第63話 旅の埃を纏う男
銅貨三枚亭に戻ってから十日ほどが過ぎた、ある昼下がりのことだった。店内には昼食を求める客がまばらに座り、いつも通りの穏やかな時間が流れている。
「邪魔するぜ」
低く響く聞き覚えのある声とともに、店の扉が開いた。旅の埃を纏った偉丈夫が、片目に眼帯をしたまま、店内をぐるりと見渡している。着古した革鎧には、長旅の跡がくっきりと刻まれていた。
「……ガイウス!」
アキトはカウンターから身を乗り出し、目を見開いた。ミミが真っ先に駆け寄り、シルヴィアも驚いたように立ち上がる。
「久しぶりだな。……噂は聞いていたぞ。優勝、おめでとう」
ガイウスは静かにそう告げると、店内の視線を集めていることに気づいたのか、少し居心地悪そうに肩をすくめた。かつて決勝の卓で対峙した相手だと気づいた常連客たちが、興味津々にこちらを見つめている。
「よく此処が分かったな。噂じゃ、俺の店なんざ大陸のどこにでもあるような小さな酒場だぜ」
「探すのに、思いのほか苦労した。……だが、それだけの価値はあったようだ」
ガイウスはそう言って、店内をもう一度見渡した。かつての静かな戦士の面影はそのままに、その表情にはどこか柔らかさが加わっているように見えた。あの決勝の卓を挟んで対峙した頃とは、まるで別人のような穏やかさが滲んでいる。
「ガイウスさん、久しぶりなのです! 元気にしてたのです?」
ミミが尻尾を振りながら、ガイウスの周りをぐるぐると回る。かつての決勝の対戦相手だったことなど、まるで忘れたかのような無邪気さだった。
「ああ、元気にしていた。……相変わらず、賑やかな嬢ちゃんだな」
「ミミは変わらないのが取り柄なのです!」
その様子に、店内の常連客たちも興味深そうに視線を送っている。中には、大会の実況を聞きかじった者もいるようで、「あの骰子の解体屋か」と小声で囁き合う声も聞こえてきた。
「まあ、座れよ。積もる話もあるだろ」
アキトが空いた席を指し示すと、ガイウスは静かに腰を下ろした。リーゼロッテがすぐさま茶を用意し、四人とガイウスを囲む形で卓が整えられる。湯気の立つ茶器が並ぶ様子に、店内の常連客たちも興味深そうな視線を向けていた。
「大陸博打大会後、俺は南方に戻っていた。……そこで、妙な話をいくつか耳にした」
「妙な話?」
アキトが身を乗り出す。ガイウスの表情には、これまでにない緊張感が滲んでいた。
「南方の港町で、覆面の集団が暗躍しているという噂だ。表向きは商会の護衛を装っているが、実際には裏の仕事を請け負っているらしい。……お前たちが追っている『覆面の男』の一件と、関係があるんじゃないかと思ってな」
アキトとリーゼロッテが顔を見合わせた。店内の喧騒が、一瞬だけ遠くに感じられるほどの緊張感が、卓の周囲に立ち込める。
「その情報、どこから?」
「賭場の裏で耳にした話だ。確証はないが、無視できる話でもない。……それに、もう一つ」
ガイウスは一拍置いて続けた。低く抑えた声には、隠しきれない重みがあった。窓の外を行き交う人々の気配さえ、この瞬間だけは遠く感じられた。
「実は、イザベラからも似たような情報が届いていた。俺のところにも彼女の使いが来てな。クロイツェル商会の情報網でも、ラグーサ周辺の不審な動きを掴んでいるらしい」
「イザベラの奴、律儀に情報を回してくれてたのか」
アキトが少し驚いたように呟くと、リーゼロッテが頷いた。かつての対戦相手が、こうして確かな協力者になっている――それもまた、この旅がもたらした縁の一つだった。
「彼女は約束を違える人ではありません。むしろ、あの実直さがあるからこそ、六年間無敗を誇っていたのでしょう」
「その集団の一人が、右手に古い火傷の痕を持っているという噂がある」
火傷の痕を持つ男、覆面の集団、そして港町ラグーサ――ばらばらだった情報の断片が、少しずつ一つの形を成しつつあった。
「火傷の痕、間違いなくうちが追ってる情報と一致しますね」
リーゼロッテが素早く帳面を取り出し、ガイウスの証言を書き留めていく。羽根ペンの走る音だけが、しばし静かな店内に響いた。
「詳しい場所は分かるか」
「南方の港町、ラグーサだ。俺自身、少し前まではその街の近くに滞在していた。荒くれ者が多い、いわゆる無法地帯に近い港町でな」
ガイウスの記憶を辿るような口調に、リーゼロッテがさらにペンを走らせる。地理的な詳細は、これからの旅程を組む上で貴重な情報だった。
「ラグーサ、ね……。行ったことねえ街だが」
「治安は最悪だ。だが、金さえ積めば大抵のことは黙認される。裏の仕事を請け負う者たちにとっちゃ、都合のいい場所なんだろう」
