第3話 無一文からの大逆転劇(物理)
「二番卓、ね……」
係員の忠告を背に受けながら、俺はフロアの奥へと足を踏み入れた。頭の中に刻んだのは、その名前だけではない。むしろ大事なのは、「今すぐには挑まない」という判断だ。噂に聞く強敵に、準備もなく突撃するほど俺は無謀じゃない。まずは腕慣らし――この店の空気に慣れ、卓のルールを把握し、それから満を持して二番卓に乗り込む。それが博打の常道というものだ。
手始めに向かったのは、フロアの端にある小規模なダイスゲームの卓だった。前世の記憶にある「クラップス」に似た遊びで、ルールもすぐに飲み込めた。多少の緊張感を演出しながら、俺は【絶対因果】をごく軽く使い、堅実に勝ちを重ねていく。連発を避け、時折は純粋な確率任せで負けを演じ、周囲に「運が良いだけの一般客」だと思わせる。この匙加減こそが、イカサマ師の腕の見せ所だ。
卓を取り仕切っているディーラーは、若い男だった。愛想は良いが、目つきだけはやけに鋭く、時折こちらの手元を注意深く観察している素振りが見て取れる。プロの目は誤魔化しにくい、とはよく言ったものだ。だからこそ俺は、あくまで「運が異常に良いだけの素人」を演じ続けた。イカサマの痕跡を残さない【絶対因果】は、この手の観察眼にも引っかからない。何しろ、俺の指先も、サイコロの物理的な軌道も、何一つ不自然な動きをしていないのだから。
隣の卓では、カードを使った別のゲームが繰り広げられていた。見たところ、ポーカーに似た役作りのゲームらしい。この世界にも、トランプに近い文化があるとは意外だった。異世界だからといって全てが違うわけではない、というのは、こういう細部から実感するものらしい。
小一時間ほどで、懐の紙幣はさらに膨らんでいた。上出来だ。次はもう少し規模の大きなテーブルに挑んでみるか――そう考えていた矢先、後ろから声をかけられた。
「兄さん、羽振りが良さそうだねえ」
振り返ると、恰幅の良い中年の男が、へらへらとした笑みを浮かべて立っていた。派手な柄のシャツに、指には安っぽい宝石をあしらった指輪をいくつも嵌めている。一目で「素人を狩る側の人間」だと分かる出で立ちだ。
「俺の目に狂いがなけりゃ、あんた相当な腕前だ。どうだい、俺が仕切ってる裏の卓で、ちょいと勝負してみないか。ここのテーブルよりずっと美味い思いができるぜ」
(……典型的な誘い文句だな)
元の世界でも、こういう手合いは腐るほど見てきた。カモを甘い言葉で釣り出し、閉鎖的な空間で身ぐるみを剥ぐ古典的な手口だ。だが、俺は敢えて乗ってやることにした。相手の手口を見極めるのもまた一興だし、何よりこの手のイカサマ師を返り討ちにする瞬間は、堪らなく気分がいい。
「面白そうじゃねえか。案内してくれよ」
二つ返事で頷いた俺を見て、男は「話が早いねえ」とほくそ笑んだ。この手の輩は、獲物が食いつきの良い態度を見せるほど油断するものだ。警戒心の薄いカモを演じるのも、駆け引きのうちである。
連れ立って歩く間、男は身の上話めいたことをペラペラと語り出した。この街で長年裏の賭場を仕切ってきたこと、フォルトゥーナの表フロアでは決して見られない「本物の勝負」をここでは味わえること――話半分に聞き流しながら、俺は男の物腰、視線の動き、指先の癖を観察していた。手練れのイカサマ師ほど、無意識の仕草に癖が出るものだ。案の定、この男は緊張すると右手の親指で指輪を弄る癖があるらしい。良い情報を貰った。
*
連れて行かれたのは、フロアの裏手にある薄暗い小部屋だった。テーブルを囲むように、恰幅の男の仲間らしき数人が座っている。表向きのフロアとは違い、監視の目も緩そうな空気が漂っていた。
「ルールは簡単だ。カードを一枚ずつ引いて、数字の大きい方が勝ち。掛け金は青天井、好きなだけ賭けな」
単純明快なルールだが、当然ながら裏がある。案の定、男が配るカードの束には、僅かに縁が擦れた跡がある一組が混ぜられていた。触感の違いで、どのカードが強い数字かを配り手が判別できる仕掛けだろう。前世で散々見てきた古典的なイカサマだ。
思えば、前世で俺が最初に叩き込まれたのも、こういう「マーキングされたカード」の見抜き方だった。師匠と呼べる存在がいたわけではない。場末の雀荘で、先輩格の博打打ちに殴られながら教え込まれた技術だ。目の前の仕掛けを見た瞬間、懐かしさすら覚えるほどには、俺はこの手のイカサマに精通している。
(分かりやすいイカサマだが……あえて乗ってやる)
