第29話 追いかけっこは国境を越えて
夜明け前の街道を、四つの人影が足早に進んでいた。
月明かりだけを頼りに、街を出てから既に三刻ほどが経過している。街灯もない田舎道は、足元も覚束ないほど暗い。轍の跡に足を取られそうになりながらも、アキトたちは休むことなく歩き続けていた。空には星が瞬いているが、それを眺める余裕すら、今の四人にはなかった。
「はあ……はあ……。アキト、まだ追手の気配は」
リーゼロッテが息を切らしながら尋ねる。エルフとはいえ、彼女は生粋のディーラーであり、こうした逃避行には慣れていない。踵の高い靴を脱ぎ捨て、裸足のまま歩き続ける姿は、昨日までの優雅なカジノの女主人とは思えないほど痛々しかった。白い足の裏には、既に小さな傷がいくつも刻まれている。
「今のところはねえよ。だが油断は禁物だ。役人どもが本気で指名手配を出せば、賞金稼ぎまで動き出しかねねえ」
「賞金稼ぎ、ですって……」
「街の英雄から一転、賞金首か。人生ってのは分からねえもんだよなあ」
アキトはどこか他人事のように笑いながら言った。その飄々とした態度に、リーゼロッテは呆れと感心が入り混じった溜息をつく。
「あなたという人は、こんな時まで……」
「落ち込んだところで状況は変わらねえだろ。だったら笑ってた方がまだマシだ」
「……それは、一つの真理かもしれませんね。悔しいですが」
リーゼロッテは苦笑しながら、脱いだ靴を小脇に抱え直した。歩みを進めながら、ふと彼女は思い出したように呟く。
「思えば、あなたと出会った時も、こんな風に振り回されてばかりでしたね。ポーカーで身ぐるみを剥がされ、賭け金として連れ去られ……」
「おいおい、人聞きの悪い言い方するなよ。正当な勝負の結果だろうが」
「ええ、正当な勝負の結果、私の人生は大きく狂わされました。……ですが」
リーゼロッテは夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
「不思議と、後悔はしていないのです。退屈だったあの頃よりも、今の方がよほど、生きているという実感があります」
その言葉に、アキトは驚いたように目を見開いた後、ニヤリと笑った。
「そいつは光栄だな」
道すがら、ミミはアキトの背中に負ぶさりながら、うとうとと舟を漕いでいた。小さな寝息を聞きながら、アキトはふと足を止める。
「悪いな、ミミ。お前まで巻き込んじまって」
「ん……。ご主人様……?」
ミミは薄目を開けると、寝ぼけ眼のままアキトの首にしがみついた。
「ミミ、巻き込まれたなんて思ってないのです。ご主人様がいるところが、ミミのお家、なのです」
その無邪気な一言に、アキトは思わず目を細めた。金も地位も失った今、この小さな獣人の少女の言葉だけが、やけに重く胸に響いた。
「……そうか」
「それに、ミミ、奴隷市場にいた時よりも、今の方がずっと幸せなのです。あの時は、誰にも必要とされてなかったから」
「そんな深刻な話、寝ぼけながらするんじゃねえよ」
アキトは苦笑しながらも、ミミの頭を軽く撫でた。
「それより、ご主人様。お腹が空いたのです」
「はは、緊張感ねえなお前は」
その気の抜けたやり取りに、リーゼロッテもシルヴィアも、思わず小さく笑った。張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
シルヴィアは背後を警戒しながら、聖剣の柄に手をかけていた。彼女の視線の先、街道の分かれ道に、松明の明かりが灯る小さな建物が見えてくる。
「アキト殿、街道の先に検問所が見えます。国境を越える正規のルートは、あそこしかありません」
「面倒だな。指名手配書が既に回ってたら一発でアウトだ」
「迂回するという手もございますが」
「山越えか。……足の裏がボロボロになりそうだが、まあ選択肢としちゃありだな」
