第15話 潜入、闇の地下闘技場
夜、俺は招待状に指定された通り、一人でバルザスの邸宅へと向かった。
もちろん、本当に一人というわけではない。リーゼロッテは、フォルトゥーナ時代の伝手で手に入れた裏口の情報を頼りに、邸宅の裏手から別途潜入する手筈になっている。表向きは俺一人で正面から乗り込み、バルザスの注意を引きつける。その間に、リーゼロッテが地下へと侵入し、ミミの居場所を突き止める――そういう算段だった。
昨夜のうちに、俺たちは何度もこの計画を練り直した。邸宅の見取り図、警備の配置、想定される抵抗勢力の数。リーゼロッテが持つ人脈を駆使して集めた情報は、決して完璧とは言えなかったが、それでも手探りで挑むよりは、はるかにマシな状態だった。
「アキト様、くれぐれも無茶はなさらないでください」
別れ際、リーゼロッテがそう釘を刺してきた。その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「あんたこそ、気をつけろよ」
「私のことより、ご自分の心配をなさってください」
軽口を交わしながらも、互いの目には、これまでにない真剣な光が宿っていた。ミミを取り戻すまで、絶対に退かない。その一点だけは、二人とも揺るがなかった。
夜の街を歩きながら、俺は懐に忍ばせたサイコロを、指先で何度も確かめた。この小さな道具が、これから始まる勝負の全てを左右するかもしれない。魔力の残量を、頭の中で慎重に計算する。今夜は、絶対に無駄遣いできない。
道すがら、シルヴィアにも今夜の計画の一部を伝えてあった。彼女は「私も同行する」と強く主張したが、「表立って聖騎士団が動けば、バルザスに証拠隠滅の時間を与えることになる」というリーゼロッテの説得で、渋々ながら待機に回ってもらうことになった。とはいえ、いざという時には彼女が動いてくれるという安心感は、大きな支えだった。
「必ず、無事に戻ってこい。約束だぞ」
別れ際、シルヴィアはそう言って、俺の肩を強く叩いた。その真剣な眼差しには、これまでのポンコツな一面とは違う、頼れる騎士としての一面が滲んでいた。この街で出会った仲間たちが、それぞれの形で俺を支えてくれている。その事実だけで、心強さが違った。
邸宅までの道のりは、いつもよりずっと長く感じられた。夜風が頬を撫でるたびに、様々な想像が頭をよぎる。ミミが今どんな状態でいるのか、バルザスがどんな罠を仕掛けているのか。考え出せばきりがなかったが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
*
邸宅の門をくぐると、前回とは違う雰囲気が漂っていた。
庭園の彫像の陰に、明らかに武装した男たちの気配がある。前回の「歓待」の時には感じなかった、剥き出しの敵意だった。バルザスは、もう猫を被る必要がないと判断したのだろう。門番の態度も、前回の慇懃さが嘘のように、露骨に威圧的だった。
「よくぞ参られた、アキト殿」
広間で待ち受けていたのは、いつもの脂ぎった笑みを浮かべたバルザスだった。だが、その笑みには、これまでにない下卑た愉悦が混じっていた。まるで、獲物を追い詰めた猟師のような、嗜虐的な色が瞳の奥に見え隠れしている。
「ミミはどこだ」
「まあまあ、そう急かさずとも。今からご案内いたしましょう」
バルザスは芝居がかった仕草で手を挙げると、壁際に控えていた使用人が、部屋の奥にある隠し扉を開いた。重厚な音を立てて開いたその扉の奥からは、これまでとは明らかに違う、不穏な空気が漂ってきた。
「こちらへ」
俺は警戒しながらも、バルザスの後に続いた。隠し扉の先には、下へと続く長い階段が伸びていた。灯りは乏しく、湿った空気と、かすかな血の匂いが漂ってくる。壁に取り付けられた松明の炎が、揺らめきながら不気味な影を落としていた。
「随分と、趣味の悪い場所に案内してくれるじゃねえか」
「ここは、私にとっての『本当の顔』とでも言いましょうか。表の社交界では決して見せられない、真の娯楽の場です」
バルザスの声は、階段を降りるごとに、どこか陶酔したような響きを帯びていった。この男にとって、この地下空間こそが本来の居場所なのだろう。表の紳士然とした振る舞いは、あくまで仮の姿に過ぎない。
階段を降りきると、そこには広大な地下闘技場が広がっていた。
円形の闘技場を囲むように、観客席らしき場所が設けられている。だが、今は誰もいない。周囲の壁には、鉄格子の付いた檻がいくつも並び、その中には、魔獣と思しき異形の生物たちが唸り声を上げていた。禍々しい咆哮が、石造りの空間に不気味に反響する。
