第5話 銀髪のエルフディーラーは厳しい
最初の一手で、俺は確信した。
こいつは、本物だ。
ポーカーの最初のラウンドは、ごく小さなベットで始まった。俺が手持ちのチップから最低限の額を積み、リーゼロッテがそれを受ける。やり取り自体は単純だ。だが、その短い間に、俺はリーゼロッテから信じがたい量の情報を叩きつけられていた。
彼女はカードを配る速度と角度で、俺の視線の動きを誘導していた。
気づいたのは、三手目に入ってからだ。俺は手札を確認するたびに、ほんの僅かな間があった。目線がカードの隅に向く、その一瞬。ほとんどの対戦相手なら絶対に気づかないような、極めて些細な癖だ。だが、リーゼロッテはそれを既に捕捉していた。三手目の俺のベットに対して、彼女の応答が僅かに早かった。手牌の強さから計算された応答速度ではなく、俺の「考えが固まるタイミング」に合わせて打ってきたのだ。
(……読まれてる。初手から、もう読まれてた)
俺は内心で舌を巻いた。前世でも、相手の癖を一局以内に全て把握するような手合いには、ほとんど出会ったことがない。それを、このエルフの女は最初の数手でやってのけた。記憶力と観察眼が「バケモノ級」という噂に、まったく誇張はなかったらしい。
五手目。俺はあえてベットを控えた。手牌は悪くない。ワンペアに留まるが、相手の出方を見るには十分な強さだ。問題は、その「見る」行為そのものを、リーゼロッテに読まれているかもしれないという点だった。
思えば、前世でもこういう相手は何度か経験した。こちらが「見ている」ことを読まれ、さらにその「読まれた」ことを利用されるという、多重の読み合いだ。ただし前世のそれは、たいていの場合、相手の技術が高いわけではなく、単に俺の癖が目立っていただけだった。今回は違う。俺の癖が出る前に、この女は既にこちらのリズムを把握している。それが証拠に、ここまでの五手、俺がベットのタイミングを変えるたびに、リーゼロッテの応答が微妙にシフトしていた。
リーゼロッテは静かにチップを積んだ。表情は動かない。呼吸のリズムも変わらない。これまでの五手、俺は彼女の顔から何一つ読み取ることができていなかった。完璧なポーカーフェイス――という言葉では追いつかない。感情の制御というより、最初から感情そのものが存在しないかのような無表情だ。
*
十手が過ぎた頃には、俺のチップが目に見えて減り始めていた。
負け続けているわけではない。何手かに一度はきちんと勝っている。だが、勝つ時は小さく、負ける時はじわじわと大きい。典型的な「削られ方」だった。相手が圧倒的に格上の時に起きる、静かで確実な失血だ。
周囲の観客の数が、いつの間にか増えていた。最初は数人だったのが、今では二番卓の後ろに十人以上が集まってこちらを見ている。素性不明の新入り客がリーゼロッテに挑んでいると、フロア全体に話が広まったのかもしれない。誰かが「あいつ、まだ粘ってるのか」と呟くのが聞こえた。好奇の視線が背中に刺さる感覚は、悪くない。こういう場で観客に見られながら戦うのも、賭博師としての醍醐味の一つだ。
リーゼロッテが仕掛けているのは、分かる。彼女は俺の手牌の傾向を把握した上で、「アキトが勝つ手」には小さく応じ、「アキトが迷う手」には大きく賭けてくる。その判断が、信じられないほど正確だった。俺が迷っているかどうか、外から見て分かるはずがない。なのに、この女には分かる。
(俺のどこを見てやがる……)
俺は努めて平静を保ちながら、内心では高速で考え続けていた。チートを使うか? 今この瞬間も、【絶対因果】を使えば局面を変えることはできる。「次の手で有利な牌が来る確率」を弄れば、少なくとも手牌の質だけは底上げできる。
だが、俺はまだスキルを使っていなかった。
理由は単純だ。今の俺には、リーゼロッテの「限界」がまだ見えていない。この女がどこで崩れるのか、どこに綻びがあるのか、そもそも綻びが存在するのか――それを見極めないままスキルを切るのは、手札が揃っていないのにオールインするようなものだ。焦って切り札を使えば、後で詰む。
それが、博打打ちとしての本能だった。
それに正直なところ、今の状況はそこまで悲観的でもない。負けてはいるが、まだ余力はある。そして何より、戦いながらリーゼロッテという相手を少しずつ知れている。この「知る」という作業には、値段がつけられない価値がある。チップが減るのは授業料だ、と俺は半ば本気でそう思っていた。
十五手目。俺は大きめのベットを仕掛けた。手牌はスリーカード。この局面では十分に強い。リーゼロッテは静かに応じた。めくられた結果、俺の勝ちだった。だが、勝った瞬間のリーゼロッテの顔は、やはり微塵も動かない。勝ちを渡した悔しさも、計算通りだったという余裕も、何も読み取れない。
