第19話 新オーナー・アキトの優雅な朝
「アキト様、起きてください。もう昼近くですよ」
リーゼロッテの声で、俺は重い瞼をこじ開けた。
窓から差し込む光は、確かに真昼のそれだった。俺は大きく伸びをしながら、豪奢な天蓋付きのベッドから体を起こした。カジノの経営権を譲り受けてから、早くも半月ほどが経っていた。
「んー……もうそんな時間か」
「ええ。あなたが優雅に眠っている間に、私は帳簿を三冊分片付けました」
「相変わらず有能だな、あんた」
「褒めても何も出ませんよ」
リーゼロッテは呆れたように息を吐きながら、それでも手には朝――もとい昼食の載ったトレイを持っていた。この甲斐甲斐しさも、いつの間にかすっかり見慣れた光景になっている。
思えば、バルザス邸を引き継いでからというもの、俺の生活は一変していた。前世でも今世でも、こんな優雅な寝坊など経験したことがなかった。豪華な寝室、行き届いた世話、そして働かずとも収入が入ってくる仕組み――まさに成金の理想像そのものだった。
「あんた、たまには休んだらどうだ。あんまり根詰めると倒れるぞ」
「経営が軌道に乗るまでは、気を抜けません。それに、私は元々こういう仕事が性に合っているのです」
リーゼロッテはそう言いながらも、どこか満更でもなさそうな表情を浮かべていた。フォルトゥーナ時代とは違い、今は誰にも縛られることなく、自分の裁量で経営を采配できる立場にある。それが、この女にとって新たなやりがいになっているのかもしれない。
「最近、来客数も右肩上がりです。あなたの『英雄』としての名声も、集客に一役買っているようですね」
「まあ、悪いことじゃねえよな」
「ただし、その名声に胡座をかいて、経営そのものを疎かにするような真似だけは、絶対に許しませんので」
「分かってるさ。全部あんたに丸投げしてるだけだけどな」
「……その自覚があるだけ、まだマシです」
リーゼロッテは呆れたようにため息をつきながらも、トレイをテーブルに置いた。この掛け合いも、いつの間にか俺たちの日常の一部として、すっかり馴染んでいた。
バルザスから引き継いだ邸宅は、あの陰惨な地下闘技場を完全に取り壊し、明るく開放的なカジノフロアへと生まれ変わっていた。表向きの経営者は俺、実務の全てはリーゼロッテという体制で、経営は驚くほど順調に回っていた。
*
「ご主人様、おはようございますです!」
食堂に降りると、ミミが元気よく駆け寄ってきた。この数週間で、ミミはカジノの「看板娘」として、すっかり街の人気者になっていた。フリフリの給仕服に身を包み、来店客に愛想を振りまく姿は、店の評判を大きく押し上げている。
「おう、ミミ。今日も繁盛してるか」
「はい! 今日も朝から、たくさんお客さんが来てます! みんな、ミミのこと『幸運のマスコット』って呼んでくれるんです!」
ミミは尻尾を揺らしながら、誇らしげに胸を張った。獣人特有の愛らしさと人懐っこさが、思わぬ形で経営に貢献しているらしい。当初は接客業など向いているか心配していたが、杞憂に終わったようだ。
「まあ、あんたの笑顔を見て機嫌が悪くなる客はいねえだろうな」
「えへへ、ありがとうございます!」
ミミの笑顔を見ながら、俺は改めて、この街での生活の充実ぶりを実感していた。奴隷市場で拾った時の、あの怯えた小さな体はもうどこにもない。今では店の人気者として、堂々と胸を張って働く姿がある。この変化を見守れることが、俺にとって何よりの喜びだった。
「そういえば、ご主人様。今度、ミミの提案で新しいイベントをやろうって話になってるんです!」
「新しいイベント?」
「はい! お客さんの誕生日をお祝いする企画とか、幸運の数字を当てるゲームとか! リーゼロッテ様と一緒に考えてるんです!」
ミミは目を輝かせながら、興奮気味にまくし立てた。この子なりに、店の発展に貢献しようと、日々工夫を重ねているらしい。その健気な努力に、俺は思わず微笑ましい気持ちになった。
「へえ、大したもんじゃねえか。俺なんかより、よっぽど経営に貢献してるな」
「そ、そんなことないです! ご主人様がいてくれるから、ミミも頑張れるんです!」
ミミは顔を赤らめながら、慌てて否定した。この真っ直ぐな忠誠心は、出会った頃から少しも変わっていない。むしろ、この街での日々を重ねるごとに、その絆はより一層深まっているように感じられた。
「そういえば、獣人のお客さんも、最近増えてきたんです。ミミがいるから安心して来られるって、言ってくれる人もいて」
「そうか。それは、良いことだな」
