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第一章「A fiery day, the beginning」
二度あることは三度ある。
畳みかける災難に注意せよ。
難波の繁華街は真夏の太陽が照りつける炎天下、避暑を兼ねて立ち寄ったファーストフード店の窓際の席でフライドポテトを摘まんでいた悠木緋毬は危うくスマートフォンを落としそうになった。画面に表示されているのは、牡牛座の『本日の占いの結果』だ。
「冗談やろ……もう沢山やって」
憂鬱な気分になり、スマートフォンをテーブルの上に伏せたときだ。テーブル席の向かいに見知らぬ若い男が足を投げ出して座った。
「お姉ちゃん、何してん」
整髪料で今風にヘアアレンジされた金髪、片耳に偏って悪目立ちする複数のピアス、くちゃくちゃとガムを噛み、いかにも軽薄そうな面に己の外見に自信ありげな薄笑みを広げている。どこかで会っただろうかと記憶を辿るようなことはしない。このようなことは緋毬には日常茶飯事だからだ。
「さっきから見とったけど、一人やろ。遊び行こうや」
緋毬は「あほぬかせ」と悪態をついて返し、小指をハンドバッグの取っ手に引っ掛けて席を立った。ナンパから逃れるため、化粧室に入った。
フライドポテトを食べたせいでべたついた手を洗った。鏡の中では、背丈があり、退学していなければ高校三年の年だとは思えないほど大人びた女が渋面している。あんなんばっかりや。兄ちゃんみたいなええ男はおらんのか――心底げんなりして、胸の下まで伸びた、毛量のある茶髪をかき上げた。
財布を開き、中身を改めた。所持金は三千二百六十二円。預金はあるが、たしか五万円と少しだったはずだ。
これからどうやって生きていこう。
大阪府吹田市に一軒家を構える親戚の家を飛び出したのは今朝のことだった。一昨年まで東京に住んでいた緋毬だが、あることをきっかけに大阪へ移り住んだ。高校へは通わず、居候をさせてもらいつつアルバイトで生計を立てている。
当初はなるべく標準語を話そうと心掛けていたというのに、たった一年半ですっかり大阪に染まってしまった。言葉遣いに関しては、いずれ再起が叶った際に正せばいいだろうと半ばあきらめている。
かつて緋毬は、大手レコード会社が金の卵として温めていた七人組アイドルグループの一員として日夜練習に励んでいた。赤、青、黄、緑、紫、白、黒と個々にイメージカラーが割り振られる中、緋毬の担当は青色だった。
デビューを約束されながらアイドルを辞したのも、生まれ育った東京を離れざるを得なかったのも、どちらも理由は根を同じにしていた。ありていに言ってしまえば、面倒な男に絡まれたからだった。
五親等内にすら収まらない遠い親戚に日々存在を疎まれ、絶えぬ小言を聞き流し、一切食事を提供されず、もっと家賃を払えと要求され、風邪を引けば隔離され、シャワーを浴びるにもタイミングが重ならないように気を遣いながら生活をしてきた。それもこれもすべてアイドルになることを夢見ての忍耐であったが、もう限界だった。
――うるっさいねん。出てけ言うなら出てったるわ!
売り言葉に買い言葉だ。荷物をまとめ、合鍵を廊下に叩きつけて玄関をくぐった次の瞬間には、がちゃん、と鍵を閉められた。
公園の木陰で小一時間ほど現実逃避に浸った後、難波へ移動した。緋毬は半年ほど前から駅近くの居酒屋でアルバイトをしていた。従業員は五人しかおらず、店長以外に二人がシフトに入れば事足りる個人経営の店だ。この日のシフトは休みだったが、家探しをする間、荷物を置かせてもらおうと考えた。
――なんでやねん!
ところが、店にはシャッターが下りていて、さらに張り紙がされていた。汚い字で『誠に勝手ながら閉店させていただきます』と書かれていた。
――勝手過ぎやろ。私の給料どうなんねん。
すぐさま緋毬はアルバイト仲間の一人に電話をかけた。緋毬より六つ年上で、郁美という名の女だ。店が閉店している旨を告げると、さぞ驚くかと思いきや、郁美から返ってきた言葉は「あー、夜逃げやな」と素っ気なかった。
――店長、闇金から金を借りとったたみたいやし。おもろ。
何もおもろくないわと噛みつき、給料の未払いについてはどうするのかと尋ねた。
――うち、先月は一日しか働いてへんし。そういうのって、追っかけても掴まらへんのやろ? ほんならあきらめるわ。
――私は二十日も働いたんやぞ!