「……なあ」
俺は思わず口を開いた。
「あんた、その顔ずっとそうなのか」
「……何でしょうか」
「怒ってるわけでもなく、余裕なわけでもなく。ただただ無、みたいな顔。それ、地顔?」
リーゼロッテは一拍置いてから答えた。
「仕事中は、感情を表に出さないよう心掛けております」
「心掛けてるってレベルじゃねえだろ、それ」
「……お客様のご発言は、ゲームと無関係の雑談ですね。集中力を削ぐのが目的でしょうか」
淡々とした声で、しかし的確に返ってきた。俺は思わず笑った。
「鋭いな。半分はそうだよ。でも半分は純粋に気になったんだ。あんたみたいなタイプ、前世でも今世でも、お目にかかったことがなかったから」
「前世、とは?」
「気にすんな。それより――」
俺はチップを手に取り、指先で弾いて宙に浮かせてから掌で受け止めた。何気ない仕草のように見えて、これは俺なりの視線誘導だ。人間の目は動くものを追う。リーゼロッテの視線がチップに向いた、その一瞬に、俺は彼女の目尻の筋肉の動きを確かめた。
(……動いた)
ほんの僅かだ。コンマ何秒かのことで、他の誰にも気づけないだろう。だが、確かに動いた。リーゼロッテの目が、俺の指先の動きに反応した。
それは小さな、しかし重要な発見だった。
*
二十手が過ぎた。
俺のチップは、最初の三分の二ほどになっていた。削られ続けているが、まだ致命的ではない。問題は、この削られ方のペースが、じわじわと加速しているように感じられることだ。リーゼロッテが俺の癖を蓄積し、精度を上げているのが分かる。このまま続けば、三十手目を迎える頃には、取り返しのつかないところまで削られているかもしれない。
(そろそろ仕掛けどきか)
俺は内心でタイミングを計った。ここまでの観察で、リーゼロッテについて分かったことがいくつかある。
まず、この女には「癖がない」のではなく、「癖を完璧にコントロールしている」のだということ。先ほどのチップへの視線の動きのように、注意深く観察すれば、ごく微細な反応は存在する。問題はその反応を、意図的に「読ませるための嘘の反応」として使っている可能性があることだ。つまり、俺がリーゼロッテの反応を読んだと思った瞬間に、それが罠になる可能性がある。
次に、この女は「客を飽かさない」ための技術も持っているということ。ただ淡々と削るだけではなく、時折俺が勝てるように調整している節がある。完全に一方的に負かすのではなく、希望を見せながら沈めていく――それが、プロのディーラーとしての「仕事」なのかもしれない。
(だが、逆に言えば……)
俺は口の端を微かに持ち上げた。
その「希望を見せる」ための調整が、リーゼロッテにとっての唯一の「制約」になっているとしたら? 完璧な計算の中に、わずかな余白が生まれるとしたら? ルールに従い、客に対する「義務」を持ちながら戦うことは、完全な自由に比べてわずかだが隙が生まれる。俺のような相手に対して、それがどう機能するかは、まだ分からない。だが、穴があるとすればそこだ。
俺はチップを積み上げながら、頭の中で次の手を組み立て始めた。まだスキルは使わない。もう少しだけ、この女の底を見てやる。
二十五手目。俺はわざと大きめのベットを叩きつけた。手牌はワンペア――正直、この賭け金に見合うほどの強さではない。だが、ここで迷いのない大きなベットを仕掛けることで、リーゼロッテの反応を引き出したかった。
リーゼロッテは静かに俺を見た。わずか一拍の間があった。
それから、彼女はフォールドした。勝負を降りたのだ。
(……へえ)
俺は内心でほくそ笑んだ。ワンペアというこちらの弱い手に対して、リーゼロッテは降りた。これが何を意味するか。彼女もまた、強い手を持っていなかった可能性がある。あるいは――俺の大きなベットが「何かある」と読めて、リスクを避けたか。後者だとすれば、この女の慎重さを逆手に取れる余地がある。
問題は、俺がこの結果を「正しく解釈できているか」だ。リーゼロッテほどの手練れが、見え透いたブラフに引っかかるとは思えない。もしかすると、降りることで俺に「ブラフが通じた」という誤った自信を植えつけ、次の大きな局面で確実に仕留めるつもりなのかもしれない。
(やっぱりたまらねえな、こいつ)
読めば読むほど深みにはまる。こういう相手との勝負は、底なし沼に足を踏み入れるようなものだ。だが、だからこそ面白い。
*
三十手目が近づいた頃、俺はついに口を開いた。
「なあ、一つだけ聞いていいか」
