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Scarlet  作者: 暁の空
第一章「A fiery day, The beginning」
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 派手で衆目を引きやすい外見とは裏腹に緋毬の生活は規則正しい。遅くても深夜零時になれば電池が切れ、気絶したように眠りに就く。昨夜も例に洩れなかったようだ。米を炊き直しておにぎりをこしらえ、琥太郎が仕事から帰宅するのを待っていた緋毬だったが、気づけばベッドで仰向けになっていた。


 寝起きのせいでぼーっとする頭に手をやって天井を見つめた。クーラーが効いているようで部屋は涼しい。そして、ほんのり右腕が温かった。

 何気なく右に顔を向けた緋毬はぎくりとした。反射的に上体を起こして、平手を振り下ろした。

「何しとんねん。この不法侵入男がっ」

 すぐ近くに琥太郎の顔があった。ばくばくと脈打つ心臓を胸の上から押さえながら、もう一発平手をかました。

 琥太郎はしかめっ面を作り、それからゆっくりと目を開けた。

「痛いねん」

「おー、おー、今日はちゃんと痛いって言えたの」

「なんで叩くんや」

「私のベッドに潜りこむからやろ!」

「ここはオレの部屋や。緋毬の部屋はあっち」

 琥太郎が住んでいる賃貸マンションの間取りは2LDKで、たしかにここは琥太郎の部屋ではあるようだった。もう一室あるが、そちらは空っぽになっている。

「家具があらへん」

「買ってこいや」

 緋毬は唇を結び、あらぬ方向を睨みつけた。ごもっとも過ぎて何も言い返せない。


 琥太郎はむくりと起き上がり、あくびをした。「おにぎり、うまかったで」

「え……? そうか?」

「ところで、どうして髪が赤いんや」

「おにぎりの後かい!」

「似合うとる」

「……ほんまか?」

「ああ、可愛い。キスしてええか?」

「いいわけあるか!」

 かっかっかっと笑い声を立ててベッドから下りた琥太郎の背中を眺めながら、緋毬はげんなりと息をついた。

 ――こいつには照れってもんがないんか。

 なぜこんな色男が振られるのか。胸の内で疑惑が瞬く間に膨らんだ。

「琥太郎、実はDVとかモラハラするんとちゃうやろな」

「なんや、いきなり。せんわ」

 緋毬はベッドの上で腕組みをし、低くうなった。まあ、そうだろうな、と得心していた。緋毬を拉致した連中に、女につまらんことをすな、と言い放った男がプライベートで女につまらないことをしていれば噴飯物だ。


「兄ちゃんもよく振られるしな」

 ぼんやりと宙を見つめ、緋智の顔を思い浮かべた。白に近い金色に脱色されているにもかかわらず、思わず手櫛を通さずにはいられない艶のある長髪と、外国の血など一滴も混じっていないというのにどこか日本人離れした美しい面立ちをしている。

 そんな緋智は会う度に恋人が違っていた。無論、いないことも多かった。決して女にだらしない性格というわけではなく、単純に女のほうから緋智を振っているようだった。余計なことを話さない寡黙な緋智なので、緋毬も詳しい事情を把握していないが、どうやら多忙ゆえに相手をしてやれず、そうこうしているうちに女の我慢が限界を超えるという流れらしい。

 いまいち本気になれない、といつだったか緋智はこぼしていた。

 女に本気になれない男の気持ちはわからないが、惚れた男に構ってもらえなければ、どんなに好きだったとしてもいずれ女の心の堰は切られてしまうだろうことは、恋愛経験が乏しい緋毬にも理解できた。


