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たった一曲歌っただけでカラオケボックスを後にした緋毬が連行された先は、難波の繁華街の外れにひっそりと建つ古びたビルディングだった。琥太郎はSR400を路上に止め、再び緋毬の手を引いた。
「駐車禁止やろ。切符、切られるで」
「こんな路地まで警察は見廻らん。それがオレの単車だと知らんやつもおらん」
なるほど、と緋毬はうなづいた。盗みを働こうものなら大阪中の悪ガキから指名手配を受けるということだろう。
表の看板から『エスカルゴ』の文字が読み取れた。まさかかたつむりを食べようって腹積もりじゃないだろうなと渋面しつつ、地下へと階段を下りた。
観音開きのガラスドアの向こうに四角いテーブルが並んでいるのが見えた。若い男が椅子に掛け、膝の上でエレキギターを弾いている。強制的に琥太郎と手を繋いだ状態でドアをくぐると、そこは待合室のような空間になっていた。
音楽スタジオだと緋毬は一瞬で理解した。ロビーにバンドマン然とした男たちがたむろしていて、壁にはバンドのフライヤーが張られていたためだ。
琥太郎は緋毬の手を離し、大股でロビーを進んでいく。奥の壁際にカウンターがあり、中年の男が立っていた。鳥の巣を連想させるもじゃもじゃ髪だ。
「おっさん、おった!」
中年男は開口一番、なんやねん、と返してから、
「オレは朝からずっとここにおるわ。って、誰がおっさんや!」
「おっさんのことやない。ボーカルのことや」
「おっさん、おっさん言いなや。これでもまだ三十七――あ? ボーカル?」
琥太郎と中年男の視線が緋毬に突き刺さる。緋毬は目線を揺らして顔を背け、あんましじろじろ見んなや、とつぶやいた。
「借りるで」琥太郎は壁に掛かっていたエレキギターを取り、
「それはレンタルや。一時間二百円――おっと」
カウンターの上に転がっていたドラムスティックを中年男に放った。
「一番ブースが空いとるな。おっさん、ちょっと来てくれ」
「オレは仕事中や。って、金を払わんかい」
「ええから!」
中年男は渋々といった様子でカウンターを離れた。両側にブースが並ぶ通路の手前で振り返った琥太郎から「緋毬、こっちや」と呼ばれ、緋毬も二人に付き従った。
一番と銘打たれているくらいなのでおそらく最も狭いブースなのだろう。ドラムセットが部屋の半分を占めていた。琥太郎は椅子に座るとスマートフォンを操作した。やがてスマートフォンのスピーカーから聞き慣れた曲が流れた。ついさっき緋毬が歌った、ゼイニィの『ブラックソルト』だ。
「何してん」
「少し時間をくれ」
琥太郎は集中するように目を閉じていたかと思えば、ちゃうな、とか、こっちか、などと独り言ちながらエレキギターに触れ始めた。
五分ほど待たされたところで、
「おっさん、ゼイニィのブラックソルト、叩けるか?」
「そういうことは先に訊けや。耳コピしてコードを探してたんやろ? オレが叩けんかったら今から覚えな――あー、はいはい。叩けるで」
琥太郎の真剣な眼差しに気圧されたように中年男は苦笑を返した。それから琥太郎はエレキギターをアンプに、ボーカルマイクをミキサーに繋いだ。
「緋毬、さっきの歌をもっかい聴かせろ。ダンス付きでな」
「はあ?」
「アイドルやない」
ボーカルマイクを押しつけられた。緋毬は目をぱちくりさせ、琥太郎の痺れるような硬い表情にしばし見惚れた。
「間違えとるで。道を」
「何を言うてん――」
おっさん、と琥太郎がドラムセットへ向けて声をかけ、それに応じた中年男がハイハットでカウントを取った。
エレキギターとドラムだけで演奏が始まった。
