第22話 旅立ちと、大空を駆ける者たち
「準備は整いました。馬車も手配済みです」
出発の朝、リーゼロッテが旅装に身を包み、玄関先で待っていた。いつものきっちりとしたお団子ではなく、旅用に軽くまとめられた髪型が、新鮮な印象を与えている。旅装の色も、普段の黒を基調としたドレスとは違う、動きやすそうな旅人風の装いだった。
「随分と手際がいいな」
「これでも、経営の傍ら、旅程管理には自信がありますので」
リーゼロッテは手元の帳面を確認しながら、そう答えた。宿の手配、道中の食料、護衛の配置まで、全てが抜かりなく整えられているらしい。この女の几帳面さには、いつも助けられている。
俺たちは荷物を積んだ馬車に乗り込んだ。ミミは朝から興奮気味で、何度も窓の外を覗いては「まだですか、まだですか」と落ち着かない様子だった。獣人特有の大きな耳が、興奮を隠しきれないようにぴょこぴょこと動いている。
「ミミ、まだ出発したばっかりだぞ」
「だって、だって、初めての遠出なんです! それに、ペガサスさんも見られるんですよ!」
ミミの無邪気な興奮ぶりに、俺は思わず頬を緩めた。
シルヴィアは聖騎士団の休暇届を無事に受理され、私服姿でやってきていた。鎧を脱いだその姿は、普段の凛々しさとはまた違った、柔らかな雰囲気を漂わせている。薄手のブラウスに、動きやすそうなスカート。金髪のポニーテールだけが、いつもの彼女らしさを残していた。
「その格好、新鮮だな」
「た、たまには私服も着る。おかしいか」
「いや、似合ってるよ」
俺が素直にそう言うと、シルヴィアは一瞬固まってから、慌てて顔を背けた。その耳が、ほんのりと赤く染まっているのが見えた。
*
隣の都市までの道中は、二日ほどかかった。
馬車に揺られながら、俺たちは他愛のない会話に花を咲かせた。ミミは道中で見かける珍しい植物や動物に目を輝かせ、シルヴィアは各地の治安情勢についてリーゼロッテと情報交換をしていた。俺はといえば、窓の外を流れる景色を眺めながら、頭の片隅でずっと、天馬杯での賭け方を考え続けていた。
道中の休憩地点では、それぞれの土地の名物料理を楽しんだり、地元の人々との軽い交流を持ったりと、旅そのものも十分に楽しめるものだった。ミミは初めて見る果物に目を輝かせ、シルヴィアは道端で困っている旅人を見かけるたびに、律儀に手を貸していた。
ある村では、荷車の車輪が外れて困っていた老夫婦を、シルヴィアが率先して助けた。力仕事も苦にせず、手際よく修理を終わらせるその姿は、いかにも聖騎士らしい頼もしさに満ちていた。老夫婦から何度も感謝され、照れくさそうに顔を赤らめるシルヴィアの様子に、ミミが「シルヴィア様、優しいです!」と無邪気に褒め称えていた。
「シルヴィア、あんた、非番の時まで働かなくていいんだぞ」
「性分だ。困っている者を見過ごすことができん」
シルヴィアは真剣な顔でそう答えた。この生真面目さも、彼女の魅力の一つなのだろう。
「アキト様、また考え事ですか」
馬車が再び走り出した頃、リーゼロッテが静かに尋ねてきた。
「まあな」
「本命と大穴、まだ決めかねているのですか」
「決めかねてるっていうか……正直、心はもう決まってるんだけどな」
リーゼロッテの目が、すっと細くなった。
「まさか」
「まだ言わねえよ。現地を見てから決める」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。実際のところ、心の中では既に、ある種の確信めいたものが芽生えつつあった。だが、それを今この場で口にすれば、リーゼロッテがどれほど心配するか、想像に難くない。
「アキト様、一つだけ、覚えておいてください」
リーゼロッテは真剣な表情で続けた。
「どんな勝負をするにせよ、私たちが積み上げてきたものを、一夜にして失うような真似だけは、絶対にしないでください」
「分かってるさ」
俺はそう答えたが、その声に、自分でも気づかないうちに、微かな迷いが滲んでいたかもしれない。
馬車の窓の外を、見知らぬ土地の景色が流れていく。緑豊かな草原、遠くに霞む山々、時折見える小さな集落。この世界の広大さを、改めて実感させられる旅路だった。
ミミは疲れたのか、いつの間にか俺の肩にもたれかかるようにして、うとうとと舟を漕ぎ始めていた。その寝顔は、あどけなく、平和そのものだった。この穏やかな光景を守るためにも、無茶な賭けだけは避けるべきだと、頭では分かっていた。
だが、腹の奥で燃え始めた小さな炎は、そう簡単には消えてくれそうになかった。
*
二日目の夕方、俺たちはついに、隣の都市の外れに位置する巨大競技場へと到着した。
