第64話 南への道行き
銅貨三枚亭を発ってから五日が過ぎていた。街道はすでに見慣れた景色を離れ、乾いた土と低木が目立つ荒野へと姿を変えつつある。馬車の車輪が立てる規則的な音だけが、五人の旅路を静かに刻んでいた。空を見上げれば、雲一つない青空が果てしなく広がっている。
「南に近づいてきた実感が湧くな。空気が乾いてきた」
御者台に座るシルヴィアが、額の汗を拭いながら呟いた。彼女の鎧は、旅慣れた様子でいくつかの留め具を外し、動きやすいよう調整されていた。
「そういえば、南方の気候はどうなんだ、ガイウス」
アキトが尋ねると、荷馬車の点検をしていたガイウスが顔を上げた。
「昼は暑く、夜は冷え込む。厄介な土地だ。慣れるまでは体調を崩しやすい」
「そりゃ気をつけねえとな」
「ミミの毛皮、暑さに弱いのです……。でも、頑張るのです!」
ミミが健気に胸を張る様子に、一同の間に自然と笑みがこぼれた。
「この先、水場が少なくなります。次の街で、しっかり水を蓄えておきましょう」
リーゼロッテが地図を広げ、経路を確認する。長旅に慣れた手つきで、次の宿場町までの距離を指先でなぞっていた。
「ミミ、暑くないか」
「暑いのです……。でも、南の食べ物、楽しみなのです!」
荷台の隅で団扇代わりに耳をパタパタと動かすミミに、アキトは苦笑した。ガイウスは黙々と荷馬車の点検をしながら、時折、遠くの地平線に視線を向けている。その眼差しには、故郷が近づいてきていることへの、言葉にならない感慨が滲んでいるようだった。
「ガイウス、南方に戻るのは久しぶりか」
「ああ。……色々と思うところはあるが、今はそれより先にやるべきことがある」
ガイウスは短くそう答えると、再び荷馬車の点検に戻った。多くを語らないその態度に、アキトはそれ以上踏み込まなかった。
その日の夕刻、一行は小さな宿場町に到着した。荒野の只中にぽつんと存在するその町は、旅人相手の商売で成り立っているような、寂れた雰囲気を漂わせている。看板の文字はほとんど色褪せ、道行く人々の表情にも、どこか疲弊した色が見て取れた。
町の入り口では、疲れた様子の門番が形だけの検問を行っていた。五人が通り過ぎる際、ちらりと視線を向けたものの、特に咎めることもなく通してくれた。
「今夜はここで一泊だ。宿を探そう」
シルヴィアの提案に、一同は頷いた。町の中心に一軒だけある宿屋に入ると、疲れた様子の主人が愛想もそこそこに部屋を割り当ててくれた。壁の隙間から吹き込む砂埃が、この町の厳しい環境を物語っていた。
夕食を終え、それぞれが休息を取ろうとした矢先、宿の外から怒声のようなものが聞こえてきた。
「なんだ、あれ」
アキトが窓の外を覗くと、数人の男たちが一人の商人らしき男を取り囲んでいる光景が目に入った。松明の灯りに照らされたその光景は、明らかに穏やかならぬ空気を纏っている。宿屋の主人も、見て見ぬふりを決め込むように、そそくさと奥へ引っ込んでしまった。この町では、こうした揉め事は珍しくないのかもしれない。
「厄介事の匂いがするな」
「ミミも嫌な匂いがするのです……! あの人たち、悪い匂いなのです!」
ミミが耳をぴんと立て、鼻をひくつかせながら訴える。獣人特有の鋭敏な感覚が、確かな危険を察知していた。
ガイウスがすでに腰を上げていた。かつての戦場帰りの本能が、危険を察知していたのだろう。無言のまま扉に向かうその背中には、迷いのかけらもなかった。
「おい、そこの兄ちゃんたち。ちょいと待ちな」
アキトが宿の外に出ると、男たちの視線が一斉にこちらを向いた。数は五人、いずれも荒くれた雰囲気を纏った、いかにも荒野を根城にする野盗といった風体だ。腰に下げた武器には、使い込まれた傷が刻まれている。
「なんだ、お前は。関係ねえなら引っ込んでな」
「関係なくはねえよ。うるさくて眠れねえんだ」
アキトが軽い調子でそう言うと、野盗たちの一人が下卑た笑みを浮かべた。緊迫した空気の中でも、いつもと変わらぬ飄々とした態度を崩さないのが、この博徒らしいところだった。
「威勢のいいガキだ。だが、今は虫の居所が悪くてな。痛い目見たくなきゃ、大人しく――」
男が凄むように一歩踏み出す。だが、その余裕もそこまでだった。
言葉が終わる前に、シルヴィアの剣が鞘走っていた。一瞬の閃光とともに、先頭の男の得物が真っ二つに叩き折られる。夜の静寂を切り裂くような、鋭い金属音が響いた。
「な……!?」
「これ以上騒ぐなら、次はお前の腕を斬る」
