第23話 これだ! 全財産ぶち込むぞ!
レース当日の朝、俺は誰よりも早く目を覚ました。
まだ仲間たちが眠っている中、俺はそっと宿を抜け出し、厩舎エリアへと向かった。昨日、市場で聞き込んだ情報を頼りに、『老いた流星』が繋がれているという場所を目指す。夜明け前の会場周辺は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っており、時折聞こえる鳥の声だけが、静寂を優しく破っていた。
空はまだ薄暗く、東の地平線がわずかに白み始めたばかりだった。会場周辺に立ち並ぶ露店も、まだシャッターを閉ざしたまま、眠りについている。昨夜の祭りの熱気が嘘のような、静謐な時間だった。
昨夜、あの情報誌を見てから、俺の頭の中では、ずっとある考えが渦巻いていた。理屈では説明できない、ただの直感。だが、その直感が、これほどまでに強く俺を突き動かすことは、これまでにも何度かあった。フォルトゥーナでのリーゼロッテとの初対面の時も、バルザスとの死闘の最中も、似たような感覚を味わったことがある。
厩舎に近づくにつれ、動物特有の匂いと、静かな寝息のような音が聞こえ始めた。多くのペガサスたちは、まだ眠りの中にあるようだった。
厩舎の一角、他のペガサスたちから少し離れた場所に、その馬はいた。
白髪交じりの鬣、皺の刻まれた翼、かつての輝きを感じさせる瞳。歳月を経てなお、その佇まいには、確かな気品が漂っていた。周囲の若く力強いペガサスたちとは明らかに一線を画す、静かな威厳のようなものが、その老いた体躯全体から滲み出ていた。
「よう、あんたが噂の『老いた流星』か」
俺が声をかけると、ペガサスは静かにこちらを見た。人の言葉を理解しているのかは分からないが、その瞳には、不思議な知性の光が宿っているように見えた。深い年輪を刻んだ木のような、そんな落ち着いた眼差しだった。
「アキト殿?」
背後から声をかけられ、振り返ると、初老の男が立っていた。質素な服装だが、その手つきや佇まいから、長年この馬の世話をしてきた者だと分かった。日焼けした肌に刻まれた深い皺が、この仕事に費やしてきた年月の長さを物語っている。
「あんたが、この馬の世話人か」
「ええ。もう二十年近く、この子の面倒を見ております」
男は懐かしそうな目で、老いたペガサスを見つめた。
「かつては、この大陸で一番の名馬でした。若い頃は、誰もが目を見張るほどの速さで空を駆けたものです。ですが……」
男の声に、微かな悲しみが滲んだ。
「五年前の事故で、大きな怪我を負いましてね。それ以来、以前のような速さは出せなくなりました。周りからは、もう引退させるべきだと言われ続けています」
「それでも、走らせ続けてるのか」
「本人が――いえ、この子自身が、走ることを望んでいるように見えるのです。私の勝手な思い込みかもしれませんが」
男はそう言いながら、老いたペガサスの首筋を優しく撫でた。ペガサスは、気持ちよさそうに目を細めていた。その仕草には、長年連れ添ってきた者同士だからこそ分かる、深い信頼関係が滲んでいた。
「毎年、この子は最下位争いを繰り返しています。周囲からは、いい笑い者にされているようなものです。それでも、この子の目を見ていると、まだ諦めていないのだと、私には分かるのです」
世話人の声には、この老いた相棒への深い愛情が滲んでいた。単なる仕事上の付き合いではない、家族にも似た絆を、俺は感じ取った。
「他の連中は、この馬のことを、どう見てるんだ」
「哀れみ半分、揶揄い半分、といったところでしょうか。今年もまた無駄な出走をする、と陰口を叩かれることもあります。ですが、私は、この子の走る姿を見るたびに、心を打たれるのです。勝てないと分かっていても、決して手を抜かない、その真摯な姿勢に」
世話人はそこで一度言葉を切り、老いたペガサスの瞳を優しく見つめた。
「若い頃は、確かに誰よりも速かった。ですが、今のこの子の強さは、速さとはまた違うところにあるように、私には思えるのです。何度負けても、決して腐らない。それこそが、この子の本当の強さなのではないかと」
その言葉に、俺は深く頷いた。この世話人の言葉には、単なる感傷ではない、確かな洞察が込められているように感じられた。
「レースへの出走は、毎年、この子自身が望んでいるのか」
「私にはそう見えます。厩舎の扉を開けると、真っ先に飛び出してくるほどですから。年老いても、走ることへの情熱だけは、少しも衰えていないのです」
俺は改めて、老いたペガサスの姿を見つめた。皺の刻まれた翼、白髪交じりの鬣。それでもなお、その瞳には、若さに劣らぬ確かな輝きが宿っていた。
*
俺は、その老いたペガサスの瞳を、じっと見つめた。