俺は素直にそう思った。ミミがこのカジノで働くことで、これまで賭博場に足を運びにくかった獣人たちにとっても、居心地の良い場所になっているのだとしたら、それは何よりの成果だ。
「ご主人様、今日のお昼、一緒に食べませんか?」
「ああ、そうするか」
俺はミミと共に、食堂の隅の席に腰を下ろした。忙しい合間を縫っての、ささやかな昼食の時間。こういう何気ない日常こそが、俺にとって何よりも大切なものになっていた。
*
昼過ぎ、フロアに顔を出すと、シルヴィアが所在なさげに立っているのが見えた。
「シルヴィア、今日は非番か」
「あ、ああ。たまたま、近くを通りかかっただけだ」
シルヴィアは明らかに動揺した様子で、目を泳がせた。この分かりやすさは、相変わらずである。白銀の鎧を纏った凛々しい姿には似つかわしくない、その挙動不審な態度が、なんとも微笑ましい。
「近くを通りかかった、ねえ。カジノの前をか?」
「そ、そうだ。何か問題でもあるか」
「別に。ただ、今週これで四回目だなと思ってよ」
シルヴィアの顔が、みるみる赤くなった。
「そ、それは……その、治安維持の一環というか……」
「治安維持ね。カジノの前で、毎回同じ時間帯にか」
「う、うるさい! 偶然だ、偶然に決まってるだろう!」
俺は思わずニヤついた。この生真面目な聖騎士団長が、こうも分かりやすく動揺する姿を見るのは、何度見ても飽きない。
「デートに誘ってやろうか」
「なっ――!?」
俺がからかい半分でそう言うと、シルヴィアは飛び上がらんばかりに驚いた。
「デ、デートだと!? な、何を言い出すんだ、貴様は!」
「別に減るもんじゃねえだろ。非番なんだし、たまにはゆっくり街でも歩こうぜ」
シルヴィアは口をぱくぱくと開閉させながら、言葉を探しているようだった。この状況で、この女がどう答えるべきか、頭の中で必死に整理しているのが手に取るように分かる。
俺は【絶対因果】を、ほんの少しだけ使うことにした。「シルヴィアが素直に頷く確率」を、ごくごく僅かに引き上げる。もちろん、無理やり操るような大それた真似ではない。あくまで、彼女の中の迷いを、ほんの少し後押しする程度の、些細な干渉だ。
「う……その、非番なのは、事実だし……少しくらいなら……」
「決まりだな」
シルヴィアは頬を赤らめながらも、渋々といった様子で頷いた。傍で見ていたミミが、目を輝かせながら小さくガッツポーズをしている。
「よ、よし! では行くぞ! だが、変な下心があるなら、容赦なく叩き斬るからな!」
「物騒だな、おい」
俺たちは連れ立って、カジノの外へと出た。街の賑わいの中を歩きながら、シルヴィアの表情は、意外にも柔らかいものへと変わっていった。普段の凛とした団長としての顔とは違う、年相応の女性らしい一面を垣間見た気がした。
露店を覗いたり、街角の噴水の前で立ち止まったりしながら、俺たちはとりとめのない会話を交わした。シルヴィアは、聖騎士団に入団した経緯や、幼い頃からの夢について、ぽつぽつと語ってくれた。普段の彼女からは想像もつかないほど、素朴で飾らない言葉だった。
「私は、ただ人々を守りたかっただけなのだ。剣を握ったのも、それが一番分かりやすい方法だったからに過ぎない」
「立派な志じゃねえか」
「立派、というほどのものではない。ただの、子供じみた正義感だ」
シルヴィアは少し照れくさそうに視線を逸らした。その横顔を眺めながら、俺は改めて、この街で出会った仲間たちの一人一人が、それぞれに大切な想いを抱えて生きていることを実感していた。
「なあ、シルヴィア」
「な、なんだ」
「たまには、こうやって息抜きするのも悪くねえだろ」
「……ああ、そうだな」
シルヴィアは小さく頷きながら、微かに笑みを浮かべた。夕暮れ時の街並みを背景に、その笑顔は、これまで見てきたどの表情よりも、自然で美しいものだった。
*
夕方、リーゼロッテの執務室に顔を出すと、彼女は難しい顔で書類を睨んでいた。
「どうした、難しい顔して」
「隣国から、正式な連絡が届きました。例の『天才ギャンブラー』が、近日中にこの街を訪れるとのことです」
「おお、来たか」
俺は思わず口の端を吊り上げた。
「名前は、ガレオン・ヴァルシュタイン。近隣諸国では知らぬ者がいないほどの博徒だそうです。これまでの戦績、負けなしの三百戦三百勝」
「随分な数字だな」
「ええ。しかも、単なる強運ではなく、あらゆるゲームの理論と心理戦に精通した、真の実力者だという評判です。若い頃から各国のカジノを渡り歩き、行く先々で伝説的な勝利を重ねてきたとか」
リーゼロッテは、手元の資料をめくりながら続けた。