「ここで、私は密かに、賭博と見世物を兼ねた催しを開いております。表のカジノでは決して味わえない、命懸けの興奮を求める客たちのためにな」
「命懸けの興奮、ね」
「ええ。人と人、あるいは人と魔獣を戦わせ、その勝敗に金を賭ける。実にシンプルで、実に原始的な娯楽です」
バルザスの声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。この男にとって、他者の命すらも、金儲けの道具でしかないのだろう。
「胸糞悪い趣味だな」
「感想は自由ですぞ、アキト殿」
バルザスは檻の中の魔獣たちを、愛おしそうな目で見やった。餌でも愛でるかのようなその視線に、俺は改めて嫌悪感を覚えた。この男にとって、命あるもの全てが、金と快楽のための道具に過ぎないのだろう。
周囲を見渡すと、闘技場の壁際には、これまでの「催し」の跡らしきものがいくつも見て取れた。錆びついた鎖、放置されたままの防具、そして何かを引きずったような血痕。この場所で、これまでどれほどの悲劇が繰り返されてきたのか、想像するだけで胸が悪くなった。
*
闘技場の中央に近づくにつれ、俺の視界に、あるものが飛び込んできた。
魔獣の檻の一つの前に、小さな鎖に繋がれた影があった。
「――ミミ!」
俺は思わず駆け寄った。檻の前に吊るされるような形で拘束されていたのは、間違いなくミミだった。小さな体を縮こまらせ、恐怖に震えている。栗色の髪は乱れ、いつも元気に動いていた耳と尻尾も、今は力なく垂れ下がったままだった。俺の声に気づいたミミが、涙で濡れた顔を上げた。
「ご、ご主人様……!」
「大丈夫か、怪我はないか!」
「だ、大丈夫です……でも、怖くて……」
ミミの声は震えていた。獣人特有の敏感な感覚が、この場の異様な空気――魔獣たちの唸り声、血の匂い、そして周囲を取り囲む男たちの殺気――を、常人以上に強く感じ取っていたのだろう。小さな体を、まるで消えてしまいたいとでも言うように縮こまらせている。
俺は駆け寄ろうとしたが、周囲を固める護衛たちが、すぐさま俺の前に立ちはだかった。剣を構え、こちらの動きを完全に封じている。この距離では、鎖を外すことも、ミミを抱き上げることもできない。
護衛の数は、ざっと見て十人以上。いずれも屈強な体格で、実戦慣れした雰囲気を漂わせている。これまで対峙してきたイカサマ師や用心棒とは、明らかに格が違う。正面から力ずくで突破しようとすれば、瞬く間に取り押さえられるだろう。
「ご主人様、ミミ、大丈夫です……! だから、心配、しないで……」
ミミは涙を流しながらも、必死に気丈な言葉を絞り出そうとしていた。この幼い少女が、俺を心配させまいと無理をしている姿に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
その健気な様子に、俺の中で何かが音を立てて燃え上がった。この子は、こんな状況にあってなお、自分よりも俺のことを気遣おうとしている。そんな優しさを踏みにじった代償を、バルザスには必ず払わせてやる。そう心に誓った。
「アキト殿、ご覧の通り、あなたの大切な使用人は、丁重に『お預かり』しております」
バルザスの声に、俺は振り返った。その顔には、これまで見せていた愛想の良い仮面が、完全に剥がれ落ちていた。脂ぎった笑みの奥に、隠しきれない支配欲と嗜虐性が滲んでいる。
「この娘の身柄と、貴殿が持つ全ての財産、そして街の騎士団の不正の証拠――それらを賭けた、一つの勝負を提案しよう」
「勝負だと?」
「ええ。『魔導ロシアンルーレット』という名の、命懸けのゲームです」
バルザスはそう言うと、懐から一丁の魔導銃を取り出した。禍々しい魔力の紋様が刻まれたその銃は、見るからに不吉な気配を放っている。松明の光を反射する銃身が、まるで生き物のように禍々しく輝いていた。
「六発中一発に、魂を消滅させる即死の魔法が込められている。それを交互に、自分自身の頭に向けて発射する。単純明快、実にシンプルなゲームでしょう?」
俺は思わず息を呑んだ。魂を消滅させる、という言葉の重みが、じわじわと実感として押し寄せてくる。これはもう、単なる金銭を賭けた勝負ではない。文字通り、命そのものを賭けた勝負だ。
「六分の一の確率で、即死、ってことか」
「その通り。実にスリリングだとは思いませんか、アキト殿。貴殿がこれまで嗜んできたであろう、あらゆる賭博の中でも、これほどまでに純粋な緊張感を味わえるものは、そう多くはないでしょう」
バルザスは恍惚とした表情で銃を弄びながら続けた。この男は、本気でこの狂気じみたゲームを「究極の娯楽」だと信じているらしい。その歪んだ価値観に、俺は改めて背筋が冷たくなる思いがした。
