第17話 正義の剣と、悪魔の笑み
「ふ……ふふ、ふはは……」
バルザスの口から、乾いた笑い声が漏れ始めた。俺は思わず眉をひそめた。この男、正気を保てているのか怪しい。狂気じみたその笑い方は、これまでの傲慢な余裕とはまるで違う、追い詰められた者特有の壊れた響きだった。
「アキト殿……いや、貴様は、一体何者だ」
「ただの博打打ちだよ」
「嘘をつけ! 四連続で不発など、あり得ん! 貴様、何か仕込んでいるのだろう!」
バルザスの声が、次第に金切り声じみてきた。周囲の護衛たちも、主人のあまりの変貌ぶりに戸惑いを隠せない様子だった。誰もが、こんなバルザスを見たことがないのだろう。
「イカサマをしてるのは、あんたの方だろうが」
俺は冷静に言い返した。
「最初から、俺の番だけ確実に死ぬような仕掛けを施してたんだろ。それが、狂わされて動揺してる。そういうことだよな?」
バルザスの顔が、怒りで真っ赤に染まった。図星を突かれた人間特有の、感情的な反応だった。額に浮かんだ血管が、はっきりと見て取れるほどだった。
俺は追い打ちをかけるように、さらに言葉を続けた。
「正々堂々の勝負を挑んだつもりだったんなら、なんでそんなに動揺してんだよ。あんたの言う『必然』とやらは、どこに消えたんだ?」
バルザスの目に、明確な殺意にも似た感情が宿った。もはや、この男を言葉で説得する余地は、微塵も残っていなかった。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
バルザスは絶叫すると、突然、卓の上の魔導銃を放り出し、懐から別の道具――禍々しい紋様の刻まれた笛のようなものを取り出した。その手つきは、もはや貴族の余裕など微塵も残っていない、追い詰められた獣そのものだった。
「もういい! 正々堂々とした勝負など、貴様のような化け物には通用せん! 力ずくで排除するまでだ!」
バルザスが笛を吹くと、闘技場の奥から、複数の魔獣たちが檻から解き放たれた。禍々しい咆哮を上げながら、異形の生物たちが一斉にこちらへと迫ってくる。同時に、周囲を固めていた護衛たちが、一斉に武器を構えた。
「――ゲームは中断だ! 全員、この男を殺せ!」
その号令と共に、闘技場の空気が一変した。先ほどまでの静かな緊張感は消え去り、剥き出しの殺気が辺りを満たしていく。護衛たちが一斉に距離を詰め始め、魔獣たちの唸り声が四方から聞こえてきた。
*
「ちっ、卑怯な野郎だ」
俺は舌打ちしながら、迫りくる護衛たちを見回した。武器も持たず、まともな戦闘能力もない俺にとって、これは絶体絶命の状況だった。
(さて、どう凌ぐか)
【絶対因果】を使えば、多少の時間は稼げるかもしれない。だが、複数の魔獣と護衛たちを同時に相手取るには、いくら確率を操作しても限界がある。魔力の残量も、既にロシアンルーレットでかなり消費している。頭の中で素早く計算を巡らせるが、この人数を相手に、俺一人でどうにかできる状況ではなかった。
護衛の一人が、剣を振りかぶって迫ってきた。俺は咄嗟に身を屈めながら、次の一手を考えた。せめて、ミミだけでも守れる位置に移動しなければならない。
周囲を見渡すと、魔獣の一匹が檻の中で唸り声を上げているミミの方へと近づいていくのが見えた。俺の背筋に、冷たいものが走った。あの子だけは、絶対に傷つけさせるわけにはいかない。
だが、俺一人の力では、この状況を打開する術がなかった。武器もなく、まともな戦闘技術もない身では、複数の敵を相手に立ち回ることなど到底不可能だ。せめて、少しでも時間を稼ぐしかない。そう覚悟を決めた、その時だった。
「――貴様、卑劣にも程があるぞ!」
闘技場の入り口から、凛とした声が響いた。
白銀の鎧を纏い、聖剣を抜いたシルヴィアが、そこに立っていた。月明かりも届かぬ地下だというのに、その姿は不思議と光り輝いて見えた。
「シルヴィア!」
「遅くなってすまない! 潜入していたリーゼロッテ殿から連絡を受けて、駆けつけた!」
シルヴィアは聖剣を構えると、迫っていた護衛の一人を、瞬く間に斬り伏せた。その動きは、以前俺と手合わせした時とは、比べ物にならないほど鋭かった。真剣な戦闘となれば、これがこの女の本来の実力なのだろう。凛とした剣筋には、一切の迷いがなかった。
「聖騎士団長がここにいるとはな! だが、私兵の数では、貴様一人など――」
「一人ではない!」
シルヴィアの声に呼応するように、闘技場の各所から、聖騎士団の団員たちが次々と姿を現した。統率の取れた動きで、瞬く間に闘技場の出入り口を制圧していく。その数は、バルザスの私兵たちを凌駕するほどだった。