「うわぁ……!」
ミミが思わず声を上げた。俺も同じ気持ちだった。
目の前に広がっていたのは、想像を遥かに超える光景だった。円形の巨大な競技場が、夕日を浴びて金色に輝いている。石造りの外壁は幾重にも積み重なる観客席を支え、その規模は、これまで見てきたどんな建造物とも比較にならないほどだった。周囲には、既に無数の露店や仮設の宿泊施設が立ち並び、大陸各地から集まった人々で溢れかえっていた。
「これが、天馬杯……」
シルヴィアも、感嘆の声を漏らしていた。普段は毅然とした表情を崩さない彼女が、これほど素直に驚きを見せるのは珍しい。
競技場の上空には、既に何頭かのペガサスたちが、調整飛行をしているのが見えた。純白の翼、金色の鬣、それぞれに異なる美しい色彩を纏った幻獣たちが、夕焼け空を優雅に舞う姿は、まさに圧巻の一言だった。翼を広げるたびに、きらきらとした光の粒が舞い散るように見えるのは、魔力を帯びた個体特有の現象なのだろう。
「あれが、噂の『黄金の疾風』か」
俺は、一際大きな歓声を浴びている一頭のペガサスを見上げた。金色に輝く翼を持つその姿は、確かに他を圧倒する存在感を放っていた。優雅でありながら力強い羽ばたきは、見る者を圧倒する迫力を持っていた。
「本当に、金色に輝いてます……!」
ミミが目を輝かせながら、食い入るようにその姿を見つめていた。
「あれほどの個体は、そうそうお目にかかれるものではありません。この目で見られただけでも、来た甲斐がありました」
リーゼロッテも珍しく、素直な感動を口にしていた。この光景を前にして、誰もが言葉を失うほどの美しさに心を奪われていた。
俺たちはしばらくの間、その場に立ち尽くしたまま、大空を舞うペガサスたちの姿に見入っていた。夕焼けの茜色に染まった空を背景に、幾頭もの幻獣たちが優雅に旋回する光景は、まさに一幅の絵画のようだった。
「これほどの光景を見られるとは、この街に来て、本当に良かったと思います」
「同感だ」
俺は素直に頷いた。天馬杯への渇望とは別に、この光景そのものが、旅の疲れを忘れさせるほどの感動を与えてくれていた。仲間たちと共にこの瞬間を分かち合えていることが、何よりも嬉しかった。
*
宿に荷物を下ろした後、俺たちは早速、会場周辺の市場を見て回ることにした。
「見てください、ご主人様! ペガサスの形をしたお菓子です!」
ミミが興奮気味に指差した屋台には、レースにちなんだ様々な土産物が並んでいた。ペガサスを模した菓子、優勝候補たちの絵姿が描かれた旗、賭け予想の情報誌――あらゆるものが、この祭典の熱気を物語っている。
「賑やかだな、おい」
「これほどの規模とは、正直予想以上でした」
リーゼロッテも、感心したように周囲を見回していた。
市場には、大陸各地から集まった商人たちが、それぞれの国の名物を売り歩いていた。見たこともない香辛料の香り、異国風の楽器を奏でる旅芸人、賭け予想を声高に叫ぶ予想屋たち――全てが混然一体となって、独特の熱気を作り出していた。
「ご主人様、これ、食べてみたいです!」
ミミが指差したのは、見慣れない果物を使った串焼きだった。俺たちはそれぞれ買い求め、市場の端に設けられたベンチに腰掛けて味わった。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、旅の疲れを忘れさせてくれるような美味しさだった。
俺たちは市場を練り歩きながら、様々な情報を集めていった。出走予定の各ペガサスの調子、騎手たちの評判、そして前哨戦の詳細な結果。集めれば集めるほど、『黄金の疾風』の圧倒的な優位性が、はっきりと浮かび上がってきた。
賭け予想屋の一人に話を聞くと、興奮気味にこう語った。
「今年の『黄金の疾風』は、もう別格ですよ。過去十年で一番の逸材だと、専門家たちも口を揃えて言っています。奴に賭けとけば、まず間違いないでしょうな」
「随分な太鼓判だな」
「それだけ、実力が突出してるってことですよ、兄さん。ここ数年、これほどの逸材は出てきていません」
予想屋は自信満々にそう言い切った。周囲の人々も、皆一様に頷いている。この会場全体が、『黄金の疾風』の圧勝を、既に確信しているような雰囲気だった。
「ちなみに、他に注目すべき馬はいるか」
「そうですねぇ、二番人気の『疾風の子』も悪くないですが、正直言って本命との差は歴然としてますよ。堅実に儲けたいなら、迷わず本命一本で行くのが賢明でしょうね」
予想屋の言葉に、俺は内心で小さく笑った。この会場にいる誰もが、堅実な選択を勧めてくる。だからこそ、俺の中の博打打ちとしての血が、逆説的に疼き始めていた。