「兄ちゃん?」

 緋毬の前だというのに平然と服を脱ぎ、着替えを始めた琥太郎が、上半身裸のまま振り返った。傷も絵もない、綺麗な背中だ。

「意外やな」

「なにがや」

「何でもない。私の兄ちゃんも恋愛下手なんや。琥太郎も似たようなもんなんかと思ってな」

「恋愛に上手も下手もあらへんやろ。惚れた、惚れられました。キスします、セックスします。それだけや」

「こんなええ女を抱こうとせん男が口にしていい台詞やないな」

「兄貴ってのは、緋毬に似とるんか」

 緋毬はベッド脇のサイドテーブルの上からスマートフォンを取り、「見るか?」と声を明るくして訊いた。

「見るって、何をや」

「ライブ映像。かっこええで。琥太郎の十倍はええ男や」

「ライブ……?」琥太郎は緋毬の隣に腰を下ろした。

「ジアスターってバンドでギターを弾いてん。見ると会いたくなるからしばらく封印しとったんやけど。あった、あった」


 動画共有サイトにアクセスし、ジアスターの公式チャンネルの動画一覧からワンマンライブの映像をタップした。


「……え」

「たしかに二枚目やな。ギターもうまい――って、なんや。緋毬?」

 琥太郎が彼らしくなく戸惑いの表情を見せたのは、緋毬の目からぽたぽたと涙が落ち始めたからだ。

「兄ちゃん……」

 視界は涙のせいでぼやけ、鼻水が垂れてきた。気づけば緋毬の頭は琥太郎の腕の中に収まっていた。


「どうしたんや」

「左腕……タトゥー……」

 琥太郎は「あ?」と訊き返したきり沈黙した。動画を確認しているのだろう。ステージの上でギターを演奏する緋智の左腕には悪しき呪縛が刻まれているはずだった。緋毬を大阪へ追いやったElSlashのリーダー和希が緋智に命じて彫らせた『ElSlash』の文字だ。それが跡形もなく消えていた。

 消えていたというのは正しくない。塗り替えられていた。

 緋智の左腕に蛇が這っていた。カバーアップタトゥーだ。体をうねらせて腕を下り、左手首にある黒い太陽のマークに噛みついている。

 緋毬にはタトゥーの真意が読み取れた。蛇は緋智自身なのだろう。闇から這い出た先で輝かしい太陽――運命を預けられるメンバーと出会えた。胸の底に沈んでいた罪悪感が少しだけ薄れてくれた。


「いつまで抱きついとんねん!」

 緋毬は琥太郎を突き放し、ティッシュを数枚引き抜いて鼻をかんだ。

「顔を洗って、化粧して、可愛くなったらリビングに来いや」

 朝食の用意をすると言って部屋を出ていこうとする琥太郎に、

「すっぴんも可愛いわ、ボケ!」

 と、叫んでから緋毬は盛大に鼻水をすすった。


 それから洗面台で顔を洗い、琥太郎の部屋に戻って着替えを始めた。一昨日、昨日と同じ服だ。難波の駅近くのコインロッカーに荷物を入れたままなので替えの服がない。ハンドバッグのほうにスマートフォンやら財布やら化粧ポーチを詰めこんであるので化粧はできるが、ベッドにせよ、日用品にせよ、服にせよ、近々買いに出なければならないだろう。


 朝食は白飯と鮭の切り身、わかめの味噌汁だった。緋毬がうまいうまい言いながら平らげる中、琥太郎はスマートフォンをいじっていた。

「カナエと連絡がついたで。四時過ぎには仕事が終わるらしいから、おっさんも呼んで四人で居酒屋にでも行こうや」

「琥太郎は仕事休みなんか」

「ああ、今日はない」

「ところで、カナエって男やんな」

「せやで。なんでや」

「女っぽい名前やな思って。どういう漢字を書くん」

「夢が叶うの叶う一文字で叶や」

「はー、洒落とるの」

「琥太郎のほうが古風でかっこええやろ」

「なんや、悋気かい」

「リンキ?」

「やきもちって意味や。ちっとは国語も勉強しい」

「緋毬は物知りやな」

「へへっ、もっと褒めえ」


 朝食を済ませ、しばらくのんびりと過ごした後で琥太郎と二人でマンションを出た。バイクに乗せてもらい、難波の街を目指した。

 コインロッカーの前に立った緋毬は「高いわっ!」と声を張り上げた。荷物を預けたのは一昨日の午前中だ。すでに四十八時間以上が経過している。追加料金として九百円を要求された。