「バルザス卿、貴殿の違法な賭博場運営、そして誘拐、脅迫の罪状、既に十分な証拠が揃っている! 覚悟せよ!」
バルザスの顔が、絶望に染まった。
「な、なぜ……どうやってここが……」
「リーゼロッテ殿が、潜入と同時に証拠を集め、私に連絡を寄越した。貴殿の悪事は、もう終わりだ」
シルヴィアの声には、これまでのポンコツな一面とは違う、凛とした団長としての威厳が満ちていた。この瞬間、俺は改めてこの女の本来の力量を実感していた。
*
闘技場は、瞬く間に乱戦の様相を呈した。
聖騎士団員たちが護衛たちを制圧していく一方、解き放たれた魔獣たちが辺りを暴れ回る。牙を剥き出しにした異形の生物たちが、無差別に爪を振るい、その度に石造りの床に鋭い傷跡が刻まれていく。シルヴィアは聖剣を振るいながら、俺の盾となるように立ち回っていた。
「アキト、下がっていろ! ここは私が!」
「悪いが、そうもいかねえ」
俺は【絶対因果】を発動させた。「シルヴィアの剣が、敵の武器の急所を正確に捉える確率」を、僅かに引き上げる。彼女の卓越した剣技と噛み合い、その一撃一撃が、面白いように敵を打ち倒していく。魔力の残量はもう心許なかったが、この局面で出し惜しみするわけにはいかない。
「な――今の一撃、やけに冴えているような……」
「気のせいだろ。あんたの実力だよ」
俺はニヤリと笑いながら、そう嘯いた。実際のところ、シルヴィアの実力があってこその結果だ。俺の力は、あくまでその実力を、ほんの少し後押ししているに過ぎない。この程度の謙遜は、嘘ではなかった。
周囲では、聖騎士団員たちが次々と魔獣を打ち倒し、護衛たちを拘束していく。統制の取れた動きは、明らかにシルヴィアの日頃の訓練の賜物だった。この街の治安を守り続けてきた矜持が、彼らの一挙一動から伝わってくる。
一人の護衛が、逃げ場を求めて俺の方へと駆け寄ってきた。だが、その進路上に、シルヴィアが素早く割り込んだ。
「アキトに手出しはさせん!」
シルヴィアの一閃が、護衛の剣を弾き飛ばした。金属同士がぶつかる甲高い音が、闘技場に響き渡る。護衛は戦意を喪失したのか、その場に膝をついた。
「あんた、思ってた以上に頼りになるじゃねえか」
「当然だ。私は、この街の治安を守る聖騎士団の団長だぞ」
シルヴィアは胸を張りながら、そう答えた。普段のポンコツな一面とは違う、誇り高い騎士としての姿が、そこにはあった。俺は思わず口元を緩めた。この女の本来の実力を、こうして目の当たりにできたことに、素直な驚きと敬意を覚えていた。
乱戦の中、俺はミミが繋がれている檻に向かって走った。護衛の目を掻い潜りながら、ようやく鎖の元へとたどり着く。周囲では剣戟の音と魔獣の咆哮が絶え間なく響いていたが、俺の意識はただ一点、ミミの安全だけに集中していた。
「ミミ、待たせたな!」
「ご主人様……!」
俺は鎖の鍵穴を確認すると、指先の技術を駆使して、素早く解錠した。この程度の錠前なら、前世で培った手先の技術で十分対応できる。カチリという小さな音と共に、鎖が緩んだ。
「大丈夫か、怪我はないか」
「だ、大丈夫です……! ご主人様、ありがとうございます……!」
ミミは涙を流しながら、俺に抱きついてきた。その小さな体の温もりを感じながら、俺は改めて安堵の息を吐いた。震える背中を、俺はそっと撫でてやった。
「もう大丈夫だ。怖い思いをさせて、悪かったな」
「ご主人様のせいじゃ、ないです……! ミミ、ずっと、ご主人様が助けに来てくれるって、信じてました……!」
その言葉に、俺は思わず胸が熱くなった。この幼い少女が、絶望的な状況の中でも、俺たちを信じ続けてくれていたことが、何よりも嬉しかった。
闘技場の奥では、シルヴィアと聖騎士団が、着々とバルザスの私兵たちを制圧していく。もはや、この勝負の趨勢は決していた。魔獣たちも、次々と鎮圧されるか、あるいは逃走していく。地下闘技場を支配していた恐怖の空気が、急速に晴れていくのが感じられた。
「アキト殿……こんなはずでは……こんなはずでは……!」
バルザスは護衛たちの後方で、震えながら後ずさっていた。その顔には、これまでの傲慢さの欠片も残っていなかった。ただの、追い詰められた小心者の姿が、そこにはあった。かつて成金趣味の指輪をジャラジャラと鳴らしながら余裕たっぷりに振る舞っていた男は、もはや見る影もなかった。
「バルザス卿」
シルヴィアが、聖剣を構えたまま、バルザスの前に立ちはだかった。
「貴殿の悪事は、ここで終わりだ。神妙に、縛につけ」
バルザスは、逃げ場を失った獣のような目で周囲を見回した。だが、既に護衛たちは大半が制圧され、逃走の道は完全に断たれていた。地下闘技場の唯一の出入り口も、聖騎士団員たちによって完全に封鎖されている。
