第4話 カジノ『フォルトゥーナ』の門を叩け
二番卓は、フロアの奥まった位置にあった。
他の卓と比べると、明らかに異質な雰囲気を纏っている。客の出入りが多い表の卓が、ざわめきと活気に満ちているのに対し、二番卓の周囲だけはどこか張り詰めた空気が漂っていた。今は誰も座っていないそのテーブルを、数人の客が少し離れた場所から遠巻きにしている有様だ。
近づくにつれて、その理由がだんだんと分かってきた。二番卓は、フロアのざわめきから僅かに隔絶されているような場所に設えられていた。周囲の卓との距離が、意図的に広く取られている。客と客の声が混ざり合わない配慮か、あるいはこの卓だけを「特別な場所」として際立たせるための演出か。どちらにせよ、店の設計者のセンスには感心する。
(なるほど、これが噂の二番卓か)
俺は立ち止まり、人垣の外からそのテーブルを眺めた。卓自体は他と変わらない。緑のベイズ生地に覆われた、ごく普通のカードゲーム用のテーブルだ。だが、フォルトゥーナほどの店が「二番卓」と特別に名を付けて際立たせているということは、そこに座るディーラーの存在感が、周囲の空気そのものを塗り替えているということに他ならない。
白銀の髪を、きっちりとお団子にまとめた女だった。
年の頃は、一見すると二十代前半に見える。だが、耳の形が、人間のそれとは微妙に違う。長く、緩やかな曲線を描いた耳――エルフだ。この異世界に来てから、エルフについての話はいくつか耳にしていた。長命で、見た目の年齢と実年齢が大きく乖離する種族だと。百歳を超えていても、外見は人間の若者とほとんど変わらないこともあるという。この女が実際にいくつなのかは、今の俺には分からない。下手をすると、俺の倍以上の年月を生きているかもしれない。
だが、そんな話は今はどうでも良かった。
外見の話をすれば、まず目を引くのは顔立ちの整い方だった。知性を感じさせる切れ長の双眸、スッと通った鼻梁、薄く引き締まった唇。表情は驚くほど動かない。カードを配る手つきは、まるで機械のように正確で無駄がなく、そのたびに艶めく白銀の髪の毛先が、肩口でわずかに揺れる。
フォルトゥーナの制服は、黒を基調とした仕立ての良いドレスだった。タイトなシルエットが、スタイルの良い体躯を余すところなく強調している。ただし本人はそれを意識している風もなく、淡々と手元のカードを捌いているだけだ。凛として隙のない佇まいは、場を支配する者特有の静けさを纏っていた。
目立つのは外見だけではない。卓を囲む空気そのものが、彼女を中心に張り詰めていた。相手をしている客が、明らかに萎縮している。それはリーゼロッテが何か威圧的な態度を取っているからではない。ただ座ってカードを配っているだけなのに、その存在感が場の重力を歪めているような感覚があった。
(……なるほど。こいつは、確かに強そうだ)
直感だった。長年の賭博生活で磨かれた、相手の格を測る目だ。あの女は、「見た目が良いから強そう」などという安易な話ではない。カードを配る指先の動き、テーブルに視線を向ける角度、周囲の客を把握するための目配り――全てが、場慣れした博打打ちのそれだった。
*
人垣のひとりに話しかけてみると、男は苦い顔で教えてくれた。
「あのディーラー、怖いぞ。リーゼロッテって名前で、フォルトゥーナが誇る最強の切り札だ。あそこの卓で勝てた客なんて、ここ半年で片手で数えるほどしかいないって聞いたぜ」
「片手で数えるほど」
「しかも、その連中もほとんどが、次の勝負で根こそぎ持っていかれてる。一度勝てたからって油断して戻ってくるんだよなあ、みんな」
男は遠い目でそう言うと、無言で立ち去っていった。どうやら自分も被害者の一人らしい。
別の観客にも話しかけてみると、リーゼロッテについての話は次々と出てきた。記憶力が人外の域にあり、一度でも対戦した相手の癖や手の傾向を完全に記憶してしまうこと。計算能力が桁外れで、手牌の組み合わせと場の状況から確率を即座に弾き出してしまうこと。そして何よりも、ポーカーフェイスが文字通り「完璧」であり、心理戦で崩した者がこれまで誰もいないこと。
(心理戦で崩せない、か)
俺は顎を撫でた。それは確かに、厄介な特性だ。俺の戦闘スタイルは、基本的にブラフ――ハッタリによる心理的な揺さぶりを主軸に組み立てる。相手の感情の動きを誘発し、判断を歪ませることで、対等以上の勝負を作り出す。だが、感情の揺れを一切見せないディーラーに対しては、その手が根本的に機能しない可能性がある。