俺は最初の数戦を、わざと負けてやった。持ち金がみるみる減っていくのを見て、恰幅の男の目に隠しきれない愉悦の色が浮かぶ。周囲の仲間たちも、下卑た笑いを堪えきれずにいる。カモが順調に骨までしゃぶられていく様を眺める、実に醜悪な光景だ。
「おいおい、兄さん。運がないねえ。まあ、もう少し続けるかい?」
「……ああ、続けるさ」
俺は歯を食いしばる演技をしながら、懐の紙幣を残らずテーブルに叩きつけた。ここまでで、稼いだ金のほとんどが消え去っている。傍から見れば、まさに「無一文」に転落する寸前の哀れなカモだ。
「これで、有り金全部だ」
「太っ腹じゃねえか。よし、受けて立とう」
男がニヤニヤと笑いながらカードの束を手に取った瞬間、俺は【絶対因果】を発動させた。狙いは単純――「男が意図的に配ろうとしている低い数字のカードが、俺の手元に来ない確率」。イカサマの仕掛けそのものを潰すのではなく、その仕掛けが「機能しない」方向へ、確率をほんの少しだけずらしてやる。これなら、消費する魔力もごく僅かで済む。
配られたカードを見て、男の顔が固まった。俺の手札は、この勝負における最強の数字。
「な――ッ!?」
「悪いな。今日は俺の日らしい」
俺はニヤリと笑ってみせた。男の顔から血の気が引いていく。仲間たちも慌てて何やら耳打ちを交わし始めた。ここまでは想定通りだ。だが、この手合いの本性は、負けた瞬間にこそ出る。
「……こら兄さん、いくらなんでも出来すぎだろう。おい、こいつ何か仕込んでやがるぞ!」
案の定、男は掌を返して凄み始めた。イカサマをしていたのは自分の方だというのに、実に都合の良い言い草だ。仲間たちが席を立ち、俺を取り囲むように距離を詰めてくる。
「金は返してもらう。それと、詫び料として、その身ぐるみも剥がさせてもらうかね」
「はっ、面白いこと言うじゃねえか。イカサマをやってたのはどっちだよ」
「証拠でもあんのか、あぁ?」
完全に開き直った物言いに、俺は思わず笑いが漏れた。証拠か。確かに、俺の使った力は目に見える痕跡を一切残さない。だが――
*
「証拠なら、あるぜ」
俺は懐から先ほど男が使っていたカードの束を、素早く抜き取っていた。相手が気を取られている隙に、手品師顔負けの指先の技で掠め取ったものだ。前世で磨いたスリの技術が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
「このカードの縁、擦れてるだろ。触ればすぐ分かる細工だ。これ、あんたが用意したもんだよなあ?」
男の顔が青ざめた。仲間たちも一斉に息を呑む。誰も彼も、まさか自分たちが用意した仕掛けを、逆に突きつけられるとは思っていなかったのだろう。
「て、てめえ、いつの間に――」
「表のフロアに突き出してもいいんだぜ? この店、イカサマには結構厳しいんだろ」
俺は余裕の笑みを崩さず、カードをひらひらと振ってみせた。実際のところ、表沙汰にする気などさらさらない。面倒事は御免だ。だが、こういうハッタリで相手を怯ませる駆け引きこそ、俺の真骨頂である。何より、相手が完全に及び腰になっているこの瞬間を、逃す手はない。
「わ、分かった! 分かったから、それをしまってくれ! 今日の勝負はなかったことに、いや、あんたの総取りでいい! それでどうだ!?」
「最初からそう言えばいいんだよ」
俺は肩をすくめると、テーブルに積まれた金をかき集め始めた。ここに至って、男は完全に戦意を喪失していた。周囲の仲間たちも、もはや手出しする気力すら失っている。予想以上の上物を狩ったつもりが、逆に手痛くやり返された恰好だ。
金を数える手つきに満足しながら、俺は内心でほくそ笑んでいた。裏の賭場での駆け引きなど、前世で嫌というほど経験してきた。相手の手の内を見切り、逆手に取り、最後にはこちらが優位に立つ――この一連の流れは、もはや身体に染み付いた習性のようなものだ。むしろ、こういう泥臭い攻防の方が、正々堂々としたゲームより性に合っているまである。
だが――金をかき集めて振り返った瞬間、俺は思わぬ伏兵に足を掬われることになる。部屋の入り口を塞ぐように、屈強な体格の用心棒が立ちはだかっていたのだ。
「旦那の顔に泥を塗った奴は、ただじゃ帰さねえ主義でね」
「……おいおい、話が違うだろ」
俺は思わず苦笑した。頭脳戦には自信があるが、正面からの力比べとなると、俺の貧弱な肉体では分が悪い。だが、退く理由もない。ここで無様に叩きのめされて金を奪い返されるようでは、二番卓に挑む資格などないというものだ。