「彼の戦い方には、ある特徴があるそうです。相手の得意なゲームで、あえて勝負を挑む。それも、相手が最も自信を持っている局面で、その自信を逆手に取るように攻める――そういう戦術を得意としているとのことです」
「なるほど、性格の悪い戦い方だ」
「褒め言葉として受け取っているようですね」
「まあな。効果的な戦術ってのは、大抵性格が悪いもんだ」
俺は椅子に深く腰掛けながら、顎を撫でた。前世でも、似たような戦い方をする博打打ちに何度か遭遇したことがある。相手の自信こそを最大の弱点として突く――そういう手合いは、往々にして底知れない実力を隠し持っているものだ。
「フォルトゥーナ時代にも、彼についての噂を何度か耳にしたことがあります。当時は遠い国の話だと思っていましたが、まさかこの街に来るとは」
リーゼロッテの声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「アキト様、油断だけはなさらないでください。彼はこれまで、リーゼロッテ以上の実力者たちすら、次々と打ち負かしてきた人物です」
「面白い」
俺は静かに、しかし確かな高揚感を込めて呟いた。
「その天才ギャンブラーとやら、俺のカジノで迎え撃ってやろうじゃねえか」
窓の外に広がる夕焼け空を見つめながら、俺は静かに闘志を燃やしていた。新たな強敵との対決が、もうすぐそこまで迫っている。この街での穏やかな日々の中に、また新たな刺激が訪れようとしていた。
「アキト様、油断は禁物ですよ」
「分かってるさ。だが、負ける気は毛頭ねえけどな」
俺はニヤリと笑いながら、来るべき大勝負への期待に胸を膨らませた。異世界での俺のギャンブルライフは、まだまだ終わりを見せそうにない。
執務室を出て、俺はフロアを見渡した。夕暮れ時のカジノは、これから一日で最も賑わう時間帯を迎えようとしていた。客たちの活気ある声、チップがぶつかり合う音、そしてミミの元気な接客の声――この全てが、俺が築き上げてきた、新しい日常の風景だった。
「さて、天才ギャンブラーの到着まで、あとどれくらいだ」
「詳細な日取りは、まだ分かりません。ですが、恐らく十日以内には」
「十日、か。それまでに、こっちも準備を整えておかねえとな」
俺は懐から、フォルトゥーナで使っていたサイコロを取り出し、指先で弾いた。この小さな道具が、これから訪れる大勝負でも、きっと俺を支えてくれるはずだ。
カジノのフロアを歩きながら、俺は改めて、この街で築き上げてきたものの大きさを実感していた。頼れる相棒、癒やしのマスコット、そして頼もしい聖騎士。この仲間たちと共になら、どんな強敵が相手でも、必ず打ち勝てる。そんな確信が、静かに胸の内に宿っていた。
夕日が沈み、街に灯りが灯り始める。今宵もまた、賑やかなカジノの夜が始まろうとしていた。
フロアの入り口では、ミミが新しく来店した客たちに元気よく挨拶をしている。カウンターの奥では、リーゼロッテが冷静な目で全体の様子に目を配っている。窓の外を見やれば、非番のはずのシルヴィアが、今日もまた律儀に周辺を見回りしている姿が見えた。
この街で出会った仲間たち一人一人が、それぞれの形で、この新しい日常を支えてくれている。カジノのオーナーという、思いもよらなかった立場になった今も、俺という人間の本質は何一つ変わっていない。楽して稼ぎたい、美味い酒を飲みたい、美女に囲まれていたい――そんな欲望に忠実なクズのままだ。だが、その欲望を満たす過程で、いつの間にか、かけがえのない仲間たちを得ることができた。
これもまた、異世界という舞台がくれた、思いがけない恩恵の一つなのだろう。俺はチップを一枚、指先で弾いて宙に浮かせ、掌で受け止めた。
「よし、今夜も一稼ぎするか」
俺は不敵に笑いながら、賑わい始めたフロアへと足を踏み入れた。天才ギャンブラーとの対決という、新たな大勝負を控えながらも、今この瞬間の日常を、俺は心から楽しんでいた。
この街での日々は、まだまだこれから続いていく。仲間たちと共に、次なる強敵を迎え撃つその日まで、俺はこの穏やかで賑やかな毎日を、存分に謳歌するつもりだった。異世界での成金生活は、今が最高に楽しい時期なのかもしれない。そんなことを思いながら、俺はフロアの喧騒に身を委ねた。今宵も、賑やかな一夜が始まろうとしていた。俺という博徒の、異世界での物語は、まだまだ続いていくのだった。次なる大勝負に向けて、俺の胸は静かに高鳴り続けていた。この異世界での日々に、感謝しながら。俺の物語は、まだまだこれからも、賑やかに、そして楽しく、面白おかしく、続いていくのだった。この夜もまた静かに更けていく。




