第24話 ゲートイン! 運命の号砲
賭け場の窓口で、俺は懐にあった全財産を差し出した。
「――これで全部だ。『老いた流星』の単勝に、全額賭けてくれ」
窓口の係員は、金額を確認した瞬間、目を丸くした。カウンターに積まれた紙幣とチップの山を、まるで信じられないものでも見るかのように、何度も見返している。
「お、お客様、本気ですか? この馬の配当率は、途方もない数字になりますが、その分、勝つ確率も――」
「分かってる。それでいい」
俺は静かに、しかし確かな声でそう答えた。係員は困惑した様子だったが、やがて手続きを進め始めた。羽根ペンを握る手が、心なしか震えているように見えた。おそらく、これほどの大金を、これほど分の悪い馬に賭ける客を見るのは、この係員にとっても初めての経験なのだろう。
手続きの途中、係員は何度も確認するように、俺の顔を見返した。
「本当に、よろしいのですね。この賭け金は、一度受け付けますと、取り消しができません」
「知ってるよ。だから、確認は必要ない」
俺の答えに、係員は諦めたように小さく頷き、最後の手続きを完了させた。受け取った控えの紙には、目を疑うほどの金額と、『老いた流星』という名前が、しっかりと記されていた。
周囲の賭け場にいた他の客たちも、俺たちのやり取りに気づいたのか、ちらほらとこちらに視線を向け始めていた。「あの馬に、あれだけの金を?」という囁き声が、あちこちから聞こえてくる。
カウンターの向こうで、リーゼロッテが険しい顔で見守っていた。全額が正式に賭けられた瞬間、彼女の表情に、微かな諦めと、それでも隠しきれない緊張が浮かんだ。手続きの紙に記された金額を、彼女は何度も確認するように見つめていた。
「これで、後戻りはできませんね」
「ああ。だが、それでいい」
俺は不敵に笑った。後戻りできないからこそ、このスリルがたまらない。
賭け場を出ると、既に太陽は高く昇っていた。競技場の周辺は、さらに多くの人々で埋め尽くされ、開幕を待つ熱気が肌を通して伝わってくる。
「アキト様、そろそろ席へ向かいましょう。良い場所を確保しております」
「ああ、頼む」
リーゼロッテに先導されながら、俺たちは競技場の入り口へと向かった。道すがら、あちこちで賭け予想の話に花を咲かせる観客たちの声が聞こえてくる。誰もが、この一大イベントへの期待に胸を膨らませているようだった。
「ご主人様、ドキドキしてきました」
ミミが、俺の手をぎゅっと握りながら言った。その小さな手の温もりが、なぜか俺の心を落ち着かせてくれた。
「大丈夫だ。何があっても、俺たちは一緒だ」
俺はそう言いながら、仲間たち一人一人の顔を見回した。この瞬間を、彼女たちと共に迎えられることに、俺は改めて深い感謝の念を抱いていた。
*
観客席は、既に十万人を超える人々で埋め尽くされていた。
俺たちは、リーゼロッテが事前に手配してくれた特等席に案内された。競技場全体を見渡せる、絶好の位置だった。眼下に広がる巨大な発着台と、それを取り囲む観客席の熱気が、肌を通して伝わってくるようだった。
「すごい人数です……!」
ミミが、興奮と緊張の入り混じった声を上げた。その耳と尻尾が、忙しなく揺れている。
「聖騎士団でも、これほどの規模の警備は、そう経験できるものではない」
シルヴィアも、周囲を見渡しながら感嘆の声を漏らした。競技場の各所には、隣国の騎士団と思しき人々が、警備のために配置されているのが見えた。
競技場の中央には、巨大な発着台が設えられており、そこに出走予定の各ペガサスたちが、次々と姿を現し始めた。金色に輝く『黄金の疾風』が姿を見せると、観客席から割れんばかりの歓声が沸き起こった。若く逞しい騎手が、その背に颯爽と跨る様子は、まさに絵に描いたような勝者の風格だった。
「あれが、大本命か。確かに、見るからに強そうだ」
シルヴィアが、感心したように呟いた。
二番手、三番手と、次々に有力候補のペガサスたちが登場するたび、観客席は大きく沸き立った。それぞれの馬に、既に熱狂的な支持者がついているらしく、名前を呼ぶ声援が競技場中に響き渡っていた。
やがて、最後尾から、白髪交じりの鬣を持つ、老いたペガサスの姿が現れた。
「あれが『老いた流星』か」
「ずいぶんと、地味な登場だな」
周囲の観客たちから、失笑混じりの声が漏れた。誰の目にも、この老いた馬が勝つとは思えないのだろう。だが、俺の目には、その堂々とした佇まいが、誰よりも輝いて見えた。
世話人が、緊張した面持ちで、老いたペガサスの手綱を引いていた。その顔には、これまでの二十年間の思いが、全て込められているように見えた。
*
「アナウンスが入ります!」