「いえ、正面から堂々と行きましょう。あなたのイカサマの腕を、私は信じております」
シルヴィアがそう言うのを聞いて、アキトは少し驚いたように片眉を上げた。
「お前、俺のイカサマを肯定するとはな。聖騎士としてどうなんだそれ」
「元、聖騎士団長です。もはや肩書もありません。それに、今この状況で綺麗事を並べるほど、私も愚かではないつもりです」
「言うようになったじゃねえか」
アキトはニヤリと笑うと、懐から一枚の銅貨を取り出し、指先で弾いた。
「イカサマと因果操作、あとは度胸だけだ」
検問所には、松明を掲げた見張りの兵士が二人立っていた。アキトたちが近づくと、片方が誰何の声を上げる。
「止まれ! 夜間の国境通過は原則禁止だ。何用か」
「いやあ、実はこの子が急な熱で。隣街の名医に診てもらわねえと、命に関わるんですわ」
アキトは慌てた様子を装いながら、ミミを指し示した。ミミはすかさず、うんうんと苦しげに唸ってみせる。演技だとバレバレなはずなのに、なぜか妙に説得力があった。
「む……。確かに顔色が優れんようだな。しかし夜間通過には通行証が――」
「先生。これで、一つ」
アキトはさりげなく懐から取り出した銀貨数枚を、兵士の手に握らせる。同時に、指先で密かに【絶対因果】を発動させた。「この兵士が、目の前の書類の不備に気づかない確率」を、限りある魔力の残りギリギリまで引き上げる。
「……まあ、緊急事態のようだしな。今回だけは特別に通そう」
兵士はあっさりと道を開けた。もう一人の若い兵士は怪訝そうな顔をしていたが、先輩兵士に促されるまま、結局何も言わずに引き下がる。リーゼロッテが小声で耳打ちする。
「今、何をしたのです」
「ちょっとした賄賂と、ちょっとした運のいたずらだよ」
「本当にあなたという人は、油断も隙もありません」
「褒め言葉として受け取っておくぜ」
検問所を抜けてしばらく進んだところで、後方から複数の馬蹄の音が響いてきた。
「――来たか」
アキトの表情が、初めて真剣なものに変わる。振り返ると、松明を掲げた騎馬の一団が、猛烈な速度で街道を駆けてくるのが見えた。先頭を走る男の胸には、賞金稼ぎ組合の紋章が刻まれている。数を数えると、少なくとも七、八騎はいるようだった。
「アキト・サトウ! 及び共犯者三名! 大人しく縛につけ、さもなくば実力行使に及ぶ!」
「共犯者て。人聞きの悪い」
アキトは苦笑しながらも、素早く周囲を見回した。街道の脇には、鬱蒼とした森が広がっている。
「シルヴィア、時間を稼げるか」
「無論です。……多少痛めつけても?」
「命までは取るなよ。向こうも仕事でやってるだけだ」
「承知しました」
シルヴィアが聖剣を抜き放つと同時に、騎馬隊の先頭が到達する。剣戟の音が夜の静寂を切り裂いた。
先頭の賞金稼ぎが振り下ろした剣を、シルヴィアは易々と受け流す。長年の鍛錬で培われた剣技は、多少の場数を踏んだ程度の賞金稼ぎ風情には荷が重すぎた。馬上から次々と引き摺り下ろされる仲間を見て、後続の賞金稼ぎたちの顔に動揺が走る。
「な、なんだこの女……! ただの護衛じゃねえのか!」
「悪く思うな。仕事だ」
「ええ、私も仕事のつもりで受けて立ちます。……もっとも、今は無給ですが」
シルヴィアは軽口を叩きながらも、確実に一人また一人と賞金稼ぎたちを馬上から叩き落としていく。地面に転がった男たちは、痛みに呻きながらも、二度と立ち上がろうとはしなかった。
「リーゼ、ミミ、こっちだ!」
アキトは二人の手を引き、森の中へと駆け込む。木々の間を縫うようにして進みながら、背後ではシルヴィアが賞金稼ぎたちを次々と打ち払う音が響いていた。
「シルヴィア殿を置いていくのですか!」
「馬鹿、あいつなら後で余裕で追いついてくるだろ。あの脚力なめんな」