(まあ、それはそれで面白い。崩せないなら、崩せるまで押し込めばいいだけだ)
俺は口元を緩めた。強敵の情報を前にして、尻込みするような性分ではない。むしろ、障壁が高ければ高いほど、乗り越えた時の気持ち良さが増すというものだ。
俺は改めて、遠巻きにリーゼロッテを観察した。今、彼女の卓には一人の男性客が座って勝負中だ。中年の、いかにも金持ちそうな身なりの男で、テーブルに積まれたチップの山を見るに、それなりの大勝負を繰り広げている最中らしい。
リーゼロッテの手元を目で追いながら、俺は息を呑んだ。カードの配り方が、常軌を逸している。一枚一枚の動作が、ほとんど無駄のない完璧な動線で行われていた。それ自体は熟練のディーラーなら当然のことかもしれないが、この女の場合はその先がある。配りながら、同時に客の表情と手元を観察し、場の空気を読み、次の展開を計算している――それが、指先の僅かな動きの変化から透けて見えた。
前世でも、これほどの技術を持ったディーラーには滅多にお目にかかれなかった。
一度だけ、元の世界で似たような存在に出会ったことがある。マカオの高級カジノで、機械のように無駄のない動作でカードを捌く老いたディーラーだった。あの男は一言も喋らず、ただ黙々と場をコントロールし続けた。俺はその日、散々に負かされた。二十代の俺が、唯一「勝てない」と素直に感じた相手だった。
目の前の白銀の女からは、あの老ディーラーと同質の、しかしそれ以上の何かを感じた。
勝負の途中で、金持ちの男が大きなベットを仕掛けるのが見えた。余裕の表情だ。良い手を引いたのだろう。だがリーゼロッテは表情一つ変えず、静かに応じた。そしてカードをめくった瞬間、金持ちの男の顔から血の気が引いた。何が起きたのか、遠目からは手牌の中身は分からない。ただ、その結果だけが全てを物語っていた。
(たまらねえな、おい)
腹の奥から何かが滾り上がってくる感覚があった。恐怖ではない。純粋な闘志だ。あれほどの相手を向こうに回して、どこまで立ち回れるか――考えるだけで、心臓が速くなる。俺はギャンブラーとして前世を生きてきたが、こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。
そうこうしているうちに、目の前の勝負が決着した。金持ちの男がうなだれ、山になっていたチップが次々とリーゼロッテの側へと移っていく。男は何も言わず、席を立って立ち去った。その背中が、あまりにも哀愁に満ちていた。
二番卓が、無人になった。
周囲の観客たちが、静かに息を呑むのが分かった。次に誰が挑むのか、あるいは誰も挑まないのか――そういう空気が漂っている。実際、遠巻きにしていた連中の中で、前に出ようとする者は一人もいない。あれほどの圧倒的な敗北を目の当たりにしておいて、自ら飛び込もうという酔狂な客は、そうそういないらしい。
リーゼロッテは無言で次のカードの準備を始めた。流れるような手つきで、使い終わったカードを回収し、新しいデッキを手に取る。誰かが来ることを前提に、粛々と準備を続けるその姿は、妙な凄みがあった。来るなら来い、という静かな覚悟のようなものが、その背筋の伸び方に滲んでいる。
(上等だ)
俺は懐の紙幣を確かめてから、ゆっくりと歩みを進めた。
*
椅子を引いて腰を下ろした瞬間、リーゼロッテの視線がこちらに向いた。
感情の色が一切ない目だった。先ほど客を打ち負かした達成感も、次の客を前にした緊張感も、何もかもが完全に制御された、プロのそれだ。ただ、その静かな目の奥に、値踏みするような観察の光が宿っているのを、俺は見逃さなかった。
「いらっしゃいませ」
声は、予想よりも低く、涼やかだった。抑揚は最小限で、余計な愛想というものが微塵も感じられない。
「ご希望のゲームは何でしょうか。当卓ではポーカー、バカラ、それと当店独自の魔導カードをご用意しております」
「ポーカーで頼む」
「かしこまりました。レートはいかほどに?」
「あんたが出せる最高額に合わせてやるよ」
俺がそう言った瞬間、リーゼロッテの手が、ほんの一拍だけ止まった。一瞬のことで、傍目には分からなかっただろう。だが俺は見ていた。この女が初めて見せた、予想外の反応だ。
「……最高レートは、当店が責任を持てる範囲内での上限がございます」
「知ってる。その上限でいい。出し惜しみするつもりはねえ」
少しの間があった。リーゼロッテはこちらをじっと見つめた。まるで、俺の全身を隅々まで走査するような目だ。何を見ているのだろう、と俺は思った。勝負の相手として値するかどうかを、判断しているのかもしれない。
