第59話 貴公子の裏の顔
翌朝、アキトたちは決勝に向けての情報収集を再開した。相手はクラウス・エルドレッド――大陸随一の商業都市を治める貴族家の三男。裏社交界を渡り歩いてきたという噂だけが先行し、実像はまだ誰にも掴めていない。
「まずは手分けして調べましょう。リーゼロッテは商業ギルドと両替商、シルヴィアは護衛や騎士団関係者、ミミは市井の噂を」
朝食を終えたばかりの食堂で、リーゼロッテがてきぱきと指示を出す。決勝を明後日に控え、彼女の口調にはいつも以上の緊張感が滲んでいた。
「アキトはどうするんだよ」
ミミが不思議そうに首を傾げた。
「あなたは今日一日、しっかり休んでください。準決勝の消耗が抜けきっていないでしょう」
「……はいはい」
アキトは素直に頷いた。実際、二日連続の大勝負を経て、体の芯には疲労が染み込んでいる。決勝という最後の大舞台を前に、無理をする愚は犯したくなかった。
「それに、こういう情報収集は、俺よりお前らの方が向いてる。適材適所ってやつだ」
「珍しく殊勝なことを言いますね」
「珍しくは余計だろ」
軽口を叩き合いながらも、四人の間には決勝を前にした静かな緊張感が漂っていた。ミミが心配そうにアキトの顔を覗き込む。
「ご主人様、ちゃんと休むのです。無理したら、ミミが匂いで一発でバレちゃうのです」
「わかったわかった。大人しく寝てるよ」
三人が部屋を出ていくのを見送りながら、アキトは長椅子に体を沈めた。窓から差し込む昼の光が、静かに部屋を満たしていく。
夕刻、宿に戻った三人の報告を、アキトは長椅子に座って聞いていた。
「クラウス・エルドレッド、二十二歳。エルドレッド家は代々、商業都市ヴァレンシアを治める名門です。ただし彼自身は三男ということもあり、家督を継ぐ立場にはありません」
「跡取りじゃないのに、なんでそんな噂が多いんだ」
アキトは起き上がり、興味深そうに身を乗り出した。日中の休息のおかげか、顔色はすっかり良くなっている。窓から差し込む夕日が、部屋を橙色に染め上げていた。ミミが淹れてくれた茶の湯気が、静かに立ち上っている。
「そこです。彼は表向き、社交界の花形として振る舞う一方、裏では大陸各地の裏カジノや闇賭博に頻繁に出入りしているという情報がありました。しかも、単なる客としてではなく――出資者として」
「出資者?」
「賭場そのものを裏から支えている、ということです。表の顔は貴公子然とした博打好きの三男坊。しかし裏では、いくつもの裏カジノに資金を提供し、利権を握っているとの噂です。表舞台で華やかに遊びながら、裏では確実に儲かる仕組みを作り上げている――そんな人物像が浮かび上がってきました」
アキトの目つきがわずかに鋭くなった。金と権力を使って賭博を支配する――それは、かつて戦ったバルザスや、黄金杯商会のゴードンを彷彿とさせる響きだった。
「シルヴィアの方は?」
「護衛たちの間でも、彼の評判は割れている。表向きの人当たりの良さを評価する声もあれば、『あの目は信用できない』と警戒する声もあった。……ある騎士崩れは、こう言っていた。『あの男は、勝負に負けたことがない。だが、それは強いからではなく、負けそうになると必ず何かが起きるからだ』とな」
「何かが起きる、ねぇ」
「詳細は誰も語りたがらなかった。触れてはいけない話、という空気を感じた。……対戦相手が急に体調を崩したり、大会本部の判定が不可解な形で覆されたり、そういった噂も耳にした。真偽のほどは定かではないが、無視できるものではない」
シルヴィアの表情は硬い。元聖騎士団長としての勘が、何かを警告しているのだろう。彼女は普段、噂話の類を軽々しく信じることはない。それだけに、今の話には確かな重みがあった。
「それだけではない。私自身、彼の護衛の一人とすれ違った際、妙な視線を感じた。まるで、こちらの動きを逐一報告するよう命じられているかのような……。用心するに越したことはないだろう」
部屋の空気が、じわりと重くなる。ミミが遠慮がちに手を挙げた。
「ミミの方も、ちょっと変な話を聞いたのです。クラウスさんの周りにいる人たち、なんだか怯えてる匂いがするって。楽しそうにしてるのに、心の中は怖がってる――そんな感じの人が多いって、市場のおばさんが言ってたのです」
ミミは真剣な顔で、自分の鼻をとんとんと叩いてみせた。
「それだけじゃないのです。クラウスさんの護衛の一人が、こっそり酒場でこぼしてたんだって。『あの方に逆らったら、家族ごと終わりだ』って。それを聞いた人はすぐに口をつぐんじゃったらしいけど……」
「表面上は華やかに、裏では恐怖で支配してる、か。……嫌な予感がしてきたな」