森の中は闇が深く、木の根に足を取られそうになりながらも、アキトは絶えず周囲に気を配っていた。もし賞金稼ぎの一人でもここまで追ってくるようなら、残り僅かな魔力を使ってでも切り抜けねばならない。頭の中で、常に最悪の事態への対応策を巡らせながら、それでも表情には余裕を崩さない。それが、博徒として培ってきた矜持だった。
途中、木の根に躓きそうになったリーゼロッテを、アキトはとっさに抱き寄せる。
「危ねえ、大丈夫か」
「……え、ええ。すみません」
暗がりの中、思いのほか近い距離に、リーゼロッテは僅かに頬を赤らめた。だが、それを指摘する余裕は今のアキトにはなく、二人はそのまま何事もなかったかのように歩みを再開した。
しばらく森を進んだところで、背後から軽い足音が追いついてきた。
「お待たせしました。片付けてまいりました」
「はえーよ。もう終わったのか」
「賞金稼ぎ風情、聖騎士団長だった私の敵ではありません。もっとも、正式には既に元・団長ですが」
シルヴィアはどこか誇らしげに、しかし少し寂しそうに微笑んだ。その微笑みの奥に、アキトはかつて彼女が背負っていた地位や名誉への未練を、僅かに感じ取った。
「……悪いな、シルヴィア。お前の団長の地位まで、巻き込んじまって」
「今更、何を仰います」
シルヴィアは首を横に振った。
「あの地位を捨てる決断は、私自身が下したものです。あなたに責任転嫁するつもりは毛頭ございません。それに……」
「それに?」
「あなたたちと共にいる方が、あの堅苦しい騎士団の会議室にいるよりも、よほど生きている実感がある。そう思うようになった自分に、少々驚いておりますが」
その素直な言葉に、アキトは思わず苦笑した。
「お前も大概、俺たちに毒されてきたな」
「否定はいたしません」
森を抜けると、目の前には国境を示す古びた石碑が佇んでいた。石碑の向こう側には、これまでとは違う、見知らぬ土地の空気が広がっている。石碑には長年の風雨に晒された跡があり、刻まれた文字も半ば擦り切れていた。
「……越えた、な」
アキトは石碑に手を触れながら、小さく呟いた。
「これで、少なくとも役人どもの管轄からは外れた。賞金稼ぎがどこまで追ってくるかは分からねえが、しばらくは一息つけるはずだ」
「一息、ですか……」
リーゼロッテは疲れ切った様子で石碑に寄りかかった。エルフの体力をもってしても、一晩中歩き通しの逃避行は堪えたらしい。彼女の裸足の足元には、いつしか土埃と小さな血の滲みがこびりついていた。
「アキト、正直に聞きますが。……これから、私たちはどうなるのですか」
その問いに、アキトはしばし黙り込んだ。全財産も、屋敷も、地位も、全てを失った今、確かな未来など何一つ約束されていない。それでも、アキトの表情に絶望の色は微塵もなかった。
「なあに。またゼロから始めるだけだ。俺たちには、腕っぷしと、頭と、それから――」
アキトはニヤリと笑い、懐の銅貨三枚を軽く弾いて見せた。
「一攫千金の運がある」
「……相変わらず、根拠のない自信ですね」
「根拠なんざ賭け事に要らねえよ。要るのは、勝負から逃げねえ度胸だけだ」
リーゼロッテは呆れたように肩を竦めたが、その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
「それに、あの街を出る時に、ミミが銅貨を拾っただろ。あれ、俺には一つの兆しに思えるんだよな」
「兆し、ですか」
「ああ。異世界に来た日も、俺は銅貨三枚から全てを始めた。同じ枚数の銅貨をまた拾ったってことは……こいつは、悪くねえ流れだ」
「単なる偶然でしょう」
「賭け事の世界に偶然なんてねえよ。全部、運という名の必然だ」
その理屈になっているようでなっていない台詞に、リーゼロッテは思わず噴き出した。
ミミが眠そうに目を擦りながら、アキトの袖にもたれかかる。
「ご主人様……。ミミ、お腹すきました……」
「はは、そりゃそうだよな。……よし、とりあえずこの先に、明かりの灯った酒場が見えるだろ。あそこで飯にしようや」