競技場全体に響き渡る、拡声の魔道具を通した実況の声。
「これより、天馬杯本戦を開始いたします! 出走するは、大陸各地から選び抜かれた精鋭十二頭! 大本命は、三戦全勝の『黄金の疾風』! 果たして、その独走を許すのか、それとも波乱が起きるのか!」
観客席の熱気が、一気に最高潮に達した。歓声、拍手、そして興奮した観客たちの叫び声が、渦を巻くように競技場全体を包み込んだ。
「続きまして、出走馬の紹介です! 一番人気、『黄金の疾風』! 三戦三勝、圧倒的な速さで、この大会最年少優勝記録を狙います!」
実況が名前を読み上げるたびに、対応する観客席から、割れんばかりの歓声が上がった。
「そして、こちらは今大会最年長、齢十歳の『黎明の疾風』! 通称『老いた流星』! 過去には輝かしい戦績を誇りましたが、近年は低迷が続いております!」
その名前が呼ばれた瞬間、観客席の一部から、失笑混じりの声が上がった。
「おいおい、あの馬、まだ出走してたのかよ」
「毎年恒例の、お荷物枠だな」
周囲から聞こえてくる心無い言葉に、俺は思わず眉をひそめた。だが、当の老いたペガサスは、そんな声など意にも介さない様子で、悠然とその場に佇んでいた。その姿には、長年の経験に裏打ちされた、静かな威厳が漂っていた。
俺は構わず、拳を握りしめて見守り続けた。あんな声に惑わされるほど、俺の決意は揺らいでいない。むしろ、周囲の嘲笑が大きければ大きいほど、それを覆した時の快感は、より大きなものになるはずだ。
発着台に整列した十二頭のペガサスたちが、それぞれのゲートへと導かれていく。老いた流星も、ゆっくりとした足取りで、自らのゲートへと向かっていった。
「見てください、ご主人様! あの馬、ちゃんと自分の場所へ向かってます!」
ミミが指差した先で、老いたペガサスは、迷いのない足取りで、決められた位置へと収まった。世話人の言葉通り、この馬にはまだ、確かな闘志が宿っているのが分かった。その瞳には、周囲の失笑など意にも介さない、静かな決意が宿っていた。
俺は懐から、フォルトゥーナ以来使い続けているサイコロを取り出し、指先で軽く弾いた。
(さて、と)
ここからは、【絶対因果】の出番だ。だが、あまりに大規模な操作は、莫大な魔力を消費する。この一戦のために、俺は数日前から意図的に魔力の消費を抑え、力を温存してきていた。バルザスとの死闘以来、これほどまでに慎重に魔力を管理したことはなかった。
狙いは、単純明快だ。「老いた流星が、最後の直線で奇跡的な追い上げを見せる確率」を、レースの終盤に向けて、少しずつ引き上げていく。一度に大きな操作をすれば、その分だけ魔力を大量に消費する。だからこそ、レース全体を通じて、細かく、慎重に、確率を調整していく必要があった。
これは、これまでの俺のどんな勝負よりも、緻密で、そして長丁場になる戦いだった。ポーカーの一局と違い、このレースは数十分にわたって続く。その間、絶えず状況を見極めながら、最適なタイミングで力を注ぎ込んでいかなければならない。
「アキト様、大丈夫ですか」
リーゼロッテが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ああ、問題ねえよ」
俺は静かに頷きながら、発着台に整列するペガサスたちを見つめた。あと数分で、この人生最大の勝負が幕を開ける。
「ゲート、閉鎖!」
実況の声が響き渡ると同時に、十二の発着ゲートが、一斉に閉じられた。競技場全体が、水を打ったように静まり返った。数万人の観客たちの視線が、一斉に発着台へと注がれる。
誰もが、固唾を呑んで、この瞬間を待っていた。
俺の隣で、リーゼロッテが小さく息を呑む音が聞こえた。ミミは俺の袖をぎゅっと握りしめ、シルヴィアは真剣な表情で発着台を見つめている。競技場全体を包む、この張り詰めた静寂。十万人もの人々が、たった一つの瞬間に、これほどまでに集中している光景は、前世でも今世でも、経験したことがなかった。
俺は静かに、深呼吸を一つした。ここからが、本当の勝負の始まりだ。頭の中で、これから使うべき【絶対因果】の使い方を、もう一度慎重に組み立て直す。焦りは禁物だ。長丁場のレースだからこそ、冷静さを保ち続けることが、何よりも重要になる。
「――号砲、鳴らせ!」
ドォン、という腹の底に響く音と共に、巨大な花火が空高く打ち上げられた。同時に、全てのゲートが、一斉に開け放たれた。
十二頭のペガサスたちが、雄叫びと共に、一斉に大空へと羽ばたいていった。
黄金の疾風が、まるで矢のような速さで先頭に躍り出た。その姿は、まさに観客たちの期待通りの、圧倒的な走りだった。他のペガサスたちも、負けじと羽ばたきを速め、大空に色とりどりの軌跡を描いていく。