アキトは天井を見上げ、指先でコインを弾ませた。これまでの対戦相手――ロラン、レオナルド、イザベラ、ガイウス――は、皆それぞれの流儀を持った、まっすぐな博徒たちだった。だが、クラウスはどうやら違う種類の相手らしい。恐怖で支配し、金で人を動かし、勝負そのものすら裏で操る――そんな輩を、アキトは何よりも嫌悪していた。
「それと、もう一つ」
リーゼロッテが声のトーンを落とした。
「両替商から聞いた話ですが……エルドレッド家は、最近になって急速に資産を増やしているそうです。しかも、その資金の出所が不透明だと。まるで、誰かに大金を融通しているかのように」
「誰かに融通、って……まさか」
「男爵に接触した覆面の男、ガイウスに接触した依頼人。あれらの資金源が、エルドレッド家だとしたら――辻褄が合います」
沈黙が部屋を満たした。もしその推測が正しければ、決勝の相手そのものが、これまで大会を通じてアキトを陥れようとしてきた黒幕である可能性が浮上する。これまで漠然としていた「裏で糸を引く何者か」という存在が、初めて明確な輪郭を持ち始めた瞬間だった。
「決定的な証拠ではありません。あくまで状況証拠です。……ですが、警戒しておくに越したことはないでしょう」
窓の外を見つめるリーゼロッテの横顔には、これまでにない緊張の色が浮かんでいた。エルフという長命種族ゆえに、これまで様々な権力者の裏の顔を見てきたのだろう。その彼女が警戒するというのは、並大抵のことではない。
「なあ、リーゼロッテ。もしそうだとして、なんでそこまでして俺を潰したいんだろうな」
「わかりません。ただの妬みかもしれませんし、あるいは……もっと大きな理由があるのかもしれません。予選から本戦まで無敗で勝ち上がってきたあなたの存在が、誰かにとって都合の悪いものになっている可能性もあります」
「都合の悪い、ねぇ」
アキトは腕を組み、思案顔になった。心当たりが全くないわけではない。だが、今はまだ、断片的な情報だけで結論を急ぐべきではないだろう。裏で糸を引く者の正体が何であれ、今すべきことは変わらない――目の前の勝負に、全力で挑むことだけだ。
「上等じゃねえか」
アキトの口元が、ゆっくりと弧を描いた。
「裏でこそこそ手を回してた奴が、いよいよ卓の向こう側に座るってわけだ。だったら話は早い。決勝の場で、洗いざらいひっくり返してやりゃいい」
「相変わらず、単純な思考ですね」
「単純が一番わかりやすいだろ」
アキトは事も無げに肩をすくめてみせた。
リーゼロッテは呆れたように息を吐きつつも、その口元にはどこか安堵したような笑みが浮かんでいた。不安に押し潰されるのではなく、真正面から立ち向かおうとするアキトの姿勢は、いつだって仲間たちの支えになっている。
「ですが、決して油断しないでください。相手が本当に大会規模の不正を操っているのだとしたら、正攻法だけでは太刀打ちできない可能性もあります」
「わかってるよ。だからこそ、お前らの目と耳を信じてる。何か怪しい動きがあったら、すぐに教えてくれよな」
「もちろんです」
リーゼロッテは静かに頷き、帳面を閉じた。
「シルヴィア、決勝当日の警備体制は?」
「本部にも話を通してある。何か不測の事態が起きても、すぐに対応できるようにしておく。……できれば、決勝が始まる前に、もう少し情報を集めておきたいところだが」
「ミミも、変な匂いがしたらすぐ教えるのです! クラウスさんの周りにいる人、みんな怖がってる匂いがするから、ミミが近くにいれば絶対気づけるのです!」
ミミの頼もしい宣言に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。アキトは長椅子から起き上がり、大きく伸びをする。
「四人揃ってりゃ、どんな相手だろうと負ける気がしねえよ。……なあ、みんな」
その言葉に、三人はそれぞれの形で頷いた。これまで数々の修羅場を共に乗り越えてきた仲間たちだからこそ抱ける、確かな信頼だった。窓の外はすでに夜の帳が下りていた。決勝は明後日。残された時間で、できる限りの備えを固めておく必要がある。
翌日、アキトは大会本部からの呼び出しを受けた。決勝進出者への諸注意という名目だったが、応接室で待っていたのは、意外にも当のクラウス・エルドレッド本人だった。護衛らしき人影はなく、彼一人が優雅に長椅子に腰掛けている。その余裕綽々とした佇まいが、かえって不気味さを際立たせていた。
「初めまして、と言うべきかな。噂のアキト殿」
