第65話 無法の港、ラグーサ
荒野を抜けた先に広がっていたのは、これまで見てきたどの街とも異なる、独特の喧騒だった。長い旅路の果て、五人はついに目的地の入り口に立っていた。
「ここが、ラグーサか……」
丘の上から見下ろす港町は、雑多な建物がひしめき合い、無数の帆船が波止場に停泊している。潮の匂いと、魚を焼く煙、そして怒声にも似た商人たちの呼び込みの声が入り混じり、街全体が生き物のように蠢いているようだった。遠目にも、他の街とは違う独特の猥雑さが見て取れる。かつて訪れたカルディナの華やかさとも、故郷の銅貨三枚亭のある街の穏やかさとも、まるで違う空気だった。
「思っていたより、活気があるな」
シルヴィアが眉をひそめながら呟いた。剣の柄に軽く手を添えたまま、油断なく周囲を見渡している。港特有の喧騒に慣れない様子だった。
「活気と無法は、時に紙一重です。……気を引き締めていきましょう」
リーゼロッテの言葉に、一同は頷き、街への坂道を下り始めた。
街の中に足を踏み入れると、その空気の違いがより鮮明になった。表通りにはそれなりに整った商店が並んでいるが、路地裏を覗けば、まるで別世界のような荒んだ光景が広がっている。酔いつぶれた男たちが道端に転がり、物騒な取引を交わす者たちの姿もちらほらと見えた。時折すれ違う人々の視線には、余所者を値踏みするような険しさが滲んでいる。
波止場では、大小さまざまな船が忙しなく荷を積み下ろししていた。異国の言葉を話す水夫たちの姿もあり、この街が大陸有数の交易拠点であることを物語っている。だが、その繁栄の裏側には、明らかに何か薄暗いものが横たわっているようだった。
「ミミ、変な奴に近づくなよ」
「わかってるのです……。でも、なんだかいろんな匂いが混ざってて、頭が混乱しそうなのです」
ミミが耳をぺたりと寝かせながら、アキトの服の裾をぎゅっと握った。魚の匂い、潮の匂い、そして人々の汗と欲望が入り混じったような、この街特有の空気に戸惑っているようだった。慣れない環境に、いつもの元気も少し控えめになっている。
「無理もない。この街は、俺も長く滞在してた頃、感覚が麻痺しそうになったもんだ」
ガイウスが振り返りもせずにそう呟く。彼にとっても、この街には様々な記憶が刻まれているのだろう。かつての戦友との日々、そして過ぎ去った時間の重みが、その背中には確かに滲んでいた。
「ロドリゴの店は、この先の路地を入ったところだったはずだ」
ガイウスが先導するように歩き出す。慣れた足取りで路地を進んでいくその背中には、これまでとは違う緊張感が漂っていた。
「ガイウス、ロドリゴってのは、どんな奴なんだ」
アキトが小声で尋ねると、ガイウスは前を向いたまま答えた。
「傭兵時代の戦友だ。腕は立つが、今は裏の情報屋みたいなことをして食ってる。信頼できる男だが、一癖も二癖もある奴だから、心してかかれ」
「一癖も二癖も、ね」
アキトが繰り返すように呟いた。
「まあ、会えばわかる」
ガイウスの言葉に、アキトは少し身構えるように肩をすくめた。実際に対面してみるまでは、どんな相手なのか判断がつかない。それでも、ガイウスが信頼を寄せる人物というだけで、ある程度の安心感はあった。長年の戦友という繋がりは、言葉以上に確かな絆の証だ。
やがて辿り着いたのは、薄汚れた看板を掲げた小さな酒場だった。看板には『錆びた錨』という文字が、辛うじて読み取れる程度に色褪せて書かれている。潮風にさらされ続けた木造の建物は、今にも崩れそうな佇まいをしていた。
「ここだ」
ガイウスが扉を開けると、昼間だというのに薄暗い店内には、数人の客が静かに酒を飲んでいた。煙草の煙と酒の匂いが充満する店内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。カウンターの奥にいた強面の男が、こちらに気づいて顔を上げる。
「……ガイウスか。久しぶりだな」
カウンターの向こうから出てきたのは、片腕に大きな刺青を入れた、屈強な体躯の男だった。年齢はガイウスと同じくらいだろうか、鋭い眼光が印象的だった。厚い胸板には、いくつもの古傷が刻まれている。
「ロドリゴ、達者そうだな」
「お前こそ。……で、そっちの連中は?」
ロドリゴがアキトたちに視線を向ける。値踏みするような、鋭い眼差しだった。一人一人の顔を確かめるように、じっくりと視線を巡らせている。シルヴィアの立ち姿から只者ではないと見抜いたのか、彼女の方を見る目には、わずかに敬意のようなものが混じっていた。
