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昼下がりだというのにパトカーの赤色灯が視覚的にうるさい。たった今、救急車がサイレンを鳴らして走り去った。繁華街から離れた路地裏の一角で緋毬は女性警察官に保護されていた。
「怖かったね。もう大丈夫よ」
「ありがとう……ございます」
緋毬の体は毛布で包まれていた。別に裸に剥かれたわけでもないのだが、女性警察官が肩にかけてくれたものだ。夏に毛布なんて暑いねん、と文句を垂れたいのをぐっと堪えつつ、礼を口にした。
コインパーキングのフェンス近くに立つ緋毬の眼前では、背広を着た刑事と、小柄な少年が話をしている。さらに奥では二十人近い若者たちがかったるそうに煙草を吸い、周囲を警察官が固めていた。
「ノリオ、コタロウはどこや」無精髭を生やした初老の刑事が少年に尋ねた。
少年は、さあ、と肩をすくめた。鳶職人が着用するような灰色の作業服姿だ。服のあちこちにペンキが付着しているので塗装工なのかもしれない。年は十七、八歳程度、緋毬と変わらない年頃に見える。
「とぼけんなや」
「とぼけてないっす」
「ここらの揉め事にあいつが絡んでへんわけあるかい」
「そんなこと言われましても」
さっきから二人は栓のないやり取りを続けている。コタロウというのは、おそらく少年たちの中心に立っていた人物のことだろう。身長が百七十二センチメートルある緋毬が見上げるほどに上背があり、年頃は二十代前半、整髪料で後ろに撫でつけた黒髪を乱しながら入墨の男らを殴っていた――緋毬を拉致した車をバイクで追ってきた男だ。いつの間にか姿が見えなくなっている。
「別にしょっぴこう言うとるんやない」
「ほんまですか、ササカワさん」
どうやら少年の名がノリオで、刑事がササカワというらしい。
「大目に見るんにも限度があるで」刑事は吐息をつき、コインパーキングの奥に視線を向けた。先ほどまで入墨の男たち四人が倒れていた場所だ。生々しい血の跡がアスファルトに残っている。「あれをやったんはコタロウやろ。それともカナエか」
ノリオという少年は、違います、と大阪弁のアクセントで答えた。
「女をさらおうとしてたんでオレらでぼこしました。カナエさんは真面目に仕事中やないっすかね」
すると刑事とノリオは同時に緋毬のほうを振り返った。何だか気まずくなり、緋毬は亀のように首を縮めた。
「うそつけや」
「うそやないです」
刑事は舌打ちをこぼして、
「監視カメラのない駐車場を選びよって」
「あー、言われてみれば、ないっすね」
「ったく、お前らが手を出さんでも警察に引き渡せば――」
「ビビらんでしょ」
刑事の言葉をノリオが遮った。
「あ?」
「ケーサツは何かあってからでないと動かん。せやから、ああいうのが調子に乗るんや。そこの女が被害を訴えたとして、男たちがただのナンパでした言うたら、ササカワさん、逮捕できてました? 拉致監禁? 強姦? オレは頭が悪いからようわからんけど、何年ぶちこめるんです?」
刑事は苦虫を嚙み潰したような顔つきになった。
「難波の街を守ってるんはオレらやないっすか。やくざは面子と金が絡まな何もせんし、ケーサツは頼りない」
「ノリオ、言うようになったな」
「へへ」
「へへ、ちゃうわ。ほんならお前でええ。ちょっと署まで来い」
「ういっす」
ササカワという刑事がノリオをパトカーの後部座席に押しこめた後、緋毬も別のパトカーに乗せられ、近くの警察署へ連れて行かれた。
取調室で事情聴取を受けることを想像していた緋毬だが、案内されたのは広めの会議室だった。二人の女性警察官の一方が緋毬の身を案じる言葉をかけつつ質問をし、もう一方が調書を取っていた。