「もちろん、貴殿に選択肢がないわけではありません。この場から立ち去り、私に膝を屈するという道も、ないわけではない。ただし、その場合、この娘の身柄と、貴殿がこれまで積み上げてきたもの全てを、諦めていただくことになりますが」
バルザスの言葉は、丁寧な口調とは裏腹に、明確な脅迫だった。この男は最初から、俺に選択肢を与えるつもりなど、微塵もないのだろう。逃げれば全てを失い、受ければ命を賭けることになる。どちらに転んでも、バルザスにとっては都合の良い結末が待っている――そういう仕組みなのだ。
俺は檻に繋がれたミミを見た。その怯えた瞳が、俺を見つめていた。
「ご主人様、ダメです……! 逃げてください……! ミミのことは、いいから……!」
「安心しろ、ミミ」
俺は静かに、しかし力強く言った。
「お前を置いて逃げるような真似、俺がすると思うか」
ミミの目に、新たな涙が浮かんだ。だが、それは恐怖の涙ではなく、別の何かだった。信頼と、安堵の入り混じった、複雑な感情の発露だった。
俺はバルザスに向き直った。奴の顔には、余裕たっぷりの笑みが浮かんでいる。その笑みの裏に、何か企みが隠されていることを、俺は直感的に確信していた。この男が、正々堂々とした勝負を挑んでくるはずがない。おそらく、この銃には何らかの細工が施されているはずだ。だが、今はそれを暴く手段がない。
(まずは、乗ってやる。その上で、企みの尻尾を掴んでやる)
「――受けて立とうじゃねえか」
俺の言葉に、バルザスの笑みが、一層深くなった。
「賢明なご判断です、アキト殿。では、準備を整えましょう」
バルザスが手を叩くと、周囲に控えていた男たちが、闘技場の中央に小さな卓を運び込んできた。その上に、あの禍々しい魔導銃が、恭しく置かれる。
闘技場に、不気味な静寂が満ちていく。この先に待ち受ける勝負が、これまでのどんな勝負よりも過酷なものになることを、俺は既に予感していた。だが、退くつもりはない。ミミを、そして仲間たちを守るために、俺はこの命懸けの勝負に挑む覚悟を、静かに固めていった。
視線の端で、闘技場の暗がりに、微かな人影が動いたのが見えた。リーゼロッテだ。表向きは気づいていないふりをしながら、俺は内心で小さく安堵した。彼女が無事に潜入できているなら、この場に希望はまだ残っている。
リーゼロッテの姿は、闘技場の暗がりに巧みに紛れ、護衛たちの誰にも気づかれていないようだった。フォルトゥーナで培った観察眼と立ち回りの技術が、こういう場面でも遺憾なく発揮されているのだろう。彼女がどんな手立てを用意しているのか、今の俺には分からない。だが、少なくとも一人で全てを背負う必要はないという事実が、大きな心の支えになっていた。
バルザスの護衛たちが、卓の上の魔導銃を丁寧に検め、弾倉らしき部分に何かを装填し始めた。その手つきを、俺は注意深く観察した。イカサマの匂いを嗅ぎ分けるのは、俺の得意分野だ。だが、この距離、この照明では、細かい仕掛けまでは見て取れない。
「準備が整いました、アキト殿」
護衛の一人がそう告げると、バルザスが満足げに頷いた。
「では、始めましょうか。先攻は――そうですな、栄誉ある挑戦者である貴殿に譲りましょう」
バルザスの声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。この提案自体にも、何らかの意図が隠されているに違いない。だが、今はそれを見抜く材料が足りない。
全ての準備が整うまでの、束の間の静寂。俺は静かに拳を握りしめ、来るべき瞬間に備えて、心を研ぎ澄ませていった。この命懸けの勝負の先に、ミミの解放と、この卑劣な男への報いが待っている。それだけを信じて、俺は前を向いた。
鎖に繋がれたミミが、震えながらもこちらを見つめている。リーゼロッテが暗がりに潜んでいる。そしてシルヴィアが、街のどこかで待機している。この街で出会った仲間たちの存在が、俺の背中を静かに、しかし確かに押していた。負けるわけにはいかない。この命懸けの勝負、必ず勝ち抜いてみせる。
バルザスが合図を送ると、護衛の一人が魔導銃を恭しく卓の上に置いた。禍々しい輝きを放つその銃身が、これから始まる死の遊戯の重さを、無言のうちに物語っていた。俺は静かに一歩、卓へと歩みを進めた。この先に待ち受ける全てを受け止める覚悟を胸に、俺は自らの手で銃を取り上げた。冷たい金属の感触が、掌に確かな重みを伝えてきた。この重みの先に、ミミの笑顔を取り戻す未来が待っている。俺はそう信じて、静かに引き金に指をかけた。全ての命運を賭けた、最初の一発が放たれようとしていた。