国境を越えた先、街道の先にぽつりと灯る、小さな明かり。窓から漏れる光は暖かく、遠目にも賑やかな話し声が微かに聞こえてくるようだった。
「あの明かり、随分と賑やかそうですね」
「小さな街の、小さな酒場ってところだろうな。だが、今の俺たちには、それで十分だ」
シルヴィアが空を見上げながら呟いた。
「夜明けが近いようです。この一夜だけで、随分と遠くまで来たものですね」
「距離だけじゃねえよ。俺たちの立場も、随分と遠くまで転がり落ちたもんだ」
アキトは自嘲気味に笑ったが、その声には不思議と暗さがなかった。
夜明けの薄明かりが、地平線の彼方から徐々に世界を染め上げていく。金も地位も失った四人の影は、それでも不思議と足取りは軽く、小さな灯りに向かって歩みを進めていった。
石碑を後にし、緩やかな下り坂を進みながら、リーゼロッテがふと口を開いた。
「こうして振り返ってみますと、随分と長い旅でしたね。あなたに出会ってから、今日までの日々を思い返すと」
「まだ半年も経ってねえだろ」
「体感時間の話です。……ポーカーで身ぐるみを剥がされた日、まさか自分がこんな未来を辿ることになるとは、想像もしておりませんでした」
リーゼロッテは懐かしむように目を細めた。
「ミミを拾った日も、シルヴィア殿と出会った日も、バルザス様との死闘も……振り返れば、どれも濃密な記憶ばかりです」
「濃密すぎて、こっちの寿命が縮む思いだったけどな」
シルヴィアが苦笑しながら会話に加わる。彼女の脳裏にも、地下闘技場での死闘や、広場での大博打の記憶が鮮明に蘇っていた。
「あの時は、まさか自分がこうしてアキト殿と共に国境を越えることになるとは、夢にも思っておりませんでした。……人生とは、分からないものですね」
「分からねえからこそ、面白いんだよ」
アキトは前を向いたまま、静かに答えた。
「先が全部見えてる勝負なんざ、賭け事とは呼べねえ。何が起きるか分からねえからこそ、命を懸ける価値がある」
その言葉に、リーゼロッテもシルヴィアも、しばし黙り込んだ。全財産を失い、屋敷も地位も失った今この瞬間でさえ、アキトの根底にある博徒としての哲学は、些かも揺らいでいなかった。
「ご主人様は、本当にご主人様なのです」
ミミが眠そうな声で、しかしどこか誇らしげに呟いた。
「普通の人間なら、きっと落ち込んで、動けなくなってしまうと思うのです。でもご主人様は、いつも通り笑ってる。ミミ、それがすごいと思うのです」
「褒めてんのか貶してんのか分からねえ台詞だな、それ」
「褒めてるのです! ご主人様の笑顔が、ミミは一番好きなのです!」
その真っ直ぐな言葉に、アキトは思わず面食らったように黙り込んだ。しばしの沈黙の後、彼はふっと小さく笑った。
「……そうかよ」
それ以上の言葉は続かなかったが、その短い返事の中に、確かな照れと、隠しきれない喜びが滲んでいた。
坂を下りきると、街道は緩やかに広がり、遠くに小さな街の輪郭がぼんやりと見えてくる。木造の家々が寄り添うように並び、その中心に、先ほどから見えていた灯りの正体――小さな酒場が佇んでいた。看板には、拙い筆致で描かれた麦酒のジョッキの絵が掲げられている。
「見えてきたな。あそこだ」
「随分と、こぢんまりとした店ですね」
「贅沢言うなよ。今の俺たちの懐具合を考えりゃ、贅沢な店に入る資格なんざねえだろうが」
アキトは懐の銅貨三枚を握りしめながら、乾いた笑いを漏らした。
「なあに、心配すんな。この銅貨三枚を、また何倍にも増やしてやるさ。それが俺のやり方だ」
「本当に、懲りない人ですね、あなたという人は」
リーゼロッテは呆れたように呟きながらも、その表情には、確かな信頼と、微かな期待の色が浮かんでいた。
四人は疲れ果てた足を引きずりながらも、朝日に照らされ始めた街道を、小さな酒場へ向けて歩き続けた。