ったく、しゃあないな、と心でぼやいてボーカルマイクに歌声を乗せた緋毬だったが、一番のサビを歌い終えたところで中年男がスティックを持った両手を下ろし、琥太郎もエレキギターの音量を絞った。
二人とも沈黙したまましばらく緋毬の顔に見入っていた。
「……おっさん」
「なんや」
「約束、守れよ」
「こんなどえらい素材を見つけて来られちゃ、守らんわけにいくかい」
首を傾げるばかりの緋毬を蚊帳の外に置き、二人の会話は続いた。
「緋毬ならカナエも首を縦に振るやろ」
「あいつのことはようわからん。ごっつい気まぐれやし」
「せやけど、耳は確かや。血が騒がんはずがない」
緋毬は段々にむしゃくしゃしてきて、「説明せえや!」とボーカルマイクを通して叫んだ。琥太郎も中年男も耳を塞いで顔をしかめた。
「バンドを組みたかったんや」琥太郎が言った。
「バンド……?」
「やるなら半端にはせん。二年以内に武道館や」
琥太郎は親指で中年男を示して、
「このおっさん、昔はインディーズで名が知れたおっさんやったんや」
「ドラマーや。なんやねん、名が知れたおっさんって」
「おっさん、ちょっと黙っててや。でな、緋毬。もう一人、カナエってのがおる。ベースを弾いてん。二人とも腕は一流や。けど、夢を託すに値するボーカルがおらなバンドは組まん言うねん」
「それが私や言いたいんか。あのな、私はアイドルに――」
「せやから、間違えとる言うたやろ」
「あ?」
「緋毬の歌はアイドル向きやない。ロックや」
琥太郎の左手が緋毬に差し伸べられる。この手を取れ、ということだろう。緋毬が黙っていると中年男がドラムセットから立ち上がり、「あんまり急かすなや」と琥太郎をなだめた。
「事情はよう知らんけど、この子はアイドル志望なんやろ? そんな藪から棒にボーカルやれ言われても――」
「やる」
「せやな。そうなるわな――って、秒で決断かい」
緋毬は、おっさん、と中年男に呼びかけた。
「おっさんちゃうわ。マサムネや」
「私、アイドルになれると思うか?」
緋毬が質問すると、マサムネは黙って顎に触れた。
「本音でええ」
「……どうやろな。アイドルにしてはちーっとばかし背が高いし、体もエロ過ぎや。どっちかと言えば、グラビアアイドルやな」
「ほっとけ!」
「本音を聞かせろ言うたんはそっちやろ」
「でも、私もそう思う」
「ん?」
「どう考えてもアイドルやない」
緋毬は床に腰を落とし、あぐらの姿勢を取った。そして二人に、座れ、と命じた。琥太郎はあぐらをかき、マサムネは正座をした。
「私な、兄ちゃんに恩返しがしたいんや」
マサムネが首をひねる。「兄ちゃん?」
「両親が死んで、メジャーデビューする夢があるのに時間を削って働いて、私を育ててくれた。大成して、兄ちゃんにようやったって褒められたいんや」
「恩返しとちゃうんか。褒められたいって、目的が変わっとるがな」
「別にアイドルにこだわる理由なんてなかった」
「無視すんなや」
「おっさん、うるさいねん!」
「ほな、黙っとくわ」
「琥太郎、おっさん」
「マサムネやって何度言ったら――」
「冗談のつもりで勧誘したんやったら今ここで撤回せえ。本気や言うなら死ぬ気で私を上まで連れてけ。男に二言はないで。どっちや!」
緋毬が啖呵を切ると、マサムネは馬鹿みたいに笑い出した。「琥太郎、とんでもない姉ちゃんを見つけてきたの」
琥太郎は緋毬に顔を近づけ、緋毬の名を呼んだ。
「勘違いすな」
「何がや」
「オレらが緋毬を連れてくんやない。緋毬がオレらをてっぺんまで連れてくんや。オレらは緋毬を支える。最高のバンドにしようや」
「決まりや!」