柔和な笑みを浮かべた、線の細い美青年だった。仕立ての良い衣装を着崩し、どこか気だるげな雰囲気を纏っている。だが、その双眸の奥には、笑みとは裏腹な冷たい光が宿っていた。まるで、値踏みするような視線だった。
「わざわざご丁寧に。決勝前の顔合わせってやつか?」
アキトは応接室のソファに腰を下ろしながら、値踏みするような視線を隠しもせずに返した。
「まあ、そんなところだ。せっかくの機会だから、一つ提案をしにきた」
クラウスは優雅に脚を組み替え、懐から小さな革袋を取り出した。中で金貨がじゃらりと音を立てる。金貨だけで、並みの博徒が一生かけても稼げないほどの額に見えた。
「決勝で、私に華を持たせてはくれないか。もちろん、ただでとは言わない。相応の礼はさせてもらう」
「……八百長を持ちかけてるってことか」
「人聞きが悪いな。ただの、大人の取引だ。私が勝てば、お前には敗者として相応の名誉と報酬が転がり込む。悪い話ではないはずだ」
「名誉と報酬、ねぇ」
アキトはしばし無言でクラウスを見つめた。柔和な笑みの下に隠された本性――金と権力で、これまで何人もの博徒たちを従わせてきたのだろう。男爵を操り、ガイウスに接触したのも、おそらくこの男の差し金だ。こういう手合いは、これまでも何度か見てきた。金の力で全てが思い通りになると信じて疑わない、傲慢な支配者たちの顔だ。
「悪いが、その提案は受けられねえな」
「ほう。理由を聞いても?」
クラウスの声には、断られることなど想定していなかったかのような、わずかな驚きが滲んでいた。
「俺は博打が好きなんだよ。命懸けの勝負も、笑って楽しめるくらいにな。だからこそ、八百長なんてつまらねえ真似は死んでもごめんだ」
アキトはニヤリと笑い、革袋を押し返した。差し出された金貨の山を一瞥もせず、その仕草には迷いのかけらもなかった。
「それに――お前がこれまで裏で何をやってきたか、だいたい察しはついてる。決勝の卓で、洗いざらい暴いてやるよ」
「……何のことか、さっぱり分からないな」
「とぼけんのは勝手だが、お前の周りの人間は、みんな怯えてるらしいじゃねえか。楽しそうな顔の下で、心底恐怖してる。そういう空気を作り出すのは、生半可な脅しじゃできねえことだ」
クラウスの笑みが、一瞬だけ凍りついた。整いすぎた顔立ちの下に、初めて本性の一端がちらりと覗いた気がした。だが、すぐに元の柔和な表情に戻ると、静かに立ち上がった。
「……そうか。残念だ。まあいい、せいぜい足掻くといい」
クラウスは扉に手をかけたまま、ふと振り返った。
「一つだけ忠告しておこう。この大会、私だけが動いているわけではない。もし私が消えても、次の刺客が現れるだけだ。……お前が本当に恐れるべきものは、まだ姿を見せていない」
その言葉には、これまでの余裕綽々とした態度とは違う、微かな焦りのようなものが滲んでいた。まるで、自分もまた誰かに使われる駒に過ぎないと、暗に告白しているかのようだった。それだけ言い残すと、クラウスは静かに応接室を後にした。意味深な言葉の余韻が、部屋に重く残る。
その背中を見送りながら、アキトは小さく息を吐く。決勝は、単なる大会の頂上決戦ではなくなった。これまで積み重ねられてきた不穏な影の正体と、正面から向き合う戦いになる。クラウスの言葉が事実なら、この男もまた、より大きな存在の駒の一つに過ぎないということになる。
窓の外、大会本部の紋章旗が風にはためいていた。残された時間は、あと一日。大陸博打大会、最後の一戦の火蓋が、切って落とされようとしていた。
その夜、宿に戻ったアキトから話を聞いたリーゼロッテたちの表情は、一様に険しかった。
「私だけが動いているわけではない、か……。厄介なことになりましたね」
「クラウスの背後に、まだ誰かがいるってことか」
シルヴィアが腕を組み、窓の外を睨むように見つめる。
「もしそうだとしたら、決勝で勝ったところで、事態が終わるとは限らないな」
「だとしても、やることは変わらねえよ」
アキトは長椅子に深く体を沈め、天井を見上げた。
「目の前の敵を、一つずつ叩き潰す。それだけだ。黒幕がどれだけ大物だろうと、俺たちには関係ねえ」
「ご主人様、かっこいいのです!」
ミミが目を輝かせる横で、リーゼロッテが小さく苦笑した。
「単純ですが、それがあなたらしいですね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
四人の間に、いつもの温かい空気が流れる。だが、その裏側には、これまでにない大きな戦いが待ち受けていることを、誰もが確かに感じ取っていた。決勝の朝は、もうすぐそこまで迫っていた。