「俺の仲間だ。信頼できる相手だから、遠慮なく話していい」
ガイウスの言葉に、ロドリゴは小さく頷いた。奥の個室に案内され、五人はロドリゴと向かい合って座った。狭い個室には、酒場の喧騒がわずかに漏れ聞こえてくる程度で、密談には都合がよさそうだった。
「大陸博打大会の優勝者一行、ってわけか。噂には聞いていたが、まさか本人が此処に来るとはな」
ロドリゴは感心したように、しかしどこか警戒を滲ませたまま呟いた。値踏みするような視線が、今度はアキトの手元――指先で弄ぶコインへと向けられている。
「博徒の勘は伊達じゃねえってか。……いい面構えしてるじゃねえか」
「そりゃどうも」
アキトが軽く笑って返すと、ロドリゴの表情にわずかに柔らかさが差した。少しだけ、警戒の色が薄れたようだった。
「話が早くて助かる。……早速だが、覆面の集団について、何か知ってることはないか」
アキトが単刀直入に切り出すと、ロドリゴの表情が一瞬、険しくなった。
「その話か。……確かに、この街の裏で妙な連中が動いてる。表向きは商会の護衛を装ってるが、実際にゃ、かなりきな臭い仕事を請け負ってるって噂だ」
ロドリゴの声には、明らかな不快感が滲んでいた。この街を根城にする者として、そうした連中の存在は決して看過できないものなのだろう。
「詳しく聞かせてくれ」
アキトが身を乗り出すと、ロドリゴは声のトーンをさらに落とした。
「ここ数ヶ月、街外れの倉庫街に、頻繁に出入りしてる連中がいる。夜中にこっそり荷を運び込んだり、逆に運び出したり。地元の連中も、あそこには近づかねえようにしてる」
ロドリゴは声を潜め、周囲を警戒するように視線を巡らせた。長年裏社会で生き抜いてきた者だけが持つ、独特の警戒心が滲んでいる。
「その連中の中に、右手に火傷の痕がある男はいないか」
リーゼロッテが尋ねると、ロドリゴは一瞬、驚いたように目を見開いた。手にしていたグラスを置く仕草も、わずかに硬くなっている。狭い個室の空気が、一段と張り詰めたものに変わった。
「……知ってんのか。ああ、いる。連中の頭目格らしい男が、そんな特徴だったって話を聞いたことがある。フードを目深に被って、滅多に顔を見せねえらしいが」
「間違いない、それだ」
アキトの声に緊張が走る。ようやく、確かな手がかりに辿り着いた実感があった。これまで積み重ねてきた情報の断片が、ついに一つの確かな形として結実した瞬間だった。長い旅路の果てに、初めて掴んだ確かな糸口だった。
「その倉庫街、案内してもらえるか」
「……悪いが、それはやめておけ」
ロドリゴの声色が、急に真剣なものに変わった。眼差しにも、これまでにない鋭さが宿っている。
「昼間ならまだしも、夜は危険すぎる。奴らの見張りは尋常じゃない。下手に近づけば、命の保証はねえぞ」
ロドリゴは真剣な眼差しでそう告げると、テーブルに身を乗り出した。
「実際、何人か様子を探ろうとした奴がいたが……。二度と戻ってこなかった。この街じゃ、人が一人消えても、誰も気にしねえ。それがどういうことか、わかるだろう」
その言葉には、単なる脅しではない、確かな重みがあった。命の軽い、無法の港町ならではの過酷な現実が、そこには横たわっている。シルヴィアが表情を険しくし、ミミも思わず身を寄せ合うようにアキトの服の裾を握りしめた。
「だが、手がかりを追わねえわけにはいかねえ」
「わかってる。……だから、まずは俺が探りを入れてやる。お前らは、しばらくこの街で大人しくしてろ。目立つ真似は厳禁だ」
ロドリゴの提案に、アキトは少し考え込んでから頷いた。逸る気持ちを抑えつつも、無謀な行動が仲間たちを危険に晒すことだけは避けなければならない。
「わかった。お前の言う通りにする。……恩に着るぜ」
アキトが素直に頭を下げると、ロドリゴは意外そうに片眉を上げた。
「なに、ガイウスの頼みだ。無下にはできねえよ」
ロドリゴはニヤリと笑うと、席を立ち、店の奥へと消えていった。しばらくして戻ってきた彼の手には、簡素な地図が握られていた。羊皮紙に手書きで書き込まれたその地図には、街の主要な通りと、いくつかの目印が記されている。手慣れた様子で書かれたその線は、この男が長年この街の裏を知り尽くしてきた証のようだった。
「この宿を使え。信頼できる知り合いがやってる宿だ。妙な詮索もされねえだろう」
地図には、街の外れにある小さな宿の場所が記されている。ロドリゴが指先で示した場所を、リーゼロッテが素早く帳面に書き写した。
「助かる」
