第30話 隣の街の、小さな酒場にて
朝日が完全に昇りきる頃、アキトたちはようやく小さな酒場の前に辿り着いた。看板には『黒猫亭』と書かれた木製の札が揺れており、扉の隙間から漏れる灯りと、パンを焼く香ばしい匂いが、四人の疲れ切った体を優しく出迎えていた。
「……着いた」
ミミが感極まったように呟く。長い逃避行の末、ようやく辿り着いた安らぎの場所を前に、アキトも思わず肩の力を抜いた。
「よし。とりあえず、腹ごしらえと行くか」
「アキト。念のため確認しますが、お金は――」
「銅貨三枚だけだ」
「それだけで、四人分の食事と宿代を賄うおつもりですか」
「賄うんじゃねえ。稼ぐんだよ、これから」
アキトはニヤリと笑いながら、扉を押し開けた。
店内は思いのほか賑わっていた。早朝から働く農夫や、旅の行商人らしき者たちが、パンと温かいスープを囲んで談笑している。カウンターの向こうでは、恰幅の良い女将が忙しそうに鍋をかき混ぜていた。壁には所狭しと、この街の名産らしき果実酒の瓶や、旅人たちが残していったのであろう見慣れぬ土産物が飾られている。
「いらっしゃい! って、あんたたち、ずいぶんとくたびれた様子だね」
女将はアキトたちの姿を一瞥すると、驚いたように目を丸くした。無理もない。土埃にまみれた服、裸足のリーゼロッテ、聖剣を背負ったシルヴィア、そして眠そうな顔のミミ。誰がどう見ても、只事ではない訳ありの一行だった。
「実は色々あってな。夜通し歩いてきたんだ」
「へえ。まあ詳しい事情は聞かないでおくよ。それが旅人ってもんだ。それで、何を頼むんだい?」
「悪いんだが、今の持ち金がこれだけでな」
アキトは懐から銅貨三枚を取り出し、カウンターに並べて見せた。女将は一瞬呆気に取られたような顔をした後、豪快に笑い出した。
「はっはっは! こりゃまた清々しいほどの一文無しだね! いいだろう、今日のところはパンとスープを一皿ずつ、その銅貨三枚で出してやるよ。その代わり、次に来る時はちゃんと稼いでからおいで」
「助かる。恩に着るぜ、女将さん」
「なに、一晩中歩き通してきたような客を追い返すほど、あたしも鬼じゃないさ。……それにしても、あんたたち、随分と訳ありの雰囲気だね。まあ、詮索はしないさ。この店には、色んな事情を抱えた旅人が流れ着くもんだからね」
女将はそう言うと、快活に笑いながら、奥の厨房へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、リーゼロッテは小さく息を吐いた。
「良い人ですね、あの女将さんは」
「ああ。こういう街のこういう店には、大抵、変な事情に慣れた人情深いのがいるもんだ」
「ずいぶんと経験談めいた口ぶりですね」
「前世でも、似たような店に世話になったことが何度もあるんでな」
運ばれてきた温かいスープとパンを前に、四人は久しぶりにまともな食事にありついた。焼き立てのパンの香ばしさと、じんわりと染み渡る野菜スープの温かさが、疲弊しきった体に染み渡っていく。
「……美味い」
アキトが思わず呟いた一言に、リーゼロッテも小さく頷く。
「ええ。屋敷で食べていた高級な料理よりも、今のこの一杯の方が、よほど美味しく感じられます」
「贅沢に慣れすぎてた反動だろうな」
「それもあるでしょうが……」
リーゼロッテはスプーンを持つ手を止め、静かに笑った。
「一緒に食べる相手が、心から信頼できる仲間だからかもしれません」
その言葉に、シルヴィアもミミも、それぞれ小さく微笑んだ。金も地位も失った今この瞬間、四人の間には、それら全てに勝る確かな絆が結ばれていた。
シルヴィアはスープを一口すすると、ふと真面目な顔つきになった。
「アキト殿。今後のことですが、この街でしばらく身を潜めるおつもりですか。それとも、さらに先へ?」
「まずは資金作りが先決だな。それに、あの国の追手がどこまでしつこいかも分からねえ。当面はこの街で様子見といくか」
「宿を取るにも、まずは元手が必要ですね」
「それも今から何とかする」
「今から、ですか」
リーゼロッテが訝しげにアキトを見つめる。その視線の先で、アキトの目は既に店の奥へと向けられていた。
ミミがパンの最後の一切れを頬張りながら、ふと不安げな顔をした。
「ご主人様。今夜、ミミたち、どこで眠るのです? お屋敷、もうないのです」
「そこは今から何とかするって言ってるだろ」
「何とかするって、具体的にはどうするのですか」
リーゼロッテが追及するように尋ねると、アキトは肩を竦めた。
「まずは今夜の宿代を稼ぐ。話はそれからだ」
「稼ぐ、というと、まさか……」
「察しがいいな、リーゼ」
リーゼロッテは深い溜息をついた後、諦めたように首を振った。