あぐらを解いて立ち上がり、緋毬は拳を握った。「善は急げやな。そのカナエってのに会いに行こか。それと、ドラムを探さな」
なんでやねん、とマサムネがツッコミを入れた。
「冗談やって」
「ひやひやするわ」
「で、バンド名は?」緋毬が尋ねると、
琥太郎が「緋毬が考えてええ」と答えた。
「私が?」
「緋毬が中心のバンドや。好きにせえ」
「わかった。考えとく」
それからブースを出て、ロビーに戻った。三人でテーブルを囲むと、琥太郎はどこかへ電話をかけ始めた。おそらくカナエという人物にだろう。
ちっ、と琥太郎が舌打ちをした。
「何やってんねん、あいつ」
「琥太郎からの着信やから出んとちゃうか?」マサムネは自分のスマートフォンを操作し、耳に当てた。「あー、繋がらん」
「現場に出とるか。女とどっかにしけこんでるか」
「どっちやろな」
現場って何や、と緋毬は訊いた。
「アシバヤで働いてんねん」
「アシバヤって?」
「建設現場で足場を組むやろ。あれのことや」
「へえ」
「カナエは琥太郎の異母兄弟や」マサムネが言った。
「異母兄弟?」
「そんなことはええから、おっさん、飯でも行こや」
「仕事中やっちゅうねん」
緋毬は宙に視線を浮かせ、
「そういや、おっさん。さっきカウンターのところに立ってたな。ここの店員なんか」
「おっさん、おっさん呼ぶな。マサムネや。伊達政宗と同じ漢字。雇われ店長や」
「店長がさぼっとってええんか」
「お前らのせいやろ!」
巻き舌でツッコミを放つ政宗を見返し、緋毬はおもろいおっさんやなとほくそ笑んだ。
あっ、と琥太郎が声を出した。きょろきょろし、壁掛けの時計に目をやった。時刻は間もなく午後の二時だ。
「今日、仕事やった」
「早番か」
「ああ、三時からや」
「琥太郎は何をしてん」緋毬が尋ねた。
「バーテンや」
すると政宗が嫌らしく唇を曲げて、
「こいつ目当てに通う女が仰山おんねん」
はあ、と呆けて相槌を打ちつつも、だろうな、と思う緋毬だった。
「緋毬、一人でマンションまで帰れるか?」
「帰れるわけあるかい」
「ほんなら、あとで住所をスマホに送っとくわ」
琥太郎はキーホルダーから鍵を一つ外し、緋毬の手のひらに置いた。
「零時までやから、家に着くんは零時半過ぎやな。腹が空いたら自分で何か作りい」
「お前ら同棲しとるんか。琥太郎の新しい女か?」
「その予定やけど、一筋縄ではいかんくてな」
「なんや、それ」
緋毬はぱちぱち瞬きをし、手のひらの上の鍵を見つめていた。ぽつりと「合鍵」とこぼした。
気づけば琥太郎がロビーを出ていこうとしていたので、「待て、待て」と呼び止めた。
「どうしたん」
「私の連絡先、知らんやろ」
「せやったな」
連絡先を交換する緋毬と琥太郎に挟まれて、政宗が「どういうこっちゃ」と肩をすくめた。
「しかし、あいつほんと喧嘩強いのな」
琥太郎がいなくなった後、緋毬は昨日のことを思い出し、政宗に話しかけた。則夫たちに取り囲まれ、車を停車せざるを得なかった入墨の男たちは車内から引きずり出され、近くのコインパーキングまで連れて行かれた。
十数人対四人では多勢に無勢で、さらに見る見るバイクが増えていくものだから入墨の男らはすっかり蒼褪め、分が悪いと踏んだのか、悪態をつけども手を出そうとはしなかった。
そこへ現れたのが琥太郎だった。
――誰も手を出すな。おい、お前ら、女をさらうなんてつまらんことをするの。四対一でええ。かかってこいや。
喧嘩とも殴り合いとも言い難い、一方的な折檻だった。五分とかからなかった。まるで赤子の手をひねるように琥太郎は男たちをねじ伏せた。
