第14話 消えたマスコット
バルザス邸を訪ねた翌日、俺たちの日常は、表面上はいつも通りに過ぎていった。
シルヴィアには、あの一件をかいつまんで伝えておいた。予想通り、彼女は「バルザス卿には以前から不審な噂があった」と眉をひそめ、独自に情報を集めると約束してくれた。堅物な聖騎士団長ではあるが、こういう時の行動力だけは、素直に頼もしい。
「アキト、油断するなよ。あの男は、表向きの丁寧さとは裏腹に、相当汚い手を使う人間だという噂がある」
「分かってるさ。あんたの方こそ、気をつけろよ。あいつ、あんたの名前まで把握してやがった」
「……なに?」
シルヴィアの表情が、みるみる険しくなった。この生真面目な女にとって、正体不明の相手に監視されていたという事実は、看過できないものらしい。
「私の名は、聖騎士団の団長として広く知られている。それ自体は珍しいことではない。だが、貴様との関係まで把握しているとなると――」
「ああ、俺たちの動向を、かなり詳しく調べてるってことだ」
シルヴィアは険しい顔で頷き、忙しなく去っていった。団としても、警戒を強めるつもりなのだろう。
「くそっ……あの男、一体どこまで手を伸ばしているのだ」
立ち去り際、シルヴィアがそう吐き捨てるのが聞こえた。この生真面目な女にとって、権力を笠に着て街の治安を脅かす存在は、何よりも許しがたいものなのだろう。その正義感の強さに、俺は少しばかり好感を持った。
彼女の背中を見送りながら、俺は改めてバルザスという男の底知れなさを実感していた。あれほどの情報網を持つ人間が、この街の裏で長年にわたって権勢を振るってきたのだ。一筋縄ではいかない相手であることは、間違いなかった。
こうして、それぞれが警戒を強めながらも、俺たちの日常は続いていった。ミミは相変わらず、宿の台所で料理の腕を磨き、時折買い出しにも出かけるようになっていた。あの日以来、俺もリーゼロッテも、それとなくミミの行動には気を配っていたつもりだった。だが、まだ数日しか経っていない油断も、正直なところあったのかもしれない。
*
その日の午後、ミミは市場へ買い出しに出かけた。
「行ってきます、ご主人様!」
いつものように元気よく出て行くミミを、俺は特に気にすることもなく見送った。この街に来て、既に何度も一人で買い出しをこなしてきた実績がある。獣人特有の鋭い勘もあり、危険を察知する能力も高い。心配する理由は、特に見当たらなかった。
その日は買い物のリストも普段より多く、リーゼロッテが「今日は少し時間がかかるかもしれません」と言っていたのを、俺は特に気にも留めていなかった。市場までの道のりも、既に何度も往復して慣れているはずだった。
思えば、この数日、ミミはすっかりこの街での生活に馴染み、行動範囲も自然と広がっていた。それ自体は喜ばしいことのはずだったが、同時に、それだけ危険に晒される機会も増えていたということでもある。俺たちは、その点への配慮が、明らかに足りていなかった。
ミミが元気よく飛び出していく後ろ姿を眺めながら、俺はいつも通り、部屋でチップを弄びながら過ごしていた。あの脅迫めいた邸宅訪問から数日経ち、目立った動きもなかったことで、心のどこかで警戒が緩んでいたのかもしれない。
だが、夕方になっても、ミミは戻ってこなかった。
「アキト様、ミミが遅いですね」
リーゼロッテが、窓の外を気にしながら呟いた。普段なら、買い出しは長くとも一時間程度で終わるはずだ。既に夕暮れが迫っている今、明らかに遅すぎる。
「様子を見に行ってくる」
俺は嫌な予感を覚えながら、宿を飛び出した。ミミがいつも利用している市場、その周辺の道を、一つ一つ確認していく。だが、どこにもミミの姿はなかった。
「おい、ミミ! どこだ、ミミ!」
俺は声を張り上げながら、市場の隅々まで捜し回った。だが、返事はない。獣人特有の耳と尻尾を持つ少女は、この街ではそれなりに目立つ存在のはずだ。誰か見た者がいてもおかしくない。
市場に着く途中から、俺の胸の中では悪い予感がどんどん膨らんでいた。普段温厚な性格のミミが、何の連絡もなくこれほど遅くなることなど、これまで一度もなかった。何かがあったに違いない。そう確信すればするほど、足取りは自然と速くなっていった。
市場の露店の一つで、俺は事情を尋ねてみた。
「ああ、あの獣人の嬢ちゃんなら、さっきまでそこの果物屋にいたよ。だが……」
「だが、何だ」
「妙な男たちに、声をかけられているのを見た気がするな。柄の悪い連中でな。あの後、姿を見てないぜ」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