「もう、何も言うまいと思っていたのですが……。少なくとも、無茶だけはしないでくださいね」
「無茶こそが俺の生き様だろうが」
「それを聞いて、少しも安心できません」
シルヴィアも苦笑しながら、剣の柄に軽く手を添えた。
「万が一、揉め事になった際は、私が対応いたします。……もっとも、ただのサイコロ遊びで剣を抜く羽目にはなりたくありませんが」
「そうならねえように、上手くやるさ」
食事を終える頃、店の奥のテーブルで、数人の男たちがサイコロを転がしながら賭け事に興じているのが目に入った。使い古された革袋から取り出されたサイコロが、木製のテーブルの上で乾いた音を立てて転がる。
「へへ、また俺の勝ちだ。次、賭けるのは誰だ?」
勝ち誇ったように笑う男の前には、小さな銅貨の山が積み上がっていた。周囲の客たちは、遠巻きにその様子を眺めながら、時折感嘆の声を漏らしている。中には、財布の紐を固く締めながら、それでも興味深そうに視線を送る者もいた。
アキトの目が、その光景を捉えた瞬間、獰猛な光を宿した。
「アキト……。まさか、とは思いますが」
「リーゼ。俺を誰だと思ってる」
「あなたのことを、誰よりもよく知っているつもりの人間ですよ。だからこそ、嫌な予感しかしません」
「そう言うなって。これも生きるための知恵だ」
アキトはニヤリと笑いながら立ち上がった。空になった器を脇に押しやり、懐の――今はもう空になった――巾着を軽く叩く。
「銅貨は使い切っちまったが、まだ俺には、これがある」
アキトは自分のこめかみを指差した。
「頭と、度胸と、それから、ちょっとした強運だ」
「その強運とやらが、天馬杯でどうなったか、もうお忘れですか」
「忘れちゃいねえよ。だからこそ、次はしくじらねえようにするだけの話だ」
シルヴィアが呆れたように溜息をつく。
「懲りないお方ですね、本当に」
「懲りてたら、ギャンブラーなんて名乗ってねえよ」
ミミが目を輝かせながら、ぴょんと椅子から飛び降りた。
「ご主人様、頑張ってなのです! ミミ、応援してます!」
「よし、その言葉だけで十分だ」
アキトは軽い足取りでサイコロ賭博のテーブルへと近づいていく。その背中を見つめながら、リーゼロッテはふっと小さく笑った。
「……本当に、しょうがない人」
その声には、呆れと同時に、確かな信頼と愛おしさが滲んでいた。
テーブルの脇に立ったアキトは、勝ち誇る男に向かって、いつものへらへらとした軽薄な笑みを浮かべながら声をかけた。
「なあ、そこのあんた。ちょっと退屈してねえか」
「あ? 何だお前」
「今朝、隣の国から着いたばかりの旅の博徒でね。見たところ、あんたの腕前、なかなかのもんだ」
「そりゃどうも。だが何が言いてえんだ」
「決まってんだろ」
アキトは懐から――正確には何も入っていない空の懐から、あえて仕草だけ大袈裟に、まるで何かを取り出すかのように手を動かして見せた。実際に賭けるものなど、今の彼には何一つ残っていない。だがそんなことは、些細な問題に過ぎなかった。
「なあ、宿代賭けて勝負しねえ?」
その一言に、店内の空気がわずかにざわめいた。一文無しの旅人が、いきなりサイコロ賭博の卓に割り込んでくる。誰の目にも、無謀としか映らない挑戦だった。
「はっ、面白えこと言うじゃねえか。だが見たところ、賭ける元手すらなさそうだが」
「元手ならある。俺自身の腕っぷしと、こいつらだ」
アキトは背後で見守る三人の仲間たちを指し示した。
「もし俺が負けたら、俺たち全員、明日からあんたの言うこと何でも一つ聞いてやる。もちろん、非合法なことは除いてな」
「へえ、随分と面白い賭けだ。……いいだろう、受けて立ってやるよ、兄さん」
男が不敵に笑いながら、サイコロを差し出す。
カウンターの向こうで、女将が興味深そうにこちらを見つめている。窓の外では、朝日が完全に街並みを照らし始めていた。
男の名は、ガロという地元の運送屋だと、周囲の客たちが口々に教えてくれた。腕っぷしも度胸もあるが、それ以上に博打好きで知られており、この街の酒場では顔役のような存在らしい。
「兄さんよ、名前くらいは聞いておこうか」
「アキトだ。ただの流れの博徒さ」
「アキトね。覚えとくよ。……で、ルールはシンプルなもんでいいな。サイコロ三つ、出目の合計が高い方が勝ち。三本先取だ」
「上等だ」
男がサイコロを転がすと、店内の視線が一斉にテーブルへと集中した。旅の道中の疲れも忘れたかのように、リーゼロッテたちも固唾を呑んで見守っている。
一投目、ガロの出目は合計十四。悪くない数字に、周囲からどよめきが起こる。
「へへ、まずは俺の番だ。これを超えられるかね」
「見てからのお楽しみだ」
アキトはサイコロを手に取ると、慣れた手つきで軽く振ってから、テーブルに転がした。出た目の合計は、十六。