「大阪では負けなしの男や」政宗は言った。「せやけど、カナエも同等に強いで。あいつら、何度か喧嘩しよったけど、決着がつかんかった」
「ふうん。猿山の大将ってところか。異母兄弟って言っとったけど、どういうことなん」
「二人の母ちゃんが同じ男に抱かれたってことや」
「それは……まあ、当たり前やろ」
政宗は椅子から立ち、あくびを洩らした。
「詳しいことは琥太郎かカナエから聞きい。オレは仕事に戻るで」
カウンターの前には清算待ちの若い男たちがいた。政宗が対応を始めたので緋毬はロビーを後にした。
スマートフォンを確認すると琥太郎からメッセージが届いていた。マンションの住所と地図情報が添付されていた。音楽スタジオ『エスカルゴ』からは電車で三駅らしかった。
最寄り駅へ向かい、電車に乗った。
昨夜と同じ駅で電車を降り、改札を抜けた。琥太郎を見つけたファミリーレストランの前を通り過ぎてからは記憶にある道だ。途中にスーパーマーケットがあったので立ち寄った。
「おにぎりと……ゆで卵くらいしか作れんで」
吹田市にある親戚の家で居候していたときも、食べるものといえばカップラーメンか、近くのスーパーマーケットの総菜ばかりだった。夕方になったらファミリーレストランに行こうかとも思ったが、店内を回っているうちに思い直した。何も用意されていなければ腹を空かせて帰宅した琥太郎ががっかりするだろうと考えた。
とはいえ、料理は苦手だ。おにぎりの具になりそうなものを適当にかごに放り投げた。
「髪……染め直そうかな」
半年ほど前に茶髪にしたきり、何もしていなかった。金銭的に余裕がなく、美容院にも行っていない。棚から脱色剤を取った緋毬は、色とりどりのヘアーカラーリング剤が並ぶコーナーに目を引かれた。
「良い子ぶるのはもうしまいや」
もう一つ商品を手に取って、会計へ向かった。
それから十分後、琥太郎のマンションに着き、オートロックのドアを通過した。エレベーターに乗り、三階へ上がる。
「……ただいま」
部屋に入るなり緋毬は腕まくりをし、掃除を始めた。掃除機をかけながら、開けられる引き出し、棚はすべて遠慮なく中を確認していったが、他人に見られて恥ずかしいような物品は何も見つからなかった。
――あいつは女に興味があるのか、ないのか、どっちなんや。
首をひねってからキッチンに入り、米を研いだ。目分量で内釜に水を注ぎ、蓋を閉めて炊飯器のボタンを押す。最後に両手を合わせ、ちゃんと炊き上がってや、と心の中で念じた。
緋毬は脱色剤とヘアーカラーリング剤をレジ袋から出し、脱衣所へ向かった。
まず脱色剤で髪を明るくした。サランラップで頭をぐるぐる巻きにし、二時間ほど放置した。ブリーチを繰り返し、緋毬の長い髪が金色になる頃には窓の外にぽっかりと夕陽が浮かんでいた。米はとっくに炊けているが、空腹でなかったので料理は後回しだ。
「次はこっちや」
仕上げとして髪に色を入れ、さらに時間を置いた。
シャワーの温水で髪を洗い流し、脱衣所でドライヤーを使用してからリビングルームに戻ると、姿見の中に真っ赤な髪の女が映っていた。
緋毬は、ひゅー、と口笛を鳴らした。
「せや!」
ガラステーブルの上からスマートフォンを拾い上げ、ソファに尻を落とした。
「赤……英語……レッドはちゃうなあ……クリムゾンも……お? スカーレット。語呂がええやん。んー、実際の色はちょっとオレンジっぽいな。この髪とは違う色やけど、まあええか」
琥太郎らと組み、緋毬がボーカルを務めるバンド名が決まった。
「Scarletで決まりやな」
よっしゃと快哉を上げ、足取り軽くキッチンへ入った緋毬だったが、炊飯器の蓋を開けて渋面した。炊き上がった米はべちゃべちゃだった。