「礼はいらねえ。……ただ、本当に気をつけろ。この街の裏には、俺たちの想像以上に厄介なもんが潜んでるかもしれねえ」
ロドリゴの声には、単なる社交辞令とは違う、真摯な響きがあった。
ロドリゴの警告に、五人は改めて表情を引き締めた。
地図を頼りに、五人は教えられた宿へと向かった。表通りから少し外れた場所にあるその宿は、『波止場の休息』という素朴な名前の看板を掲げている。ロドリゴの紹介ということもあり、宿の主人は多くを詮索することなく、五人を迎え入れてくれた。潮風に色褪せた看板の下、小さな軒先には風鈴が控えめに揺れていた。
「ここなら、しばらく腰を落ち着けられそうですね」
部屋に荷物を下ろしながら、リーゼロッテが安堵したように呟いた。木造の階段は多少軋むものの、部屋自体は清潔に保たれており、旅の疲れを癒すには十分な環境だった。
「ああ。……にしても、ラグーサって街、想像してたよりずっと物騒だな」
「無法地帯、とガイウスさんも言っていましたからね。私たちも、より一層の警戒が必要でしょう」
窓の外を見やれば、すでに夕闇が街を包み込み始めている。灯りの少ない路地には、昼間とはまた違う種類の危うさが漂っていた。
「今夜は早めに休みましょう。明日からは、情報収集と並行して、街の様子も探っていく必要があります」
リーゼロッテの提案に、一同は静かに頷いた。
「シルヴィア、街の治安についても、それとなく探ってもらえるか」
「わかった。港の警備隊にも、多少は伝手を作れるかもしれない」
シルヴィアが力強く頷く。かつて聖騎士団長として培った交渉術は、こうした場面でも十分に活きるはずだった。腰の剣を軽く叩きながら、彼女の瞳には確かな使命感が宿っていた。
「ミミは、市場や酒場の噂話を集めるのです! 変な匂いの人がいたら、すぐに報告するのです!」
ミミが両手を握りしめて意気込む。この街に来てから、彼女なりに何か役に立ちたいという気持ちが強くなっているようだった。
「頼りにしてるぜ、ミミ」
アキトがミミの頭を撫でると、彼女は誇らしげに胸を張った。それぞれの役割が確認され、明日からの動きが着実に固まっていく。長旅を経て育まれてきた仲間同士の連携は、こうした場面でも確かな力を発揮していた。
その夜、アキトは眠りにつく前、ふと窓の外に視線をやった。街灯の乏しい路地の向こう、暗がりの中に人影のようなものが一瞬揺らめいた気がした。
「……気のせいか?」
目を凝らしてみるが、それらしき姿はもうどこにも見当たらない。旅の疲れが見せた幻影だったのかもしれない。だが、胸の奥にはわずかな違和感が残った。
「どうかしたのですか」
隣室から様子を見に来たリーゼロッテが、怪訝そうに尋ねる。
「いや……何でもねえ。気のせいだと思う」
アキトはそう答えつつも、窓辺から視線を離さなかった。この街に足を踏み入れた瞬間から、何者かに見られているような、そんな漠然とした予感が拭えずにいた。
「なあ、リーゼロッテ。この街で情報を集めるとしたら、どこから当たるべきだと思う」
窓の外の暗がりを見つめながら、アキトが尋ねた。遠くから聞こえる潮騒の音が、静かな部屋の空気にわずかな緊張感を添えていた。
「まずは市場や酒場といった、人の出入りが多い場所からでしょう。ただ、この街の性質上、うかつに聞き込みをすれば、逆に警戒される恐れもあります」
「確かにな。……ロドリゴの探りを待つのが、今は一番確実か」
アキトは腕を組み、しばし黙考した。逸る気持ちを抑えるのは、決して簡単なことではなかった。
「ええ。焦りは禁物です。じっくりと機を待ちましょう」
リーゼロッテの落ち着いた言葉に、アキトは小さく頷いた。逸る気持ちを抑えることもまた、この博徒が積み重ねてきた経験の一つだった。窓の外には夜が更け、遠くから波止場の潮騒だけが、絶え間なく聞こえてくる。夜の闇に沈む無法の港町、その裏側に潜む闇の正体は、まだ誰にも見えない。だが、確かな手がかりを掴んだ今、五人の歩みは、着実にその核心へと近づいていた。
「いよいよって感じだな」
アキトが呟くと、リーゼロッテが小さく頷いた。
「ここまで来た以上、後には引けません。……ですが、慎重に進めましょう」
リーゼロッテはそう言うと、静かに窓の外へと視線を向けた。無数の灯りが揺らめく港町の夜景が、これから待ち受ける困難を静かに物語っているようだった。
「ミミも頑張るのです! きっと悪い人たち、見つけ出してみせるのです!」
隣室から様子を見に来ていたミミの意気込みに、一同の間に静かな決意が広がっていく。夜の静寂の中、五人の想いは確かに一つになっていた。