「……ゲーム中の雑談は、本来お断りするよう求められておりますが」
「短くて済む。あんた、この二番卓で、今まで何人の客を沈めた?」
リーゼロッテの手が、止まった。
一瞬だけだった。だが今度は、先ほどの目尻の動きよりも明確な反応だ。カードに触れていた指先が、コンマ数秒だけ止まった。それから彼女は、何事もなかったように手を動かした。
「……記録はとっておりません」
「そうか」
俺は静かに笑った。この質問を選んだのは、計算の上だ。「何人沈めたか」という問いは、相手に二つの反応を要求する。一つは数字としての記憶。もう一つは、その数字に伴う何らかの感情だ。記憶力が桁外れのリーゼロッテが「記録はとっておりません」と答えたということは、数字として把握した上で、あえてそう言っているのか――あるいは、その数字に向き合うことを、意識的に回避しているのか。
どちらにせよ、この女の「完璧な無感情」の中に、触れられたくない何かが存在する可能性が出てきた。
「変な質問してすまなかったな。続けよう」
「……かしこまりました」
リーゼロッテは淡々と次のカードを配り始めた。だが、俺の目には、彼女の手元に僅かなリズムの乱れが見えた。配り終えた後、一瞬だけ手の動きが止まり、それからまた動き出した。どんな人間でも、動揺すれば動作に影響が出る。完璧に見える人間ほど、その乱れは小さい。だが、存在する。
(やっぱり、いるんだな。この仮面の奥に)
俺は手元のカードを確認しながら、内心でそっと息を吸った。何が見えた、というわけではない。ただ、リーゼロッテという女が「機械」ではなく「人間」であることが、少しだけ実感として迫ってきた。
チップを手に取り、指先でゆっくりと積み上げる。次のベットの金額を考えながら、俺はふと思った。この女はなぜ、これほど完璧な仮面を纏って仕事をしているのだろう。技術がある者が全員こうなるわけではない。何か、理由があるはずだ。
今は関係ない話だ、と頭の片隅で自分に言い聞かせる。だが、気になる。不思議と、気になった。
「アキト様、ベットをどうぞ」
涼やかな声が、静かに割り込んでくる。
俺はカードをもう一度だけ確認して、チップを積んだ。手牌はツーペア。強くも弱くもない、判断が難しい手だ。だが今の俺にとって、手牌の強さは二の次だった。
大事なのは、次の一手が何を伝えるか、だ。
*
「……少し、よろしいでしょうか」
唐突に、リーゼロッテが口を開いた。
俺は思わず顔を上げた。これまでの三十手、こちらから話しかけない限り、一切余分なことを口にしなかった女だ。ゲームの進行に必要な言葉だけを、過不足なく発し続けた女が、自分から口を開いた。
「どうぞ」
「アキト様は、どこかでカードを学ばれましたか」
予想外の問いだった。俺は少し考えてから、正直に答えた。
「前の……まあ、別の場所でな。ずいぶん昔の話だ」
「そうですか」
リーゼロッテはそれだけ言うと、また表情を閉じた。だが、聞いてきた事実は消えない。この女が、俺に対して興味を持った。それだけで十分だった。
(乗ってきてる)
確信ではない。だが、手応えがある。完璧な仮面の奥の、人間の部分が、俺という相手に対して微かに反応し始めている。まだ勝負の流れはリーゼロッテが握っている。チップの残りは最初の半分を切りそうなところまで来ていた。客観的に見れば、俺は追い詰められつつある。
それでも、焦りはなかった。
「なあ、リーゼロッテ」
「……はい」
「俺はな、人生で負けを認めたことが一度もないんだよ。諦めたこともない。どんなに追い詰められても、最後の一枚をめくるまでは絶対に席を立たない――それだけが、俺の唯一の取り柄だ」
リーゼロッテはしばらく沈黙した。それから、静かに、しかしはっきりと答えた。
「……承知いたしました。では、私も手を緩めるつもりはございません」
「上等だ」
俺は口の端を吊り上げた。宣戦布告が、ようやく成立した気がした。これまでは一方的に削られ続けていた。だが今、初めて二人の間に、対等な緊張感の糸が一本、張られた気がした。
リーゼロッテが新しいカードを配った。流れるような動作は相変わらず完璧で、白銀の髪の毛先だけが、フロアを流れる微風にほんの僅か揺れた。
「アキト様」
「なんだ」
「……少しだけ、楽しいと思いました」
俺は一拍遅れてから、盛大に吹き出した。周囲の観客がぎょっとして振り返る。リーゼロッテは相変わらず無表情のまま、次の手の準備を粛々と進めていた。
「そりゃどうも。俺もだよ」
得た情報を、今すぐ使うつもりはない。ただ、積み重ねる。一枚、また一枚と。この女の仮面に、手探りで亀裂を探すように。
勝負は、まだ始まったばかりだ。




