第26話 最終コーナー、賭博師の刻
中団の混戦を飲み込んだ老いた流星は、いつしか集団のちょうど中央付近にまで順位を押し上げていた。
『信じられません! 最後方から一気に順位を押し上げてきた老馬、老いた流星! これはもしや、とんでもない大波乱の予感がしてまいりました!』
実況の声が興奮に上ずる。スタンドの熱気は、いつしか黄金の疾風の独走を称える歓声から、老いた流星の奇跡的な追い上げを見守る大歓声へと塗り替わりつつあった。
だが、それでも尚、コース前方を独走する黄金の疾風の背中は遥か遠い。第三コーナーを回り終えた時点で、その差はまだ十馬身近く残されていた。
「アキト、まだ間に合うのですか。もう最終コーナーまで、あとわずかしかありません」
リーゼロッテの声には、先ほどまでの苛立ちとは違う、別の緊張が滲んでいた。負けを覚悟していた財布番の彼女の中に、いつしか"もしかしたら"という淡い期待が芽生え始めている。
アキトは欄干に肘をついたまま、静かにコースを見つめていた。その指先はもう銀貨を弄んでいない。全神経がコースの一点、老いた流星の脚運びに集中していた。
「間に合うかどうかは、あの馬自身が決めることだ。俺の仕事はまだ先にある」
「まだ、というのはいつなのですか」
「勝負の一番大事な瞬間だよ、リーゼ。それまでは……見てるだけで十分楽しい」
アキトの声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。金を失う恐怖よりも、目の前で繰り広げられる予測不能な攻防のスリルの方が、遥かに勝っている。それが佐藤駆という男の、生まれついての気質だった。
シルヴィアが両手を強く握りしめながら、コースを凝視していた。
「頑張れ……! 頑張るのです、老いた流星……!」
いつもの堅物な聖騎士らしからぬ、飾らない声援だった。ミミもまた、小さな両手を胸の前で組み、祈るように呟いている。
「老いた流星、頑張ってください……! ミミ、信じてます……!」
その健気な姿に、アキトは思わず口元を緩めた。
(勝ち負けなんて、正直どうでもいいって顔してんな、お前ら)
金を失う不安よりも、目の前の一頭の老馬の意地に、いつしか心を奪われている。リーゼロッテでさえ、いつもの冷静な計算高さをどこかへ置き忘れ、拳を握りしめてコースを見つめていた。
(賭け事の本当の面白さって、こういうことなんだよな)
勝敗の結果そのものよりも、その一瞬に懸ける人間の――いや、生き物の意地。それこそが博打の醍醐味だと、アキトは前世で幾度となく思い知らされてきた。
最終コーナーに差し掛かる。老いた流星はついに中団を完全に突き抜け、二番手集団の最後尾へと取り付いていた。残り四頭。その先に見えるのは、独走を続ける黄金の疾風の背中のみ。
しかし、ここで異変が起きた。
老いた流星の走りに、わずかな乱れが生じ始めていたのだ。これまで滑らかに伸びていた歩幅が、心なしか小さくなり、翼の羽ばたきにもぎこちなさが混じり始める。
「……脚が、鈍り始めてる」
アキトが小さく呟いた。双眼鏡越しに見える老馬の瞳には、それでも消えない闘志が宿っていたが、肉体の限界は正直だった。長年蓄積された疲労と老いが、ここに来て牙を剥き始めている。
「アキト……!」
シルヴィアが悲鳴のような声を上げる。リーゼロッテも唇を噛みしめ、拳をさらに強く握りしめた。
「まさか、ここまで来て……」
アキトは動かなかった。腕を組んだまま、じっと老馬の脚運びを見つめている。その表情からは、焦りも動揺も読み取れない。ただ静かに、正確に、勝負を見極める博徒の目があるだけだった。
(まだだ。まだ、その時じゃねえ)
アキトの内側で、静かに魔力が練り上げられていく。【絶対因果】――この世界のあらゆる確率を書き換える神の権能。だが、使える回数にも規模にも限りがある。今この瞬間、老馬の脚の疲労を軽減するように確率をいじれば、確かに順位はわずかに上がるだろう。しかしそれでは、この後に待つ本当の勝負所で、力を使い果たしてしまう可能性がある。
(我慢だ。我慢しろ、俺)
博徒としての本能が、アキトの手綱を強く引いていた。
最終コーナーを回り切り、コースはついに最後の直線へと突入する。
『さあ、いよいよ最後の直線です! 独走する黄金の疾風は依然として盤石! しかし、二番手集団に食い込んだ老いた流星、果たしてこのまま押し切れるのか、それとも力尽きるのか……!』
実況の声がスタンド中に響き渡る。観客たちは総立ちとなり、それぞれが応援する馬の名を叫んでいた。
アキトの視界の中で、老いた流星が最後尾に取り付いていた二番手集団を、ついに一頭、また一頭と交わし始めた。疲労で乱れかけていた脚運びが、直線に入った途端、まるで別の生き物のように力強さを取り戻していく。
「……そうか。溜めてたのは、脚力だけじゃなかったんだな」
アキトの口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。老いた流星は、直線での加速のために、最終コーナーの手前でわずかに脚を緩めていたのだ。無意識か、それとも長年のレースで培われた本能か。いずれにせよ、それは老獪な駆け引きだった。
「あの馬……老いてなお、勝負を知っていやがる」
アキトの声には、心の底からの賞賛が滲んでいた。金の勝ち負けなど、もはやどうでもよくなっていた。ただ純粋に、目の前で繰り広げられる一頭の老馬の意地と誇りに、博徒としての魂が震えていた。
二番手集団を突き抜けた老いた流星の前方には、もう黄金の疾風の背中しか残されていない。その差は、依然として六馬身。決して小さくはない差だ。だが、直線に入ってからの伸びを見る限り、勝負はまだ終わっていない。
「リーゼ、シルヴィア、ミミ。よく見とけ」
アキトは静かに前へ進み出ると、欄干に両手をかけた。その瞳の奥に、これまで隠していた真剣な光が宿る。
「ここからが、本当の勝負だ」
残り二百メートル。老いた流星と黄金の疾風、その差は徐々に、しかし確実に縮まりつつあった。スタンドの熱狂は最高潮に達し、もはや誰の声も聞き取れないほどの大歓声が会場全体を揺るがしていた。
アキトは静かに右手を持ち上げ、指先に意識を集中させる。魔力の残量を確かめるように、ゆっくりと目を閉じた。
(さあ、どこで切るか。……早すぎても遅すぎても駄目だ。一番効くタイミングは、たった一度しかねえ)
残り百五十メートル。差はついに四馬身にまで縮まっていた。
リーゼロッテが息を呑む音が、アキトの耳にも届いた。
「アキト……」
「……ああ、わかってる」
アキトは目を開けた。その瞳には、いつものへらへらとした軽薄さは欠片も残っていない。ただひたすらに、勝負の行方だけを見据える、賭博師の目があった。
(黎明の疾風。お前がここまで意地を見せてくれたんだ。……だったら、俺も俺の意地を見せてやるよ)
スタンドの喧騒が、まるで遠くの雑音のように感じられる。アキトの世界には今、コースを駆ける一頭の老いた天馬と、その先を独走する黄金の疾風、そして自身の指先だけが存在していた。
残り百メートル。
差は、三馬身。