「参考になったよ」
「へえ、当日は良い勝負を楽しんでくださいな」
俺たちはその場を後にし、さらに市場の奥へと足を進めた。
だが、その情報の中に、俺はふと、一つの名前を見つけた。
「――『老いた流星』?」
賭け予想の情報誌の片隅に、小さく記された名前だった。齢十歳を超える、この大会最年長のペガサス。全盛期をとうに過ぎ、下馬評は最下位に近い。だが、その経歴を見た瞬間、俺の心臓が、静かに、しかし確かに、大きく高鳴った。
かつて、若かりし頃には、何度も優勝候補として名を連ねていたという記録。だが、怪我や不運が重なり、今では誰からも見向きもされない存在になっていた。情報誌に記された配当予想は、それは驚くほどの高倍率だった。
「アキト様、何を見ているのですか」
リーゼロッテが、俺の手元を覗き込んできた。
「いや、ちょっと気になる名前を見つけてな」
「『老いた流星』、ですか。ああ、この馬なら知っています。かつては素晴らしい実績を残していたようですが、今ではもう、完全に忘れられた存在ですね」
リーゼロッテの声には、特に含みはなかった。単なる過去の名馬という認識なのだろう。
俺は情報誌をさらにめくり、この老いたペガサスについての詳細を探った。若い頃の輝かしい戦績、怪我による長期休養、そして復帰後の低迷。まるで、一人の人間の人生を追うかのような、波乱に満ちた経歴だった。
(面白い……)
俺は情報誌を握りしめたまま、静かに笑みを浮かべた。この老いた流星にこそ、俺の求めていた「刺激」があるような、そんな予感がしていた。
夕暮れの市場を歩きながら、俺は密かに、その馬が繋がれているという厩舎の場所を、頭の中に刻み込んでいた。誰にも気づかれないよう、そっと。
この小さな決意が、やがてどれほど大きな騒動へと発展していくのか。この時の俺には、まだ、はっきりとした自覚はなかった。ただ、腹の奥で燃え始めた小さな炎だけが、確かに、その存在感を増していた。
「ご主人様、そろそろ宿に戻りませんか? 明日はレース当日ですし、早めに休んだ方が」
ミミの提案に、俺たちは頷いて宿への道を歩き始めた。夕日はすっかり沈み、会場周辺には篝火や魔道具の灯りが、幻想的な光を放ち始めていた。
「明日は、いよいよ本番ですね」
リーゼロッテが静かに呟いた。その声には、期待と、微かな緊張が入り混じっていた。
「ああ、楽しみだな」
俺はそう答えながらも、内心では既に、明日の賭けについての算段を巡らせ続けていた。『黄金の疾風』か、それとも『老いた流星』か。その選択が、この旅の結末を、そして俺たちの今後の日々を、大きく左右することになるとは、まだ誰も知らなかった。
宿への道すがら、シルヴィアがふと呟いた。
「明日は、良いレースが見られるといいな」
「そうだな」
俺は短くそう答えながら、夜空を見上げた。二つの月が、いつものように静かに輝いている。この穏やかな夜の先に、どんな明日が待っているのか。俺はまだ、その全貌を知る由もなかった。
宿の部屋に戻ると、ミミはあっという間に眠りについてしまった。長旅の疲れと、初めて目にした光景の興奮が、その小さな体を一気に眠りへと誘ったのだろう。リーゼロッテは、明日の観戦計画を最終確認するべく、まだしばらく起きているようだった。
俺は一人、宿の窓辺に立ち、遠くに見える競技場のシルエットを眺めた。明日、あの場所で、俺の運命を左右する大勝負が繰り広げられる。『黄金の疾風』という圧倒的な本命と、『老いた流星』という忘れられた挑戦者。どちらに賭けるべきか、まだ心の中で天秤が揺れ続けていた。
だが、その天秤は、既に大きく一方へと傾き始めていることを、俺自身が一番よく分かっていた。
窓の外では、会場周辺の篝火が、夜通し消えることなく揺らめいていた。祭りの熱気は、夜が更けても衰える気配がない。この異様な高揚感の中で、俺の胸に灯った小さな渇望も、静かに、しかし確実に、その火勢を増していくのだった。
明日の朝が来れば、いよいよレース当日を迎える。その先に待ち受けているものが、栄光なのか、それとも思いもよらぬ結末なのか。今はまだ、誰にも分からなかった。俺はゆっくりと窓を閉め、静かにベッドへと向かった。明日という日が、俺たちの物語にどんな新しい一頁を刻むことになるのか、その答えは、もう間もなく明らかになる。窓の外の喧騒が、静かに遠のいていった。目を閉じると、明日への期待と、微かな不安が、胸の中で静かに、そしてどこか複雑に、絡み合いながらずっと交差していくのだった。