「さすが、大本命! 素晴らしいスタートダッシュです!」
実況の声が、興奮気味に響き渡った。観客席からも、割れんばかりの歓声が沸き起こる。
老いた流星は、最後尾からゆっくりと飛び立った。その姿は、周囲の若く力強いペガサスたちと比べると、あまりにも頼りなく見えた。翼の動きも、他の馬たちに比べれば、明らかに緩慢だった。
「あんな出遅れ方で、大丈夫なのでしょうか……」
ミミが、不安げに呟いた。その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。
「まだ、始まったばかりだ」
俺は静かに、しかし確信を込めてそう答えた。競技場に響き渡る歓声と実況の声を背景に、俺は懐のサイコロを、強く握りしめた。
レースは、まだ始まったばかりだ。三十キロという長い距離、そして幾つもの障害物が待ち受けるこのコースにおいて、序盤の出遅れなど、何の意味も持たない。むしろ、これからが本番だった。
俺は静かに目を閉じ、意識を集中させた。魔力の流れを感じながら、慎重に、しかし確実に、【絶対因果】の糸を紡いでいく。
競技場全体の熱狂とは対照的に、俺の内心は、驚くほど静かだった。前世でも今世でも、これほどまでに大きな賭けに挑んだことはない。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、腹の底から湧き上がってくるのは、純粋な高揚感だけだった。
目を開けると、大空を舞う十二頭のペガサスたちの姿が、はっきりと視界に飛び込んできた。それぞれが、思い思いの軌跡を描きながら、コースの序盤を駆け抜けていく。
黄金の疾風は、既に他を大きく引き離し、独走態勢を築きつつあった。その圧倒的な速さは、まさに大本命の名に恥じないものだった。
一方、老いた流星は、まだ後方に留まったままだった。だが、その動きの中に、俺は確かな何かを感じ取っていた。無駄のない羽ばたき、風を読む的確な体勢。若さでは劣っていても、長年の経験に裏打ちされた技術は、まだ健在だった。
「まだまだ、これからだ」
俺は小さく呟きながら、レースの行方を、静かに見守り続けた。
競技場の観客たちの多くは、既に黄金の疾風の圧勝を確信しているような雰囲気だった。実況の声も、その独走ぶりを称賛する言葉で溢れている。だが、俺の目には、まだレースの結末は、はっきりとは見えていなかった。
三十キロという長丁場のコース、そして幾つもの気流の変化や障害物。この先、何が起こるか、誰にも予測できない要素が、まだいくつも残されている。
「アキト様、老いた流星の様子は、いかがですか」
リーゼロッテが、双眼鏡のような魔道具を覗き込みながら尋ねてきた。
「今のところは、後方につけたままだ。だが、焦る必要はねえ」
俺はそう答えながら、内心で慎重に、次の一手のタイミングを見計らっていた。焦って早すぎるタイミングで力を注ぎ込めば、無駄に魔力を消耗するだけだ。この長いレースの中で、最も効果的な瞬間を見極める必要があった。
ミミが、心配そうな顔で発着台の方向を見つめていた。シルヴィアも、真剣な表情で、大空を舞うペガサスたちの動きを追いかけている。それぞれが、それぞれの思いを胸に、このレースの行方を見守っていた。
俺は改めて、懐のサイコロを握りしめた。この小さな道具が、これまでの数々の勝負を、俺と共に乗り越えてきた。今日という日も、きっとその歴史に、新たな一頁を刻むことになるだろう。
競技場の熱狂は、留まることを知らなかった。観客たちの歓声、実況の絶叫、そして風を切る翼の音。全ての音が混ざり合い、この特別な瞬間を、いっそう色濃く彩っていた。
運命のレースが、今、幕を開けた。この先に待ち受ける結末を、誰もまだ知らない。黄金の疾風が勝利するのか、それとも老いた流星が奇跡を起こすのか。全ては、これから繰り広げられる、三十キロの大空の戦いにかかっていた。
俺は静かに、しかし確かな決意を胸に、大空を見上げ続けた。仲間たちと共に、この運命の行方を、最後まで見届けるために。次の瞬間、何が起こるのか。競技場全体が、その答えを固唾を呑んで待ち続けていた。俺の胸の鼓動もまた、レースの行方に合わせるように、静かに、しかし確実に高鳴り続けていた。
全財産を賭けたこの大博打の結末が、どちらに転ぶのか。それを知る術は、もう誰にもなかった。ただ、大空を舞う十二頭のペガサスたちの、これからの行方だけが、静かにその答えを握っていたのだった。今はまだ、誰にも、その答えは分からないのだった。




