第27話 ……あ。
残り百メートル。差は三馬身。
アキトは静かに右手の指先を宙に掲げた。周囲の喧騒はもはや耳に入らない。世界から音が消え、ただ自分の鼓動と、コースを駆ける二頭の天馬の蹄の音だけが、やけに鮮明に響いていた。
(黎明の疾風。お前の意地に、俺の意地を上乗せしてやる)
アキトは【絶対因果】を発動させた。狙いはただ一点。「黎明の疾風の脚が、この一瞬だけ、若い頃の全盛期の力を取り戻す確率」を極限まで引き上げる。魔力の残量ぎりぎりを使い切る、まさに賭けの一手だった。
その瞬間、老いた流星の走りが変わった。
『な、なんという末脚だ! 老いた流星、驚異的な伸び! これはまさに、全盛期を思わせる走り!』
実況の絶叫がスタンドを揺らす。差はみるみるうちに縮まっていく。三馬身、二馬身、一馬身――。
「や、やった……! やりました、アキト……!」
リーゼロッテが思わず欄干から身を乗り出す。シルヴィアも拳を握りしめ、目を潤ませながらコースを見つめていた。ミミは既に涙を流しながら跳び跳ねている。
「老いた流星、頑張って……! あと少しなのです……!」
アキトの額にはうっすらと汗が滲んでいた。魔力を限界まで絞り出す感覚――全身の力が抜けていくような、あの独特の消耗感。だが、それでも構わなかった。目の前で繰り広げられる奇跡の瞬間に懸けられる代償としては、安いものだった。
残り五十メートル。老いた流星の鼻先が、ついに黄金の疾風の尻に並びかける。
その、まさに勝敗を分ける刹那だった。
コースの内側、観客席のすぐ手前で、誰かが撒いていた砂か、あるいは風に舞い上がった土埃か――何か細かな粒子が、ふわりと風に乗ってアキトの鼻先をかすめた。
「――っ」
嫌な予感がした瞬間には、もう遅かった。
「はっ、はくちっ……!!」
盛大なくしゃみが、アキトの全身を貫いた。
指先に集中させていた魔力の流れが、その瞬間、大きく乱れる。【絶対因果】は繊細な力だ。狙いを一分の狂いもなく合わせなければ、確率という名の刃は、思わぬ方向へと逸れてしまう。
アキトの意識が乱れたその一瞬、書き換えられるはずだった確率が、まるで悪意でも持っているかのように、正反対の対象へと吸い込まれていった。
「――は?」
アキトの喉から、間の抜けた声が漏れる。
彼の指先が最後に触れた"意志"は、確かに黎明の疾風の勝利だった。だがくしゃみによって乱れた魔力は、狙いを外れ、隣を並走していた黄金の疾風の「これより先、一切失速しない確率」を100パーセントへと固定してしまっていた。
「……嘘、だろ」
アキトの声が、初めて動揺に震えた。
鼻先を並べていたはずの黄金の疾風が、まるで何かに背中を押されたかのように、再びぐんと加速する。老いた流星が振り絞った渾身の末脚さえも、あっさりと置き去りにしていくその走りは、もはや天馬というより、確率という名の絶対的な壁だった。
『こ、これは……! 一度は並びかけた老いた流星ですが、黄金の疾風、再び突き放します! 一体何が……!』
実況の困惑した声が響く中、黄金の疾風はそのままゴールテープを切った。
老いた流星は、二着。僅かに及ばず、しかし確かに、最後方から二着まで駆け上がった奇跡的な激走として、スタンド中から万雷の拍手を浴びていた。
「……あ」
アキトは、その場に立ち尽くしたまま、掠れた声を漏らすことしかできなかった。
自分が今、何をしてしまったのか。理解した瞬間、全身から一気に血の気が引いていくのがわかった。
しん、と静まり返る。
リーゼロッテの手から、いつの間にか握りしめていた馬券が、ひらりと零れ落ちた。
「……アキト」
彼女の声は、恐ろしいほど静かだった。
「今、何をしたのですか」
「……くしゃみが」
「くしゃみ、ですって?」
リーゼロッテの声が、一段と低くなる。その背後で、般若もかくやという凄まじい笑みが浮かび上がっていくのを、アキトは見た気がした。
「あなたは、今……。私が長年かけて積み上げてきた資産の全てを……くしゃみひとつで、他馬の勝利を確定させたと、そう仰っているのですか?」
「……そういうことに、なる、な」
アキトは乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。だがその笑いは、いつものへらへらとした軽薄なものではなく、追い詰められた者特有の、力のない笑みだった。
シルヴィアが震える手で聖剣の柄に触れる。
「アキト殿……。私はこれまで、あなたの奔放さも、クズなところも、大目に見てきたつもりです。ですが……」
「ま、待て、シルヴィア。それは物騒すぎねえか」
「物騒で結構! 全財産を賭けた挙句、くしゃみで負けるなど、聞いたことがありません……! 少々頭を冷やして頂く必要があるかと!」
ミミだけが、涙目のままアキトの袖を掴んでいた。
「ご主人様……。ミミ、老いた流星、二着まで来られてすごいと思うのです……。でも、でも……全部なくなっちゃったのですか?」
「……ああ。多分、な」
アキトは天を仰ぎ、乾いた笑いをこぼす。
スタンドの熱狂と歓声はまだ続いていたが、アキトたちのいる一角だけ、まるで時間が止まったかのような、重く冷たい沈黙が漂っていた。
カジノも、屋敷も、積み上げてきた全ての財産も――そのほとんどが、たった一度のくしゃみによって、灰燼に帰そうとしていた。