衰えた肉体、諦めない心。かつての栄光を胸に秘めながら、それでも走ることをやめない、その姿。それは、どこか、俺自身の生き方とも重なるものがあった。前世でも、今世でも、俺は常に「勝てないかもしれない」という状況にこそ、強く惹かれてきた。安全な道を選ぶことに、何の面白みも感じられない性分だった。
この老いたペガサスの瞳の奥に宿る光は、俺が前世で数えきれないほど見てきた、負けん気の強い博打打ちたちの目と、どこか似ていた。何度負けても、何度笑われても、決して諦めない者だけが持つ、あの特有の輝き。
(決めた)
俺の中で、迷いが完全に消え去った。
「なあ、世話人さん。今日のレース、この馬に賭けようと思う」
「……本気ですか? 正直に申し上げて、勝てる見込みは、ほとんどありません」
「知ってるさ。だが、それでいい」
俺は不敵に笑った。
「勝てる見込みが薄いからこそ、賭ける価値がある。俺はそういう博打が、たまらなく好きなんだよ」
世話人は驚いたような顔をしていたが、やがて、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけるだけでも、この子にとっては、きっと救いになるでしょう」
世話人は、老いたペガサスの首を優しく撫でながら、続けた。
「この子の名は、正式には『黎明の疾風』といいます。若い頃、まだ日が昇る前から誰よりも早く走り出す姿から、そう名付けられました。今では誰もが『老いた流星』と呼ぶようになりましたが、私だけは、今でもその本来の名で呼んでいます」
「黎明の疾風、か。いい名前じゃねえか」
「ありがとうございます。この子も、きっとその名前を誇りに思っているはずです」
俺は改めて、老いたペガサスの瞳を見つめた。かつての輝きの残滓を宿したその瞳に、俺は静かに誓った。今日、あんたと一緒に、この会場中の人間を驚かせてやる、と。
俺は懐から、フォルトゥーナで使っていたサイコロを取り出し、指先で軽く弾いた。カラン、と乾いた音が、静かな厩舎に響いた。
「なあ、世話人さん。一つ、頼みがあるんだが」
「なんでしょうか」
「今日のレース、俺はこの馬に賭ける。だから、あんたも、この馬を信じ続けてやってくれ。最後の最後まで」
「……もちろんです。二十年間、ずっとそうしてきましたので」
世話人は静かに、しかし力強く頷いた。その目には、確かな決意の色が宿っていた。
俺は最後にもう一度、老いたペガサスの首を軽く撫でてから、厩舎を後にした。朝日が、少しずつ地平線から顔を出し始めていた。今日という日が、俺たちの物語にとって、どれほど大きな転換点になるのか。この時の俺には、まだその全貌は見えていなかった。
だが、腹の奥に燃える確信だけは、揺るぎないものになっていた。
*
宿に戻ると、リーゼロッテが険しい顔で待ち構えていた。
「アキト様、どこに行っていたのですか」
「ちょっと、厩舎を見学にな」
「……その顔、決めましたね」
リーゼロッテの目が、すっと細くなった。長年の付き合いで、俺の表情の変化を見逃さないらしい。
「『老いた流星』に、全財産を賭けるつもりですね」
「……よく分かったな」
「分からないはずがありません。あなたのことは、誰よりも理解しているつもりですので」
リーゼロッテの声には、諦めと、抑えきれない不安が入り混じっていた。その手が、微かに震えているのが見えた。
「アキト様、どうか、思い留まってください。これまで積み上げてきたもの全てを、一瞬で失う可能性があるのですよ」
「分かってる。分かってるが……これだけは、譲れねえんだ」
俺は静かに、しかし確かな決意を込めて言った。
「あの馬の目を見た瞬間、俺の中で何かが決まった。理屈じゃねえ。これは、俺という博徒の、譲れねえ矜持の問題なんだ」
部屋の入り口から、シルヴィアとミミも、心配そうな顔でこちらを見ていた。物音に気づいて起きてきたのだろう、二人とも寝間着姿のままだった。
「アキト、正気か? 全財産だぞ」
シルヴィアが、思わずといった様子で口を挟んだ。
「正気だとも。今までにないくらいにな」
「ご主人様……」
ミミが、不安げな顔で俺の服の裾を掴んだ。その小さな手の震えが、彼女の心配を如実に物語っていた。
「これまで、みんなで一生懸命築いてきたものなのに……本当に、全部賭けちゃうんですか?」
ミミの問いかけに、俺は一瞬、言葉に詰まった。この子の純粋な瞳を見ていると、確かに胸が痛む。だが、それでも、俺の中の博打打ちとしての衝動は、収まる気配を見せなかった。
「ミミ、悪いな。でも、これだけは、俺の我儘を通させてくれ」
ミミは、しばらく俺の顔を見つめていた。その瞳には、不安と、それでも俺を信じようとする葛藤が、複雑に入り混じっていた。