 身を裂かれるような思いで小銭を投入しながら、ちらりと琥太郎の顔を見た。

「ここはオレが払ったるとか……言わんのかい」

「何でもかんでもおんぶにだっこはあかんで」

「……そうやな」

 琥太郎の優しさにすっかり甘えている自分に気づき、緋毬は己を恥じた。


 一度マンションに荷物を置きに帰り、次いで近くのホームセンターへ向かった。そこでシングルサイズのパイプベッドとマット、掛布団、そして枕を購入した。

「レースの、ひらひらしたのも買おうや」店を出たところで琥太郎が言った。

「カーテンがなかったな。忘れとった」

「ちゃう。下着や」

「は?」

「せっかくエロい体しとんやし、エロい下着を――」

 緋毬は琥太郎の頬に拳を食らわせてから踵を返し、カーテンを選ぶために再び店のドアをくぐった。


 必要最低限の日用品を買い揃え、すべて琥太郎のマンションへ配送してもらうことにした。「色違いのマグカップを買おうや」とか、玩具コーナーでおはじきを見つけて「弾いて遊んだらおもろいで」などと琥太郎はうるさかったが、すべて無視した。

 ――男とデートするって、こんな感じなんやろか。

 レトロな喫茶店で遅めの昼食を取っているとき、緋毬はふと考えた。実の兄が度を越して男前だと、どうしたって寄ってくる男が劣化品に見えてしまう。小学生の頃に初恋を経験している緋毬ではあるが、それだって今にして思えばなぜ好きになったのかはわからない。

「オレの顔に何かついとるか?」

「目と、鼻と、口、それとソースがついてるな」

 琥太郎はかかかと笑った後で、フォークで巻いたナポリタンに噛みついた。そんな琥太郎をまじまじと見つめながら、別に付き合ってもいいかな、と緋毬は思った。


 四時半を過ぎるまで喫茶店で時間を潰し、難波の繁華街にある居酒屋へ移動した。

 和風な店構えで、入口には茜色の暖簾がかかっていた。店員は法被を羽織り、頭に手ぬぐいを巻いていた。威勢のいい掛け声を聞きながら店の奥へ進み、半個室のすだれをくぐると政宗がビールジョッキを傾けていた。

 政宗は緋毬に顔を向けるなり、どっひゃあ、と滑稽に叫んで、ひっくり返らんばかりに上半身を仰け反らせた。

「なんや、その髪は。真っ赤やんけ」

「ええやろ? ボーカルは目立ってなんぼや」緋毬は対面の壁際に座った。

 すると、隣に腰を下ろした琥太郎が緋毬の髪を手に取り、くんくん匂いを嗅いだ。

「何しとんねん!」

「オレ、髪フェチやねん」

「あ?」

 どうや、と政宗が琥太郎に訊いた。それに対して琥太郎は軽く首をひねり、あかん、と返した。

「こんなエロい姉ちゃんでもあかんって、お前、そりゃ重症やで」

「泣きそうやわ」

 顎を撫でながらふっと息を抜く琥太郎の面は、わずかほども泣きそうに見えない。緋毬が不可解さから眉根を寄せたとき、すだれが上がり、男が政宗の横にどかっと腰を落とした。


 緋毬は「あっ……」と声を洩らしつつ男の顔を凝視し、それから隣に顔を向けた。

「同じ顔やんけ!」

「せやから、異母兄弟やって言うたやろ」政宗はおざなりに言って、呼び出しボタンを押した。

 緋毬の斜め向かいの席についたのは、黒のTシャツを着た男で、両手に合計四つのシルバーリングをはめている。叶という人物だろう。双子のように瓜二つとまではいかないものの、顔立ちは琥太郎とそっくりだった。

 同性が羨むであろう長身、筋肉質な体つきも琥太郎と同様だが、全身に纏う空気はまさしく対極的だ。風が凪いだ湖面を思わせる静けさが彼を包んでいる。髪型も琥太郎とは違い、耳にかかる程度の長さの黒髪で、前髪が目を覆い隠している。隙間に覗く切れ長の瞳の奥に、緋毬とはまた別種のふてぶてしさが潜んでいた。


「叶はビールでええか?」政宗が訊いた。

「ああ」

「つまみはどうせ枝豆やろ」

「ああ」

「昨日、なんで電話に出なかったんや。女か?」

「ああ」

 ああ、しか言わない。緋毬の兄も寡黙な男だが、他人を気遣う心がある分だけ少ない言葉にも温かみが内包されているが、叶という男にはそれが感じられなかった。緋毬に一瞥すらくれようとしない叶を前にしているうちに緋毬はむかむかしてきた。