用心棒は無言のまま拳を鳴らし、ゆっくりと間合いを詰めてくる。素人目にも分かるほど、鍛え上げられた分厚い体躯だ。まともに一発でも喰らえば、それだけで意識を刈り取られかねない。だが、恐怖よりも先に、胸の奥で燃え上がる高揚感の方が勝っていた。命懸けの局面ほど、俺の頭は冴え渡る。ギャンブラーとして生まれついた性分なのだろう。
「上等だ。腕っぷしで来るってんなら、受けて立ってやるよ」
俺は拳を握りしめながら、内心で考えを巡らせた。腕力そのものをスキルで底上げすることはできない。だが――「相手の拳が的確に急所を外れる確率」や、「俺の踏み込みが理想的な軌道を描く確率」を弄ることならできる。物理的な力そのものではなく、その結果に至るまでの過程を、ほんの少しだけ操作してやればいい。
考えてみれば、これは実に理に適った使い方だ。前世で学んだ体術は、あくまで「素人並みの喧嘩の心得」程度でしかない。真正面から力比べをすれば、この巨漢に勝てる道理はどこにもない。だが、【絶対因果】で「結果」の方をわずかに書き換えてやれば、素人の体術でも玄人の一撃に化ける。まさに、詐欺師の戦い方だ。正々堂々からは程遠いが、生き残るためなら手段は選ばない。それが俺の流儀だった。
用心棒が拳を振りかぶった瞬間、俺は最小限の動きでそれを躱し、隙だらけになった相手の懐に潜り込んだ。前世で身につけた体術の心得と、【絶対因果】による僅かな軌道補正が噛み合い、俺の拳は面白いように急所へと吸い込まれていく。
「ぐはっ――!?」
巨漢の用心棒が、あっけなく膝を折った。周囲の男たちが呆然と立ち尽くす中、俺は肩で息をしながらも、不敵な笑みを浮かべてみせた。
もっとも、内心では冷や汗をかいていた。今のは、狙いが少しでもズレていれば、返り討ちに遭っていた賭けだった。魔力の消費もそれなりにあった。荒事に慣れていない身体には、この手の緊張感は正直言って堪える。だが、それでも――勝った瞬間の高揚感だけは、何物にも代え難い。
「言ったろ。今日は俺の日だってな」
巨漢を叩きのめした俺を、周囲の男たちは誰一人として止めようとはしなかった。恰幅の男も、床に膝をついたまま、蒼白な顔でこちらを見上げているだけだ。もはやこの場に、俺を脅かす者は残っていない。
「金は貰っていくぜ。それと――」
俺はテーブルの端に残されていたイカサマ用のカードの束を、もう一度掌の上で弄んだ。
「次にカモを狩るときは、もう少し腕を磨いてから出直すんだな。素人相手にしか通用しないような雑な仕掛けじゃ、いずれもっと恐い相手に痛い目を見るぜ」
捨て台詞にしては説教くさいと自分でも思ったが、これは掛け値なしの本心だった。イカサマも騙し合いも、それ自体を否定するつもりは俺にはない。だが、稚拙な仕掛けで無防備な素人ばかりを狩るような真似は、博打の美学からあまりにもかけ離れている。それは単なる搾取であって、勝負ではない。
こうして、俺は無一文に転落しかけたところから、文字通り「物理的」な大逆転劇を演じきり、懐に稼ぎを取り戻すことに成功した。表のフロアに戻る頃には、既に日はすっかり高く昇り、店内は昼の賑わいを見せ始めていた。
服の乱れを整えながら歩いていると、擦れ違ったフロアの係員たちがギョッとした顔でこちらを見てくることに気づいた。裏部屋での騒動が、既に何らかの形で伝わっているのかもしれない。まあ、表沙汰にする気がないのはあちらも同じだろう。イカサマ師と用心棒が客に返り討ちにされたなどと、店の評判に関わる話を誰が好んで広めるものか。
「さて……そろそろ本題に入るとするか」
俺は乱れた襟元を直しながら、フロアの奥、二番卓と呼ばれる一角へと視線を向けた。あそこに座っているという、噂の凄腕ディーラー。どんな面構えの相手なのか、想像するだけで胸が高鳴る。
思えば、異世界に来てからというもの、退屈する暇が一切ない。側溝に落ちて死んで、女神に会って、チートを貰って、路地裏の賭場で稼いで、裏部屋で用心棒を叩きのめして――たった一日足らずの出来事とは思えないほど、濃密な時間を過ごしている。だが、それこそが俺の望んだ生き方だ。刺激のない人生など、賭ける価値もない安いチップのようなものだ。
懐の紙幣は、朝方に稼いだ額をとうに超えていた。無一文に転落しかけた反動もあってか、今の懐具合には妙な満足感がある。どん底から這い上がってこそ、勝利の味は一層甘くなる。それもまた、博打というものの醍醐味だ。
俺は不敵に笑いながら、ゆっくりと二番卓へと歩みを進めた。この先に待ち受けているのが、白銀の髪をした一人のエルフの女であることを、今の俺はまだ知らない。