難波の街を歩いていたら突然車に引きこまれ、拉致された。絶望したが、気づくとさっきの少年たちがバイクで車を取り囲んでいた。入墨の男らを車から引きずり降ろし、近くのコインパーキングで暴行を加えた。やがて誰が通報したのか、数台のパトカーが駆けつけた――これが緋毬が説明したことのすべてだ。
女性警察官の口から「コタロウ」という言葉を飽きるほど聞いた。背が高くて、男前、二十代半ばの男がいたはずだと、幾度となく尋ねられたが、緋毬はすっとぼけた。
やがて事情聴取からは解放されたが、今度は家まで送る送らないで一悶着あった。緋毬が未成年だったためだ。家の連絡先を問われ、緋毬は回答を渋った末に吹田市に住む親族の電話番号を教えた。どうせこの時間なら家人は仕事で出払っているだろうという憶測は図に当たったらしく、連絡がつかなかったようだ。パトカーで送り届けるという申し出に対しては、「大丈夫です。友達を待たせているんで」と嘘をついて断った。未成年で帰る家がないと正直に言えば、また面倒なことになると思った。
警察署を出た後、緋毬は通りの反対側の花壇の縁に腰を据えた。間もなく夕方の時間帯だが季節は夏、まだ空は明るい。
警察署の正面入口をしばらく見張っているとノリオという少年が姿を現した。彼は歩行者信号が青に切り替わるのを待ち、緋毬がいるほうへ通りを渡った。
刑事の目がないことを確認し、緋毬はノリオに駆け寄り、声をかけた。
「なんや、逆ナンか。って、さっきの姉ちゃんやないか」
「……どうも」
ノリオはかっかっかっと陽気に笑い、緋毬の肩を無遠慮に叩いた。
「災難やったな。AVデビューするところやったで」
笑えない冗談に緋毬が苦笑いを返すと、ノリオはきりっと真顔を作った。
「礼には及ばん。当然のことをしたまでや」
礼を言わなければいけない身の上だったことに、そこでようやく気が回り、緋毬は顎を引いた。尋ねたいことは別にあった。
「さっきの……男の人はどこに?」
「ん? あー、コタロウさんのこと?」
緋毬がうなづくと、ノリオは隣に並び、緋毬の肩に腕を回した。おそらく百六十センチメートル程度しかないノリオなので若干のつま先立ちだ。
「なんや、姉ちゃん。コタロウさんに惚れたんか」
「違うわ! ……お礼を」
「みんな、最初はそう言うんや。で、ええ女はコタロウさんかカナエさんが持ってく」
「カナエ?」
「オレにしとき、姉ちゃん。年下の彼氏も悪うないで」
「……ノリオやっけ。何歳なんや」
「十九や」
「年上やんけ!」
「ああっ? その見た目で年下やと? 姉ちゃん、何歳や」
「十八。高三」
「うせやん」
「うそちゃうわ」
ノリオは吹き出して、腹を抱えた。一分ほど笑い転げてから、
「笑かせてもろたわ。おもろい姉ちゃんやな」
「で、そのコタロウって人はどこにおるん」
「コタロウさんなら、いつものファミレスにおるんやないかな。たぶんやけど」
そのファミリーレストランは天王寺区にあるらしかった。難波は大阪市浪速区と中央区にまたがる繁華街で、天王寺区はどちらの区とも隣接している。緋毬はノリオと別れ、最寄り駅へ向かった。
JR関西本線に乗り、天王寺駅で電車を降りた。親戚の家があった吹田市と、アルバイト先の難波周辺以外には土地勘がない緋毬はスマートフォンの位置情報を頼りに件のファミリーレストランを探した。
ほどなくして店を発見した。入口は二階だ。夕焼けが広がる空を横目に見つつ階段を上がった。
ガラスのドアを押し開けると、蒸し暑い外気を一瞬で忘れさせるほどの冷風が吹きつけてきて、思わず身震いを起こした。すぐに店員が寄ってきた。一名様ですかと訊かれたので、待ち合わせですと緋毬は答え、店内に視線を巡らせた。
「いた」
窓際の席でコタロウと思しき男が一人で食事を取っていた。丼を持ち上げ、箸でかきこんでいる。テーブルの上にはビールジョッキが置かれていた。