「……ご主人様が、そこまで言うなら」
ミミは涙を拭いながら、小さく頷いた。
「ミミは、ご主人様を信じます。ご主人様が決めたことなら、ミミも応援します」
「ミミ……」
この幼い少女の、真っ直ぐな信頼に、俺は胸を打たれた。奴隷市場で拾ったあの日から、この子はずっと、俺のことを無条件に信じ続けてくれている。その信頼を、決して裏切るわけにはいかない。
俺は仲間たちの顔を、一人一人見回した。心配、不安、そして、それでもなお俺を信じようとしてくれる、確かな信頼。
「頼む。今回だけは、俺の我儘を通させてくれ」
沈黙が、部屋に満ちた。誰も、すぐには言葉を発しなかった。
リーゼロッテは、唇を固く結んだまま、じっと俺を見つめていた。シルヴィアは、何か言いたげな表情を浮かべながらも、言葉を飲み込んでいるようだった。ミミは、俺の服の裾を握りしめたまま、涙目でこちらを見上げていた。
だが、この沈黙こそが、これから始まる嵐の、静かな前触れだった。
やがて、シルヴィアが意を決したように口を開いた。
「アキト、私は聖騎士として、無謀な行為を看過するわけにはいかない。だが……」
シルヴィアは、一瞬言葉を詰まらせてから、続けた。
「貴殿がここまで固い決意を見せるのは、初めて見る。何か、確かな理由があるのだろう」
「ああ、理由ならある。うまく言葉にはできねえけどな」
「……そうか」
シルヴィアは小さく息を吐くと、それ以上の追及をやめた。だが、その表情には、まだ拭いきれない不安が色濃く残っていた。
「リーゼロッテ」
俺は静かに、相棒の名を呼んだ。
「あんたの言うことは、全部正しい。無謀だってことも、失敗すれば全部が水の泡になることも、痛いほど分かってる」
「……それでも、やめないのですね」
「ああ。やめねえ」
リーゼロッテは、しばらくの間、じっと俺の顔を見つめていた。その瞳の奥に、諦めとも、覚悟ともつかない、複雑な感情が揺れていた。
「……分かりました」
やがて、リーゼロッテは静かにそう言った。その声には、深い葛藤の跡が滲んでいた。
「ですが、これだけは覚えておいてください。もし今回の賭けで全てを失ったとしても、私たちは、あなたを見捨てたりはしません」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。予想していなかった言葉だった。
「リーゼロッテ……」
「ただし」
リーゼロッテは、真剣な表情を崩さないまま続けた。
「今後、二度とこのような無謀な真似をしないと、ここで誓っていただきます」
「……約束する」
俺は静かに頷いた。仲間たちの深い信頼と覚悟を、改めて全身で感じ取りながら。
窓の外では、朝日がすっかり昇りきり、会場周辺は既に多くの観客たちで賑わい始めていた。今日という日が、俺たちにとって、忘れられない一日になることは、もはや疑いようがなかった。
「よし、それじゃあ準備するか」
俺は努めて明るい声でそう言うと、仲間たちの表情も、少しずつ和らいでいった。完全に不安が消えたわけではないだろう。だが、少なくとも、俺の決意を受け入れてくれたことは確かだった。
「賭け金の手続きは、私が行います。全財産の正確な額を、今から算出しますので」
リーゼロッテは、いつもの淡々とした口調に戻りながら、帳簿を取り出した。その手際の良さに、俺は改めて、この相棒のありがたみを噛みしめた。
「ミミ、私と一緒に会場までの道を確認しておきましょう。当日は混雑が予想されますので」
「はい、リーゼロッテ様!」
ミミも、涙を拭いながら元気を取り戻していた。
こうして、俺たちは慌ただしく、レース当日の準備を進めていくことになった。全財産を賭けるという、これまでにない大博打。その結末がどうなるか、誰にも分からない。だが、仲間たちと共に、この瞬間を迎えられることに、俺は確かな幸せを感じていた。
窓の外に見える競技場の方角から、既に観客たちの高揚した声が微かに聞こえてくる。もうすぐ、レースが始まる。俺の全てを賭けた、人生最大の大勝負が。
懐のサイコロを、俺は強く握りしめた。この小さな道具と共に歩んできた、異世界での日々。その全てが、今日という日に集約されようとしていた。
勝つか、負けるか。全てか、無か。この極限のスリルこそが、俺という博徒が、心の底から求め続けてきたものだった。今、ようやくそれが、目の前に現れようとしている。
運命のレースは、もうすぐ始まる。窓の外の喧騒が、少しずつ大きくなっていくのを感じながら、俺は静かに、しかし確かな決意を胸に抱いていた。今日という日を、俺たちはきっと、これから先もずっとずっと、決して忘れることはないだろう。