「く……くそぉぉぉ!」
バルザスの断末魔のような叫びが、地下闘技場に虚しく響き渡った。次の瞬間、聖騎士団員たちがバルザスの両腕を掴み、拘束具をかけていく。かつて街の裏社会を牛耳っていた男の、あまりにもあっけない最期だった。
「離せ! 離さんか! 私を誰だと思っている! バルザス家の――」
「その家名も、もはや貴殿を守りはしない」
シルヴィアが、静かに、しかし断固とした口調で言い放った。バルザスは何かを喚き続けていたが、その声はもはや誰の耳にも届かない、意味を持たない絶叫に過ぎなかった。
その声を聞きながら、俺はミミを抱きしめ、静かに笑った。ようやく、長い夜が終わろうとしていた。
闘技場の入り口から、リーゼロッテが姿を現した。潜入時の任務を終え、証拠品らしき書類の束を抱えている。その表情には、任務を無事に完遂した安堵と、ミミやアキトの無事を確認できた喜びが入り混じっていた。
「アキト様、ミミ、ご無事で何よりです」
「リーゼロッテ! あんたのおかげで助かったよ」
「あなた方の無事が、何よりの成果です」
リーゼロッテは珍しく、安堵の表情を隠さなかった。この女がこれほどまでに感情を露わにするのは、初めて見る光景だった。普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほど、その声には温かみが滲んでいた。
俺たちの周りに、聖騎士団員たちが集まり、闘技場の後処理を進めていく。魔獣たちは順次拘束され、護衛たちも次々と連行されていった。地下深くに広がっていた恐怖の空間が、少しずつ、日常の秩序を取り戻していく。
「終わったんだな、本当に」
俺は小さく呟いた。ミミを片腕に抱えたまま、俺は改めて、この長い一夜の重みを噛みしめていた。仲間を守るために挑んだ、命懸けの勝負。その全てが、今、決着を迎えようとしていた。
地上へと続く階段を見上げながら、俺は静かに歩き出した。この先には、きっと穏やかな日常が待っているはずだ。そう信じながら。
ミミを片腕に抱え、もう片方の手をリーゼロッテに差し伸べると、彼女は少し驚いた表情を浮かべながらも、その手を取った。シルヴィアも、聖剣を鞘に収めながら、俺たちの後に続く。
「アキト、今回の件、街の正式な記録として、貴殿の功績も残しておこう」
「別に、そんなもん求めてねえよ」
「私が、そうしたいのだ。貴殁が命を張って戦った事実を、誰かが語り継ぐべきだと思う」
シルヴィアの言葉に、俺は少し照れ臭くなりながらも、素直に頷いた。
「まあ、あんたがそうしたいなら、好きにすりゃいい」
階段を上りながら、俺は改めて、この一夜で得たものの大きさを噛みしめていた。ミミを救い出し、バルザスという卑劣な男の悪事を暴いた。それだけではない。仲間たちとの絆が、これまで以上に深まったことこそが、何よりの収穫だったのかもしれない。
地上に出ると、既に夜が明け始めていた。東の空が、ほんのりと橙色に染まっている。長い夜を乗り越えた俺たちの前に、新しい一日が静かに始まろうとしていた。
「さて、宿に戻ったら、まずは飯だな。腹が減って仕方ねえ」
俺のそんな軽口に、ミミが小さく笑い声を上げた。その笑顔を見られただけで、この命懸けの戦いに挑んだ価値があったと、俺は心から思えた。
振り返れば、地下闘技場の入り口では、聖騎士団員たちがバルザスと護衛たちを連行していく様子が見えた。かつてこの街の裏社会を牛耳っていた男の、あまりにも呆気ない末路だった。だが、それも当然のことなのかもしれない。金と権力にすがるだけの人間は、それらを失った瞬間、何も残らない。真の強さとは、仲間との絆や、正々堂々とした矜持の中にこそ宿るものなのだと、俺は改めて実感していた。
朝日を浴びながら、俺たちは並んで宿への道を歩き出した。この長い夜を乗り越えたからこそ得られた、確かな絆と共に。
ミミの温もりを腕に感じながら、リーゼロッテの落ち着いた足音を隣に聞きながら、そしてシルヴィアの凛とした背中を前に見ながら、俺は静かに胸の内で呟いた。この街で出会った仲間たちがいなければ、今夜の勝利はあり得なかった。改めて、そのことに感謝する。異世界での日々は、これからも続いていく。この街での本当の意味での平穏が、ようやく戻ってこようとしていた。俺たちの足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。長い夜が、ようやく明けようとしていた。俺たちの物語は、まだまだこれからも続いていく。この街での、そして異世界での、賑やかな日々がこれからも続く。