無言で席に近づいて、対面のソファに腰を下ろした。
「コタロウって名前のくせにでっかい男やな」
開口一番、礼を言わずに茶化したのは緋毬の照れ隠しだ。男に免疫がないわけではないが、これまでの人生で男と接した機会は少ない。あるいは、彼を前にして少々気後れしたせいかもしれない。女性警察官が臆面もなく男前だとか、色男だと口にしていたのもうなづける整った顔立ちだ。
コタロウはぱちっと大きく瞬きをし、箸の動きを止めた。丼をテーブルの上に戻し、片手を上げて店員を呼んだ。
「お姉ちゃん、ちょっとペンを貸してくれるか?」
高校生くらいの女の子の店員は頬を赤らめ、コタロウにボールペンを差し出した。
「それと、この女に注文を訊いたってくれや」コタロウは言いながら、テーブルの端から紙ナプキンを一枚抜き取り、何やら書き始めた。
コタロウの動きが気になって仕方がなかった緋毬はメニューを見ることなく、「同じものを」と店員に告げた。
店員が席を離れると、コタロウは紙ナプキンを緋毬の前に放った。見ると、そこには意外にも綺麗な字で『琥太郎』と書かれていた。
「オレの名前や。小さいやない」
緋毬はぽかんとして琥太郎の顔を見返した。頭いいんだな、というのが抱いた素直な感想だ。緋毬が「コタロウって名前のくせにでっかい男やな」と言ったのは彼の名前の漢字が小太郎だと踏んだからだったが、そんなわかりづらいボケに対し、「どういう意味や」と訊き返すことなく応じてきた。
「あ、ああ。そうか、琥太郎か」
「せや。琥太郎や。ええ名前やろ? 姉ちゃんは?」
「私は……緋毬」
すると琥太郎はもう一枚紙ナプキンを取り、ボールペンと一緒にテーブルの上を滑らせた。漢字を教えろということらしい。
「ふうん。毬って、毛を求めるって書くんか。おもろい漢字やな」
「別におもしろくはないでしょ」
「あ? 緋毬、大阪の人間とちゃうんか」
「なんでや」
「今の返しは普通やったけど、さっきはイントネーションがおかしかった」
どうして大阪弁が基準やねん――緋毬は心の中で言い返しながら、ソファの背にもたれた。
「一昨年の年末に東京からこっちに来た」
「東京もんかい」
「大阪の人間はすぐそれ言うな」
「で、何の用や」
「お礼を言うために決まってるやろ!」
琥太郎は薄く笑って箸を取り、その先端を緋毬の顔に向けた。
「今度は立派な大阪弁や」
屈託のない琥太郎の笑顔が緋毬の嘆息を誘った。会話は噛み合っているようで噛み合っていない。というより、琥太郎のペースだ。
「疲れる男やな」
「あー、よう言われるわ」
食事を再開させた琥太郎の顔を、緋毬は改めてまじまじと見つめた。眉は濃いが、切り揃えているのか形は整っていて、鼻筋が通っている。切れ長の目は黙っていればクールな印象を与えるが、笑った途端に子犬のような無邪気さを見せる。短くはないが長くもない黒髪を整髪料でオールバックにし、軽く真ん中で分けて前髪を額に垂らしていた。返り血が飛んだ白のVネックの上から藍色の七分丈のシャツを羽織っていて、覗く腕は太くて逞しい。
――ええ男と言われれば、まあ、ええ男やな。
やがて店員が料理を運んできた。琥太郎が食べているところを見ていたのでわかっていたことだが、漬け鮪の鉄火丼だ。空腹だった緋毬だが、箸を手に取る前に財布の中をこっそり覗き、それからメニューに手を伸ばした。
「奢ったるから気にせず食い」
「いや、あかんやろ。こっちがお礼する立場なんやし」
「おっぱい大きいわりに小さいことを気にする女やな」
「胸は関係ないやろ!」
琥太郎は、かかか、と愉快そうに笑って、
「ええから腹いっぱい食っとき」
「……いただきます」