「その男たち、どんな格好してた」
「黒っぽい服装で、貴族の使用人みたいな出で立ちだったな。堅気には見えなかった」
貴族の使用人。その言葉だけで、脳裏に浮かぶ人物は一人しかいなかった。俺は露店の主人に礼を言うと、さらに周辺を捜し回った。だが、どこを探してもミミの姿は見つからない。
市場の裏路地、路地裏の物陰、あらゆる場所を確認したが、手がかりは何一つ得られなかった。焦燥感が、じわじわと胸を締め付けていく。
通りすがりの人々にも声をかけてみたが、獣人の少女を見たという証言は、それ以上得られなかった。まるで、忽然と姿を消したかのようだった。夕暮れの光が薄れ、街並みが徐々に藍色に染まっていく中、俺は焦りを募らせながら宿への道を急いだ。
道すがら、俺は自分自身に苛立ちを覚えていた。バルザスとの一件があった直後だというのに、ミミの安全にもっと気を配るべきだった。あの脅迫めいた手紙を受け取った時点で、少なくとも一人での外出は控えさせるべきだったのだ。自分の判断の甘さが、今更ながらに悔やまれてならなかった。
宿の明かりが見えてきた頃には、俺の呼吸はすっかり乱れていた。全力で走り続けた疲労よりも、募る不安の方が、体力を奪っていた。
*
宿に戻ると、リーゼロッテが緊迫した表情で俺を待っていた。
「アキト様、これを」
リーゼロッテが差し出したのは、一枚の紙切れだった。宿の扉の隙間に、無理やり押し込まれていたものだという。俺が市場を捜し回っている間に届けられたのだろう。
「これは、俺が出た後に?」
「はい。私が確認した時には、既にこの状態で挟まっていました。届けた人物の姿は、見ていません」
紙には、見覚えのある紋章が押されていた。バルザスの、あの成金趣味の紋章だ。俺は手が震えるのを感じながら、その文面に目を通した。
「――お前の可愛い獣人の娘は、私が預かった。返してほしくば、明日の夜、私の邸宅まで一人で来い。余計な真似をすれば、その娘の身がどうなるか、想像に難くないだろう」
文面は簡潔だったが、それゆえに、書き手の冷酷さが際立って感じられた。まるで、荷物の受け渡しでも語るような、無感情な文体。ミミの命を、単なる交渉材料としか見ていない証拠だった。
俺は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
頭の中で、様々な感情が渦を巻いていた。怒り、焦り、後悔。ミミを一人で買い出しに行かせたこと、この街の裏に潜む危険を甘く見ていたこと、あらゆる判断の甘さが、今更ながらに悔やまれた。
ミミが攫われる瞬間、どれほど怖い思いをしただろうか。あの小さな体で、見知らぬ男たちに囲まれ、抵抗する術もなく連れ去られていく光景を想像するだけで、腸が煮えくり返るような感覚に襲われた。
「アキト様……」
リーゼロッテの声が、微かに震えていた。この女もまた、ミミのことを大切に思っていたのだろう。その声には、単なる事務的な心配以上のものが滲んでいた。両手を固く握りしめ、いつもの冷静さを保とうと必死に努めているのが、傍目にも分かった。
「私が、もっと注意を払っていれば……」
「あんたのせいじゃねえ。俺が油断した」
俺は静かに、しかし断固とした口調でそう言った。この状況で、互いに責任を擦り付け合うことに、何の意味もない。今すべきことは、ただ一つだ。
俺は懐から、フォルトゥーナで使っていたサイコロを取り出し、指先で強く握りしめた。この小さな道具が、これまでの勝負でどれほど俺を助けてくれたか。そして今、この道具を使って、必ずミミを取り戻してみせる。そんな決意を込めて、俺は掌の中でサイコロを転がした。
俺は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。怒りに任せて動けば、事態を悪化させるだけだ。冷静に、しかし確実に、次の一手を打たなければならない。
「リーゼロッテ」
「はい」
「バルザスの邸宅の見取り図か、内部の情報は手に入るか」
「……フォルトゥーナ時代の伝手を使えば、多少は」
「頼む。今夜中に、できる限りの情報を集めてくれ」
リーゼロッテは頷き、すぐに動き出そうとしたが、扉の前で一度立ち止まった。
「アキト様、一つだけ」
「なんだ」
「私を止めないでいただけますか。今回ばかりは、あなたの言うことでも、私は聞くつもりがありません」
その言葉に、俺は思わず口の端を緩めた。この女がこれほどまでに、はっきりと感情を露わにするのは珍しい。
「止めるつもりはねえよ。あんたの力が必要だ」
リーゼロッテは小さく頷くと、足早に部屋を出ていった。