ガイウスは苦々しい表情でそう語った。長く戦場と裏社会を渡り歩いてきた者だけが知る、闇の実情がその言葉には滲んでいる。
「街の構造にも詳しいのか」
「ある程度はな。港を中心に、表通りと裏通りがはっきり分かれている。裏通りに足を踏み入れれば、まともな役人も手を出さない。……そういう場所だ」
「厄介な土地に潜んでいるものですね。逆に言えば、それだけ念入りに身を隠す必要がある存在ということでしょう」
リーゼロッテが冷静に分析を加える。単なる悪党ではなく、相応の理由を持って身を潜めている――そう考える方が、これまでの経緯とも辻褄が合う。
シルヴィアが腕を組み、険しい表情を浮かべた。
「もしその港町に本拠地があるとすれば、真正面から乗り込むのは危険だな」
「わかってる。だが、手がかりがある以上、放っておくわけにもいかねえ」
アキトの声には、これまでにない真剣さが滲んでいた。優勝の栄光に浸っていられる時間は、もう終わりに近づいているのかもしれない。カウンターの向こうで様子を窺っていたエレナが、心配そうな表情を浮かべていた。
「アキトさん、また旅立たれるんですか」
エレナが少し寂しそうな表情を浮かべながら尋ねる。半月前に見送ったばかりだというのに、また旅立ちの準備をする四人の姿に、彼女なりの複雑な想いがあるのだろう。
「悪いな、エレナ。留守がちで」
アキトが申し訳なさそうに頭を下げると、エレナは慌てて首を振った。その仕草には、心からの気遣いが滲んでいた。
「いいえ、そんな……! むしろ、アキトさんたちの助けになれるなら、いくらでも店は守りますから!」
エレナの力強い言葉に、アキトは頼もしそうに頷いた。
「なあ、ガイウス。お前、これからどうするつもりだ」
アキトの問いに、ガイウスはしばし黙り込んだ。窓の外では、午後の穏やかな光が店内に差し込んでいる。眼帯に覆われていない方の目が、遠くを見つめるように細められた。
「正直、まだ決めていない。……だが、お前たちがラグーサに向かうというなら、俺も同行させてもらいたい」
「いいのか。もう大会は終わった。お前には、お前の生き方があるだろ」
アキトの問いには、素直な気遣いが滲んでいた。誰かを巻き込むことへのためらいは、この博徒なりの誠実さの表れなのだろう。
「十二年、骰子だけを振り続けてきた俺の人生に、少しばかり新しい風が吹いてもいいだろう。……それに」
ガイウスは一瞬、目を細めた。
「あの覆面の連中、お前だけじゃなく、俺にも接触してきた奴らだ。落とし前をつけたいのは、お前だけじゃない」
その言葉には、これまでの寡黙な物言いには珍しい、確かな熱がこもっていた。長年、己の技術だけを頼りに生きてきた男が、初めて誰かのために怒りを見せている――そんな変化を、アキトは静かに見て取っていた。
その言葉に、アキトは小さく笑った。
「上等だ。人手は多いに越したことねえ」
アキトは頼もしそうにガイウスの肩を叩いた。かつて卓を挟んで戦った相手が、今では心強い味方になっている。この不思議な巡り合わせに、アキト自身どこか感慨深いものを覚えていた。
「決まりですね」
リーゼロッテが帳面を閉じながら頷いた。あらかじめ想定していたかのような、迷いのない仕草だった。心のどこかで、彼女もまたこの展開を予期していたのかもしれない。
「では、旅の準備を進めましょう。ラグーサまでの道のりは、決して短くありません。それなりの装備と、情報収集が必要になります」
「私も、道中の護衛について確認しておこう」
シルヴィアが立ち上がり、剣の柄に軽く触れた。長旅を見越した表情には、すでに戦士としての切り替えが見て取れた。彼女にとって、仲間の安全を守ることこそが何よりの誇りだった。
「ミミも頑張るのです! ラグーサの匂い、絶対に嗅ぎ分けてみせるのです!」
ミミが元気よく拳を突き上げる。五人の間に、新たな旅立ちへの静かな高揚感が満ちていった。
「頼りにしてるぜ、ミミ」
「任せてほしいのです! ご主人様のためなら、どんな匂いだって嗅ぎ分けてみせるのです!」
ミミの意気込みに、店内の常連客たちからも笑いと激励の声が飛んだ。長旅を控えているとは思えないほど、店内には和やかな空気が流れている。かつての戦場帰りの寡黙な男が、こんな賑やかな輪の中に混じっている――その光景を、アキトはどこか誇らしい気持ちで見つめていた。
その夜、店を閉めた後の食卓には、五人分の食器が並んでいた。エレナが腕によりをかけて用意した料理を囲みながら、旅の計画が話し合われていく。湯気の立つスープの香りが、温かい雰囲気を一層引き立てていた。