「なっ……!」
「幸先いいスタートだな」
アキトはニヤリと笑いながら、一勝目を確定させた。周囲の客たちからどよめきが起こる。中には、思わず拍手を送る者までいた。
「まぐれだろ、そんなもん」
「まぐれかどうかは、これから証明してやるさ」
二投目、ガロは慎重にサイコロを振る。合計十七。先ほどよりも良い数字だ。ガロの顔に自信が戻る。
「今度はどうだ」
アキトは静かにサイコロを手に取った。この程度の勝負であれば、【絶対因果】に頼るまでもない。純粋な手先の器用さと、長年培ってきた博徒としての勘だけで、十分に渡り合える相手だった。
「悪いが、俺は初戦で運を使い果たすタイプじゃねえんでな」
転がったサイコロの合計は、十八。
「マジかよ……!」
ガロが呆然と呟く。二連勝を決めたアキトに、周囲の観客たちからは驚きと興奮の入り混じった声が上がった。
「アキト、随分と余裕そうですね」
リーゼロッテが小声で耳打ちする。
「当たり前だろ。天馬杯のあの大失態と一緒にすんな。あれは大博打だった。今回は、ただのサイコロ遊びだ」
「それにしては、随分と真剣な表情をされていますが」
「勝負事に真剣になるのは、博徒として当然のことだ」
シルヴィアも興味深そうにテーブルを覗き込んでいた。
「意外と、正々堂々と勝負しているのですね。てっきり、あの怪しげなスキルとやらを使うものかと」
「馬鹿言うな。魔力なんてとっくにすっからかんだ。今使えるのは、生身の腕前だけだよ」
その言葉に、シルヴィアは僅かに目を見開いた後、小さく笑った。
「……なるほど。それはそれで、あなたらしいと言えば、あなたらしいですね」
三投目、ガロは表情を引き締め、慎重にサイコロを握りしめた。
「これで終わらせてもらうぜ……!」
転がったサイコロの合計は、二十一。ほぼ最大に近い、驚異的な出目だった。周囲から歓声が沸き上がる。
「おおっ、さすがガロの兄貴だ!」
「今度こそ流れの旅人にも引導を渡すぜ!」
ガロは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、アキトを見据えた。
「どうだ兄さん、これを超えるのは至難の業だぜ」
「……ほう。やるじゃねえか」
アキトは静かにサイコロを手に取った。額にはうっすらと汗が滲んでいる。だが、その瞳の奥には、怯みなど微塵も見当たらなかった。むしろ、追い詰められたこの状況にこそ、博徒としての血が沸き立っていた。
「言っただろ。俺は初戦で運を使い果たすタイプじゃねえって」
アキトは指先でサイコロを弄びながら、静かに息を吐いた。長年培ってきた手先の感覚――サイコロの重心、テーブルの傾き、転がる角度。全ての計算を一瞬で組み上げ、最も高い出目が出る軌道を、経験と技術だけで作り上げる。
サイコロが宙を舞い、テーブルの上で乾いた音を立てて弾んだ。
「――さあ、答え合わせといこうや」
三つのサイコロが、それぞれ最後の一転を終えて静止する。
その出目を確認した瞬間、店内の空気が一斉にどよめいた。
「な、なんだこりゃ……!」
誰かが叫んだ声を皮切りに、店内は一気に騒然となった。カウンターの向こうで様子を見守っていた女将までもが、思わず身を乗り出している。
「あーあ、ガロの兄貴、とうとう流れの旅人にやられたか!」
「いや待て、まだ確定したわけじゃねえ、ちゃんと数えてみろ!」
周囲の客たちが口々に囃し立てる中、ガロ自身は呆然とした表情でテーブルの上のサイコロを見つめていた。その額には、うっすらと冷や汗が滲んでいる。
「リーゼ、シルヴィア、見ました? ご主人様、すごいのです!」
ミミが興奮気味に飛び跳ねながら、二人の袖を引っ張る。リーゼロッテもまた、驚きを隠せない様子で目を見開いていた。
「本当に、油断も隙もありません、あの人は……」
「ですが、悪い気はしませんね。あの様子を見ていると」
シルヴィアがぽつりと呟いた言葉に、リーゼロッテも小さく頷いた。全財産を失い、地位も名誉も失った旅の一行が、見知らぬ街の小さな酒場で、また一から歩みを進めていく。その光景は、どこか眩しくすらあった。
朝日に照らされた酒場の中、アキトの不敵な笑みと、テーブルの上に転がる小さなサイコロたち。その先に、一体どんな結末が待っているのか――それはまだ、誰にも分からなかった。
ガロは震える指先でサイコロの目を一つずつ数え直し、やがて力なく肩を落とした。周囲の客たちからは、どっと歓声とも溜息ともつかない声が沸き上がる。
「くそ……。負けは負けだ。認めるしかねえな」
「毎度あり、ってやつだな」
アキトは軽く肩を竦めながら、テーブルの上に積まれた銅貨の山へと視線を落とした。今夜の宿代、そして明日への活路。全てはこの小さな勝負から始まろうとしていた。