「……お客様、フォルトゥーナは初めてでいらっしゃいますか」
「今日来たばかりだ」
「さようですか」
そう言いながら、リーゼロッテはカードをシャッフルし始めた。動作はやはり、完璧なまでに無駄がない。だが、シャッフルの途中で一度だけ、本当に一瞬だけ、彼女の目がこちらの手元に向けられた。
(……見てるな。俺の指先を)
俺は内心で苦笑した。この女、既に俺を「一般客」として扱っていない。恐らく受付の係員から、裏部屋での騒動の話が伝わっているのだろう。あるいは、それとは別の何かを――俺の所作の中に、博打打ちの気配を嗅ぎ取ったのかもしれない。
「お客様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
フォルトゥーナでは、高額卓に座る客には名前を聞く慣習でもあるのかもしれない。あるいはこれも、情報収集の一環か。俺は一瞬考えてから、元の世界でつけていた通り名を口にした。
「アキトだ。それ以上は知らなくていい」
「……アキト様」
リーゼロッテはその名をそのまま繰り返すと、完璧な笑みを浮かべてみせた。口元だけの、目の笑っていない微笑みだ。感情を意図的に抑制しているというより、笑うという行為そのものが、この女にとって純粋な業務的動作になっているように見えた。
それが、なぜだか妙に気になった。こんな完璧な仮面を被って仕事をするには、それなりの理由があるはずだ。まあ、今は関係のない話だが。
「では、参りましょうか」
カードが配られた。俺の手元に、五枚のカードが滑るように届く。
指先でそっとカードを傾けて、中身を確認した。ペアが一組と、バラバラの数字が三枚。悪くはないが、強い手でもない。普通のプレイヤーなら、ここで小さく賭けるか、あるいは様子見に徹するところだ。だが俺は、すぐには動かなかった。
それよりもまず、観察だ。
リーゼロッテの手元、目線の方向、呼吸のリズム、指先が次のカードに触れるタイミング――全ての情報を、可能な限り吸収する。たった一手目で、相手の癖を全て把握できるとは思っていない。だが、何もないよりはるかにマシだ。ギャンブラーというのは、卓に着いた瞬間から勝負が始まっているものなのだ。
リーゼロッテはこちらの様子を伺いながら、静かにベットを待った。その目は相変わらず、何も映していないような無表情だ。だが、俺の視線とぶつかった一瞬だけ、わずかに目が細まったように見えた。
(こいつも、俺を観察してる)
当たり前の話だ。プロのディーラーとして、相手の手の傾向を読むのは基本中の基本だろう。だが、この女の場合はその解像度が段違いだという話だった。
しばらく沈黙が続いた。俺もリーゼロッテも、互いを測りながら動かない。まるで、最初の一手を打つことそのものが、一つの賭けになっているかのような空気だった。
周囲の客が、気づけば足を止めてこちらを見ている。遠巻きにしていた観客たちが、何事かと距離を縮めてきている気配がある。腕利きのディーラーと、素性不明の新入り客の間に漂う、独特の緊張感を感じ取っているのかもしれない。誰かが「あいつ、本当に挑むのか」と囁くのが聞こえた。ひそひそ話が広がり、二番卓の周囲にじわじわと人が集まり始める。それもまた、一つの見せ場だと思えば悪くない。
俺はゆっくりと口の端を持ち上げた。
リーゼロッテとの最初の一手がどう転ぶかは、まだ分からない。ただひとつ確かなことがある。この女は、これまで俺が異世界で相手にしてきた、誰よりも格が違う。だからこそ、この胸の高鳴りが止まらないのだ。
「さあ、楽しもうじゃねえか」
俺は口の端を吊り上げ、チップを手に取った。最初の一手。この賭けの大小ではなく、その打ち出し方そのものが、俺という博徒の全てを相手に伝える一言になる。リーゼロッテの切れ長の目が、静かにこちらへと向けられた。
フォルトゥーナの二番卓で、俺とリーゼロッテの物語が、今、始まろうとしていた。
後から思えば、この瞬間が全ての始まりだった。白銀の髪のエルフディーラーと目が合った、この一瞬から、俺の異世界ギャンブルライフは想像だにしなかった方向へと転がり出していく。今の俺には、もちろんそんなことは知る由もない。ただひたすらに、目の前の勝負のことだけを考えていた。それだけが、俺という博徒の生きる理由だったのだから。リーゼロッテの白銀の瞳が、静かに俺を捉えた。その奥に一瞬だけ、何か――鋭い光が宿ったような気がした。