一人になった部屋で、俺は窓辺に立ち、夜の帳が下りていく街並みを見つめた。
いつもならニヤついているはずの口元が、今は固く引き結ばれている。この感覚を、俺は前世でも味わったことがなかった。純粋な怒り、それも、自分自身にではなく、他者の卑劣さに対する、燃えるような怒り。
前世でも、俺は数え切れないほどの勝負を見てきた。イカサマ師も、卑劣な博打打ちも、嫌というほど目にしてきた。だが、無関係な、それも幼い少女を人質に取るような真似をした人間は、一人もいなかった。それがどれほど博打の世界から見ても、外道の行いであるか。バルザスという男は、その最低限の一線すら踏み越えてきた。
「勝負を汚す奴」
俺は小さく呟いた。バルザスは、正々堂々とした勝負すら受け入れず、無関係な少女を人質に取るという、最も卑劣な手段に出た。これは、俺という博徒の矜持そのものへの、明確な侮辱だった。
(絶対に、許さねえ)
窓の外に浮かぶ二つの月を見上げながら、俺は静かに、しかし確かな決意を固めていた。ミミを助け出す。そして、バルザスという男に、勝負を汚すことがどれほど愚かなことか、骨の髄まで思い知らせてやる。
脳裏に、ミミの笑顔が浮かんだ。奴隷市場で拾った日、菓子を食べて泣いていたあの姿。「ご主人様は命の恩人です」と、無邪気に慕ってくれたあの声。あの子を、絶対に取り戻す。そのためなら、俺はどんな手段でも使う覚悟だった。
俺の目から、いつもの軽薄な笑みが消えていた。この時初めて、俺は本当の意味で「ダークヒーロー」としての顔を見せることになる。だが、それはまだ、この街の誰も知らないことだった。
深夜、リーゼロッテが集めてきた情報を手に、俺たちは静かに、しかし着実に、明日の夜に向けた準備を進めていった。バルザスの邸宅の構造、警備の配置、脱出経路――一つ一つの情報が、明日の勝負の鍵を握っている。
窓の外の月明かりの下、俺は静かに拳を握りしめた。この街に来て出会った、大切な仲間。その一人が、今、危機に瀕している。この事実だけが、俺という博徒の心を、これまでにないほど強く燃え上がらせていた。
リーゼロッテが集めてきた情報によれば、バルザスの邸宅の地下には、何やら大掛かりな施設があるらしいという噂があった。その正体までは、まだ掴めていない。だが、ミミが囚われているとすれば、その地下施設である可能性が高い。
「アキト様、明日の夜、私も同行させてください」
「招待状には、一人で来いと書いてあったぞ」
「表向きは、ということです。裏から回り込む手段を、既に考えております」
リーゼロッテの目には、いつもの冷静さの奥に、確かな覚悟が宿っていた。この女もまた、ミミを見捨てるつもりなど、微塵もないのだろう。
「頼りにしてるぜ」
「当然です。私はあなたの相棒――兼、財布ですから」
その物言いに、俺は思わず小さく笑った。こんな状況でも、軽口を叩ける余裕があるのは、悪いことではない。むしろ、そういう余裕こそが、この先の勝負を乗り切るために必要なものだ。
夜は更けていく。明日の夜、俺たちはバルザスの邸宅へと向かう。そこで待ち受けているものが何であれ、ミミを取り戻すまで、俺は絶対に退かない。
窓の外に浮かぶ二つの月を見つめながら、俺は静かに、しかし確かな覚悟を固めていった。この街で出会った、かけがえのない仲間を守るために。
脳裏に、ミミの無邪気な笑顔が何度も浮かんでは消えた。串焼きを頬張って涙する姿、俺の服の裾を掴んで離さない小さな手、「ご主人様は命の恩人です」と繰り返す純粋な声。あの子が、今どこかで怯えているかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかった。
だが、今は感情に流されている場合ではない。冷静に、着実に、明日の勝負に向けて準備を進める。それが、今の俺にできる最善の道だった。
深夜、リーゼロッテが集めてきた情報を手に、俺たちは静かに、しかし着実に、明日の夜に向けた準備を進めていった。バルザスの邸宅の構造、警備の配置、脱出経路――一つ一つの情報が、明日の勝負の鍵を握っている。この一枚一枚の情報を積み重ねた先に、ミミを取り戻す道筋が見えてくるはずだった。俺は改めて、ミミの無事を祈りながら、静かに夜を過ごした。明日という日が、必ず良い結末を迎えるように、俺はできる限りの手を尽くすつもりだった。この街に来て初めて味わう、本物の危機。だが、恐れはしない。仲間を守るためなら、俺はどんな勝負にも挑む覚悟だった。夜は静かに更けていった。明日、全てが決着する。俺はそう心に誓いながら、静かに目を閉じた。