 琥太郎は気にした素振りを見せず、メニューを眺めている。政宗と叶のやり取りは続いた。


「叶、最後にステージに立ったんはいつや」

「忘れた」

「ほんなら最後に女を抱いたんは?」

「先週」

「なんでや。昨日は手を出さんかったんか」

「せやな」

 ほんの一分も経たずに緋毬の苛立ちはピークに達した。


「二言以上しゃべれや!」

 緋毬が巻き舌気味に食ってかかると、叶は前髪の下から睨みを飛ばしてきた。

「……誰や」

「緋毬や」

「琥太郎、女連れで来んな。で、ボーカルはどこや」

「私やっちゅうねん!」

「……あ?」

 叶は政宗に顔を向け、「聞いてへんぞ」と低い声を発した後で、帰る、と一言こぼして席から立ち上がった。


「待てや、こらあ」緋毬は叶の腕をテーブル越しに掴んだ。

「なんやねん、この女」

「この女ちゃうわ。緋毬や。記憶力、虫レベルか」

「バンドは遊びとちゃう」

「は? 私がボーカルやと、なんで遊びになんねん」

 政宗が「まあまあ、落ち着き」と両手を揺らしたが、緋毬は叶を睨み続け、彼の腕に爪を食いこませた。


 琥太郎がメニューに目を落としたまま、

「緋毬の歌を聴いとらんやろ」

 と、言うと叶は席に腰を戻した。緋毬も手を離した。

「音源は?」

 叶が口を開き、ない、と琥太郎が答えた。

「あほらし。それくらい用意してこいや」

 緋毬は、ちっ、と聞こえるように大きく舌打ちをし、琥太郎を押し退けて半個室から出た。すだれを巻いて留めてから大きく息を吸って、


 ゼイニィの『ブラックソルト』のサビを腹から声を出して歌った。


 歌い終えると、店内はしんと静まり返ったが、直後、拍手喝采が起こり、指笛が鳴り響いた。

「ええぞ、姉ちゃん!」

「なんで歌っとんねん。おもろいの」

「赤い髪のお姉ちゃん、もう一曲頼むわ」

 緋毬はどうもどうもと周囲の客に頭を下げた。それから琥太郎に「邪魔や」と言い、彼を奥へ押しやった。


 真正面から叶と向き合い、メンチを切った。

「どうや? 合格か、不合格か」

 叶はじっと緋毬の目を見返し、

「アカペラやから音程が不安定なのは大目に見る。リズム感は悪くない。発声もぼちぼちやな」

「合格なら合格って言えや」

「合格や」

「次はこっちの番や。私の歌に相応しい腕前か試したる。叶、ベースを弾いてみ」

「あ? 持ってきてへんわ」

「あほか。それくらい用意してこいや」

 叶はそれまで睨むように細めていた目をかすかに開いて、くくくと声を洩らし始めた。

「おいおい……叶が笑うとるで……」政宗が目を丸くした。

 琥太郎が「おもろい女やろ?」と言った。


 笑い声とも呼びにくい、肩を震わせるだけの叶の挙動はすぐに止んだ。重苦しい静寂を再び身に纏って、

「緋毬やったか」

「ようやく覚えたの」

「オレの女になれ。そしたらベースを弾いたる」

「はあ?」緋毬は思わず琥太郎のほうを振り返っていた。「大阪の男はこればっかか!」

 政宗が遠慮がちに片手を上げ、「オレは言うてへんで」と口を挟んだ後で、

 ダメや、と琥太郎が叶に言い返した。

「緋毬はオレの女になる予定や」

「予定やろ? なら口説くのは自由やな」

「叶には惚れん」

「別に琥太郎の後でもええ。付き合ってもどうせすぐに別れるやろ。女は抱いてもらえんかったら離れてく生き物やからな」

「それを言われると返す言葉がないわ」


 叶の言葉をいつものように笑い飛ばした琥太郎だったが、

「守れんやろ」

 と、叶が口にした瞬間、半個室の空気が張りつめた。

「……表に出ろや」

「上等だ」

「待て待て待て、ストーップ!」

 一触即発の空気を政宗がおどけた調子で霧散させた。緋毬の胸中に浮遊していた苛立ちもすっかり拭われてしまっている。琥太郎の表情には明らかな不快感と怒りの色が滲んでいた。

 ――なんやねん……琥太郎……お前、いったいどんな秘密を抱えとるんや。

 触れてはいけない何かを感じ取り、緋毬は琥太郎の横顔にただ見入ることしかできなかった。

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