シルヴィアの静かな宣告に、野盗たちの顔色が一気に青ざめた。元聖騎士団長としての凄みが、その一言に込められていた。有無を言わせぬ迫力に、荒くれ者たちの膝がわずかに震えているのが見て取れた。ガイウスも無言のまま前に出て、その巨躯だけで十分な威圧感を放っている。
「ひ、退くぞ! こんな連中に構ってらんねえ!」
野盗たちは慌てて逃げ出していった。砂埃を巻き上げながら遠ざかっていくその後ろ姿を、アキトはやれやれと肩をすくめながら見送った。あっけない幕切れに、周囲で様子を窺っていた宿の宿泊客たちも、ほっと胸を撫で下ろしているようだった。人質にされかけていた商人は、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでいる。
「大丈夫か、旦那」
アキトが手を差し伸べると、商人は震えながらも頷いた。腰を抜かした状態から立ち上がるのも、まだ覚束ない様子だった。差し出された手を借りながら、ようやく立ち上がった商人の膝は、まだ小刻みに震えている。
「あ、ありがとうございます……! 助かりました……!」
商人は何度も頭を下げながら、まだ震えの残る声で礼を述べた。壮年の男で、身なりからして、それなりの規模で商いをしている人物のようだった。手にした荷物袋を抱きしめるように握りしめている。
「災難だったな。何があったんだ」
「実は……南方への商売道中、この宿場町で足止めを食っていたんです。荒野の野盗が最近活発になっていて、護衛も雇えず困っていたところに、あの連中に目をつけられて」
商人はそう言うと、荒野の方角を不安げに見やった。
「護衛を雇う金もなかったのか」
「雇おうにも、腕の立つ護衛はみんな出払っていて……。噂では、大口の依頼が別のどこかに集中しているとかで」
「大口の依頼、ね」
アキトが眉をひそめる。何か引っかかるものを感じた。
商人は震える声で、ここ数週間の苦労を語り始めた。
商人の話によれば、ここ最近、荒野一帯で野盗の活動が急激に活発化しているという。まるで、誰かが裏で野盗たちを扇動しているかのように。
「妙な話だな。野盗が急に活発になるなんて、よっぽどの理由がなきゃ考えにくい」
「大口の依頼が別のどこかに集中している、って話、詳しく聞けるか」
アキトが身を乗り出すと、商人は記憶を辿るように視線を宙に浮かせた。少し考え込むような間があった。
「詳しくは知らないんですが……。噂では、南のどこかで、大規模な護衛任務が発生しているとかで。腕利きの傭兵や護衛たちが、こぞってそちらに向かっているらしいんです」
「南のどこか、か。……ラグーサ周辺じゃないか」
「可能性は高いでしょうね。もしそうだとすれば、あちらでも何か大きな動きがあるということです」
リーゼロッテが険しい表情で分析を加えた。腕利きの護衛たちを集める大規模な任務――それが黒幕の仕業だとすれば、相応の準備が進められている証拠でもある。
「大規模な護衛任務、か。……何を守らせようとしてるのか、気になるな」
アキトが顎に手を当てて考え込む。単なる商品や財産の護衛にしては、あまりに大掛かりすぎる話に思えた。何か、もっと大きな企みが潜んでいる予感がする。
「もしかすると、施設そのものの警備かもしれません。何か重要な拠点を築いている可能性もあります」
リーゼロッテは帳面に素早く書き加えながら、そう推測を述べた。
「拠点、か。……見つけ出せりゃ、一気に核心に近づけるかもしれねえな」
アキトの瞳に、静かな決意の光が宿った。
五人の間に、新たな緊張感が漂った。ただの手がかり探しだった旅が、少しずつ核心へと近づいていく実感が、確かに芽生え始めていた。誰もが無言のまま、それぞれの決意を胸に刻んでいるようだった。
「私も、旅の途中で妙な噂を耳にしました。……野盗たちに、闇の資金源が流れ込んでいる、と」
商人の言葉に、リーゼロッテの表情が引き締まった。彼女は懐から帳面を取り出し、商人の証言を丁寧に書き留めていく。
「南方の混乱……。もしかすると、これも黒幕の仕業かもしれません」
「野盗を扇動して、街道を混乱させる。……確かに、追手を遠ざけるにゃ効果的な手だな」
アキトは黙って夜空を見上げた。事態は、想像していたよりも根深いのかもしれない。満天の星の下、静寂に包まれた宿場町の空気が、どこか重苦しく感じられた。
夜半、宿の一室で、アキトとリーゼロッテは今後の方針について話し合っていた。
「野盗の一件、他の仲間にも共有しておくべきでしょう」
「ああ。……にしても、こういう小さな町の連中まで巻き込まれてるとなると、事態は思ってたより深刻かもしれねえな」
「ラグーサに近づくほど、こうした妨害は増えるかもしれません。慎重に進みましょう」