「エレナ、また留守を頼むことになる。悪いな」
「気にしないでください! バロウと一緒に、しっかりお店を守りますから!」
エレナが力強く胸を叩いてみせる。その頼もしさに、アキトは安心したように笑った。二人がいてくれるからこそ、こうして心置きなく旅立てる。それは何よりも心強い支えだった。
「ラグーサまでは、馬車で二十日ほどかかるだろう。道中、盗賊や魔獣にも警戒が必要だ」
シルヴィアが地図を広げながら説明する。かつての天馬杯遠征の経験が、こうした場面で生きているようだった。指先で示された経路には、いくつもの危険地帯を示す印が書き込まれている。
「二十日か。……長い旅になりそうだな」
アキトが腕を組み、思案顔になった。天馬杯遠征も、カルディナへの遠征も、決して短い旅ではなかった。それでも、今回はこれまでとは違う緊張感が伴っている。相手が明確な悪意を持つ存在である以上、油断は禁物だ。
「けど、今度は五人だから、心強いのです!」
ミミの言葉に、ガイウスが小さく口の端を上げた。慣れない賑やかさに、まだどこか戸惑っているような様子だったが、その表情は決して不快そうではなかった。むしろ、長らく忘れていた温かさを噛み締めるような、そんな穏やかさが滲んでいる。
「なあ、ガイウス。仲間に入ったんだから、遠慮せずに食えよ」
アキトが皿を押し出しながらそう促すと、ガイウスは少し戸惑ったように視線を落とした。
「……ああ、そうさせてもらう」
ガイウスが料理に手を伸ばすと、ミミが目を輝かせながら彼の分の皿を取り分けてやった。かつての敵が、今は同じ食卓を囲む仲間になっている――その光景に、アキトは静かな感慨を覚えていた。イザベラといい、ガイウスといい、この旅で出会った強敵たちが、いつしか大切な仲間へと姿を変えていく。それもまた、この旅が与えてくれた、かけがえのない財産の一つだった。
「明日には出発の準備を整えましょう。必要な物資は、私がリストアップしておきます」
「頼りになるな、相変わらず」
アキトが感心したように呟く。
「当然です。私はあなたの相棒兼財布担当ですから、これくらい当たり前のことです」
リーゼロッテの澄ました返しに、食卓に笑いが広がる。ミミが涙目になりながら、口いっぱいに料理を頬張っていた。
「なんだ、ミミ。泣くほど美味かったか」
「違うのです……! みんなでまた旅に出られるのが、嬉しいのです……!」
ミミの素直な言葉に、一同がそれぞれの形で微笑んだ。シルヴィアがそっとミミの頭を撫で、リーゼロッテも珍しく柔らかな表情を浮かべている。ガイウスさえも、その光景をどこか眩しそうに見つめていた。長らく一人で戦場と賭場を渡り歩いてきた彼にとって、この温かい光景は、これまで知らなかった種類の幸福を教えてくれるものだったのかもしれない。
「……いいチームだな、お前たち」
「そうだろ? 自慢の仲間だぜ」
アキトが胸を張ってそう答えると、店内にはまた笑いが広がった。窓の外には、静かな夜が広がっていた。銅貨三枚から始まった旅は、新たな仲間を加え、南方の港町ラグーサへと、その舞台を移そうとしていた。まだ見ぬ黒幕の正体、そして火傷の痕を持つ男――五人の前には、新たな試練が待ち受けている。だが、その足取りに迷いはなかった。
その夜遅く、アキトは一人、店の外に出て夜空を見上げていた。満天の星が、静かに瞬いている。
「……見てるか、女神様よ」
誰に語りかけるでもなく、アキトはぽつりと呟いた。
「あんたがくれたチート、俺なりに使いこなしてきたつもりだぜ。……次の相手は、ちっとばかり骨が折れそうだが」
答えが返ってくるはずもない独り言に、アキトは小さく笑った。だが、不思議と心は軽い。仲間たちがいる限り、どんな困難でも乗り越えられる――そんな確信めいた予感が、胸の奥に静かに灯っていた。夜風が頬を撫で、遠くから虫の音が微かに聞こえてくる。
翌朝、五人は旅装を整え、銅貨三枚亭の前に集まった。エレナとバロウが見送りに出てきて、街の人々も次々と声をかけてくる。
「みんな、行ってらっしゃい! 無事に帰ってきてくださいね!」
街の人々の温かい声援を背に受けながら、五人は静かに頷いた。
「ああ、行ってくる」
アキトが力強く頷くと、五人は街道の先へと、それぞれの想いを胸に歩き出した。銅貨三枚亭の看板が、朝日を浴びて輝いている。新たな旅の始まりを、街全体が祝福しているかのようだった。振り返れば、あの看板の下から、すべての物語が始まったのだ。




