴィアの言葉に、一同は表情を引き締めた。石造りの倉庫が並ぶ通りに差し掛かると、明らかに空気が変わったのがわかる。人通りはほとんどなく、時折聞こえる潮騒だけが、静寂を際立たせていた。物々しい静けさが、これから待ち受ける危険を予感させていた。
「灯りが少ないな」
アキトが周囲を見渡しながら呟く。倉庫の隙間から漏れる僅かな光だけが、暗闇の中でぼんやりと輪郭を作っていた。
「見張りが人目を避けているのでしょう。逆に言えば、この静けさこそが、目的地に近づいている証拠です」
リーゼロッテの分析に、アキトは小さく頷いた。彼女の冷静な視点は、こういう緊迫した場面でこそ、一層の輝きを増すようだった。前方に、周囲よりも一回り大きな建物の輪郭が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
「あれか」
アキトが低く呟く。目を凝らせば、その建物からは僅かに灯りが漏れているのが見て取れた。
「間違いない。ロドリゴの証言と一致する」
ガイウスが低く呟いた。緊張感を帯びたその声には、覚悟の重みが滲んでいた。全員の視線が、その建物へと吸い寄せられていく。銅貨三枚から始まった博徒の物語は、いよいよ核心へと足を踏み入れようとしていた。夕闇の向こうに潜む闇の正体――その姿が、今夜、初めて明らかになろうとしている。