リーゼロッテの言葉に、アキトは頷いた。窓の外では、荒野の夜風が乾いた音を立てて吹き抜けている。
「なあ、リーゼロッテ。お前、怖くないのか」
「怖くない、と言えば嘘になります。……ですが、あなたと仲間たちがいる限り、乗り越えられると信じています」
その言葉に、アキトは小さく笑った。
「頼もしいこと言うじゃねえか」
「これでも、あなたの相棒兼財布担当ですから」
いつもの軽口に、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
翌朝、一行は商人に別れを告げ、再び南への道を歩き始めた。商人は何度も頭を下げながら、別の護衛団と合流するために別方向へと旅立っていった。
「昨夜の話、気になるな」
馬車に揺られながら、アキトが口を開いた。
「ええ。野盗の活発化が黒幕の意図的な行動だとすれば、ラグーサに近づくにつれて、同様の妨害が増える可能性があります」
リーゼロッテの分析に、シルヴィアが頷いた。
「油断は禁物だな。だが、退く理由にはならない」
シルヴィアがそう言い切ると、剣の柄に軽く手を添えた。その眼差しには、確かな決意が宿っている。
「もちろんだ。むしろ、こういう妨害があるってことは、俺たちが正しい方向に進んでるってことの証明にもなる」
アキトはそう言って、不敵な笑みを浮かべた。逆境をも糧に変える、その姿勢こそが彼らしさの真骨頂だった。
アキトの言葉に、ガイウスが小さく口の端を上げた。
「その通りだ。奴らが本気で警戒し始めているということは、俺たちが核心に近づいている証拠でもある」
ガイウスの声には、静かながらも確かな闘志が滲んでいた。長年の戦場経験が、こうした逆境をむしろ好機と捉える強さを彼に与えているのだろう。厳つい顔立ちに浮かんだ小さな笑みは、これまでの寡黙な印象とは違う、確かな頼もしさを感じさせた。
「ミミも頑張るのです! 悪い奴らの匂い、絶対に見逃さないのです!」
ミミの威勢のいい声に、一同の間に自然と笑みが浮かんだ。荒野の道は、まだ半ばにも満たない。だが、五人の足取りに迷いはなかった。
「そういや、ラグーサに着いたら、まず何から始めるんだ」
アキトの問いに、ガイウスが答えた。少し先を見据えるように、視線を南の方角へと向けている。
「まずは俺の知り合いを頼るのがいいだろう。裏の情報に詳しい古い友人が、港の近くに住んでいる。信頼できる相手だ」
「頼りになるな。……にしても、お前、意外と顔が広いんだな」
「十二年、あちこち渡り歩いてきたからな。それなりの伝手はある」
ガイウスは淡々とそう答えたが、その言葉の裏には、決して平坦ではなかったであろう十二年の重みが滲んでいた。
ガイウスの言葉に、リーゼロッテが興味深そうに帳面を開いた。
「その方の情報、詳しく教えていただけますか。事前に把握しておきたいので」
リーゼロッテが帳面を構えながら尋ねる。念には念を入れるその姿勢は、これまで幾度となく仲間たちを窮地から救ってきた。
「ああ、構わない。……名は、ロドリゴという。元は俺と同じ傭兵仲間だった男だ」
「ロドリゴという方、信頼できる人物なのですね」
「ああ。戦場で何度も背中を預けた仲だ。裏切るような男じゃない」
ガイウスの言葉には、確かな信頼が滲んでいた。長い付き合いの中で培われた絆は、言葉以上に雄弁だった。
「よし、じゃあまずはそのロドリゴってのを訪ねるところから始めるか」
「ああ。……ただ、一つ言っておく。ラグーサに着いたら、あまり目立つ真似はしない方がいい。優勝の噂が届いている可能性もある」
「なるほどな。有名税ってやつか」
アキトは苦笑しながら頷いた。優勝の栄光が、時として足枷にもなる――そんな皮肉な現実を、改めて実感させられる。
「わかってるよ。目立たねえよう気をつける」
アキトが軽く手を挙げて応じた。
「あなたにできますかね、それが」
「おい、信用ねえな」
軽口を交わす二人の様子に、シルヴィアとミミがくすくすと笑い声を漏らした。張り詰めていた空気が、いつもの調子で和らいでいく。
五人は歩きながら、それぞれの情報を交換し合った。乾いた風が吹き抜ける荒野の彼方、ラグーサの街はまだ見えない。だが、確かにその存在は、少しずつ近づいてきていた。銅貨三枚から始まった物語は、今、大陸の南方という新たな舞台へと、着実にその歩みを進めていく。
馬車の車輪が刻む音、時折聞こえる仲間たちの笑い声、そして地平線の彼方に揺らめく陽炎――五人を包む荒野の風景は、これから待ち受ける試練の厳しさを暗示しているようでもあり、同時に、確かな絆で結ばれた仲間たちの旅路を優しく見守っているようでもあった。