朝からフライドポテトしか口にしていなかったため、漬け鮪の味が五臓六腑に染み渡った。思わず、うまあ、と声を洩らすと、琥太郎が顔を斜めにして唇の端を曲げた。
「緋毬はいくつや」
「私か。十八だ」
答えると、琥太郎の眉が歪んだ。ノリオのように「うそやろ」と言う。兄譲りの長身のせいか、あるいは大人びた顔立ちのせいか、緋毬は昔から年相応に見られない。
「ほんまや。正真正銘の高三や。学校には通ってへんけど」
「こんなエロい高校生がおるかい」
「ほっとけ!」
「財布を気にしとったけど、金ないんか」
「……家も、仕事も失くした」
琥太郎は「なんでやねん」と返し、大口を開けて笑った。緋毬は鉄火丼を食べながら、親戚の家を追い出された――もとい、売り言葉に買い言葉で飛び出したことと、アルバイト先の店長が夜逃げをしたらしいことを話した。すると彼の笑い声はさらにうるさく店内に響いた。
「散々やったの。オレがたまたま難波におらんかったら、今頃どっかのマンションに連れこまれて素っ裸や」
「怖いこと言いなや。ほんまに焦ったんやから――って、あのとき何があったん」
「あのとき?」
「バイクで追っかけてきたの、琥太郎やろ?」
「せやな」
「けど、撒かれた」
「撒かれたんとちゃうわ。先回りや」
「どういうことや」
「走りながらノリオに電話して、仲間を集めさせたんや。車の特徴とナンバーを伝えて、囲わせた」
「車がどこへ行くか、ようわかったな」
「わかるわけあるかい。ノリオが指示を出してあちこちに散らばらせたんやろ。緋毬が乗っとった車を止めたんは十七、八台やなかったか? 緋毬のために動いてくれた連中はその五倍はおったで」
思い返せば、たしかにそのとおりだった。現場に集まった男たちは、最終的に三十人を超えていた。
「琥太郎って……何者?」
「悪ガキ共をたばねとるだけの、フリーターやな」
「何歳や」
「先月、二十四になった」
誕生日を迎えた後であれば緋毬とは学年が六つ違う。見た目どおりの年齢だ。
緋毬は漬け鮪を口の中に放り、ビール、と言って顎をしゃくった。
「緋毬、未成年やろ。飲むならオレがおらんところで飲めや。ササカワの親父にパクられる」
「ササカワ……?」
また琥太郎の手がボールペンに伸びる。紙ナプキンに『笹川』、次いで『則夫』と書き記した。
「髭面のおっさんがおらんかったか? 浪速警察署の刑事や。昔から世話になっとってな。あいつに見つかると説教を食うから嫌いやねん。で、こっちは緋毬のために仲間をかき集めてくれた則夫。会うことがあったら礼を言っとき」
そういえば、刑事の名前がササカワだったかと思い出しながら、緋毬は、ちゃうわ、と言い返した。
「私がビール言うたんは、飲酒運転ちゃうかって意味や」
「細かいこと言いなや。緋毬のおっぱいに免じて見逃したってくれや」
「なんで私の胸に免じるねん!」
「DかEはあるな。ほんまに高校生か?」
「うっさい!」
調子が狂う男やな――ため息をついた緋毬だったが、心の中ではすでに決意が固まりつつあった。
――恩は必ず返せ。
緋毬が誰よりも尊敬する兄の緋智から教わったことだ。十八年の人生で恩と感じるほど他人に救われたことはなかった。だが、今回の一件は確かにそれに該当する。だが、食事をご馳走してやれるだけの金銭的余裕はない。そもそも一食や二食で返せる恩ではないだろう。
「よっしゃ、決めた!」
「なんや、どうしたんや」
「お礼したる」
「別にええって」
手をひらひらさせる琥太郎を、緋毬は腕組みをし、顎先を上向けて見返した。
「一晩、好きにしてええ」
「……は?」
「他にできることないし、捨てるには絶好の機会やし」
「気でも狂うたんか。ちなみに捨てるって、何をや」
緋毬がテーブルに両手を突いて立ち上がり、「言わせんな、ボケ」と叫ぶと、琥太郎はそんな彼女を指差して笑い、足をばたつかせた。