言い終わるよりも先に、通話が切れたことを示す電子音が鳴っていた。仕事以外では付き合いがなかったとはいえ、あまりにも薄情な仲間の対応に嘆息が洩れた。
ベッドで目を覚ましてからほんの二時間で、寝る場所も、仕事も失った。悪い夢を見ているようだった。しかも占いによれば、天はまだ足らぬと言わんばかりに追い打ちをかけてくるという。
「ほんま堪忍してや……どうしよう……兄ちゃんに頼ろうか」
緋毬の兄は緋智といい、ひさと、と読む。年齢は三十四、緋毬とは十六も離れている。同じ血を引いているだけあり百八十センチメートルを超える長身で、街ですれ違った女はたいがい振り返るほどに顔立ちは美麗、さらに寡黙で思慮深く、感情に左右されず理屈で己を律することができる、緋毬には過ぎた兄だ。
緋智は『ヒイカ』というステージネームで、東京を拠点に活動するロックバンド『ジアスター』のギターリストを務めている。ジアスターは千人程度のキャパシティーのライブハウスであれば容易く埋められる知名度を持つインディーズバンドだ。
東京を離れることを決めた緋毬のため、大阪に住む親族に頭を下げてくれたのが緋智だった。唯一の肉親である兄との関係はすこぶる良好だ。兄のマンションに住まわせてもらうこともできたが、人気が出始めたバンドマンに女の影ありとでも噂されてはたまらないし、そもそも緋毬が身を隠す決断を下した元凶が緋智がジアスターの前に組んでいたバンドのメンバーだったので、一緒に暮らせば兄に迷惑がかかるのは必至だった。
母は緋毬が幼い頃に病没した。その翌年に父も亡くなり、それからは緋智が当時まだ八歳だった緋毬を世話し、養ってきた。
そんな兄にいつの日か恩返しをする――これが緋毬の夢の実相だ。アイドルに限らずとも、何でもいいから大成し、「兄ちゃんの可愛い妹は、兄ちゃんのおかげでこんなに立派になったで」と言いたい。そして、「緋毬、すごいな」と褒めてもらいたい。
鏡の前でかぶりを振り、両頬を力いっぱい張った。
――私は兄ちゃんに認められたいんや。寄りかかりたいわけとちゃう。
まずは家を探そう。夏なので凍死の心配はないが、野宿は御免だ。かといって漫画喫茶に寝泊まりすれば半月と経たずに所持金は尽きるだろう。しかし、敷金や礼金を用意するほど懐は温かくない。
「せや!」ぱちんと指を鳴らした。
寮付きのアルバイトに応募すれば万事解決だと気づいた。さっそく求人サイトにアクセスしようとハンドバッグの中からスマートフォンを取り出そうとしたが、
「……え?」
ハンドバッグの中に収めたはずのスマートフォンがなかった。否、収めていない。テーブルの上に裏返しにしたまま、置いてきてしまった。
はっとなり、化粧室を飛び出した。畳みかける災難に注意せよ――占いによる忠告が脳裏をよぎった。
先ほどまで緋毬がついていた席は空いていた。突っ伏すようにテーブルに張りついた。ない、ない、ない。私のスマホがどこにもない。そういえばナンパ男の姿が見えないが、まさか、あいつが盗んだのか!
とっ捕まえて警察に突き出してやる――肩を怒らせて振り返ったところで、店員の女性から「あのう」と声をかけられた。
「お探しの物はこちらでしょうか」差し出されたのは緋毬のスマートフォンだった。
「私のや! ありがとう。ほんまありがとう」
ぺこぺこと頭を下げ、重ねて礼を述べてから店を後にした。
緋毬は通りに出ると道端にしゃがみこみ、腹の底から安堵の息を吐いた。家、仕事に次いでスマートフォンまで紛失すればもはや詰みだった。
「ほんまに今日は厄日やな。気をつけよ」
時刻は正午過ぎ、お天道様は真上から照っている。スマートフォンで求人情報をチェックするのは後回しにし、周辺をぶらつくことにした。もしかしたら寮付きのアルバイトの募集チラシが店先に貼られているかもしれない。
緋毬は歩き出して間もなく首をひねった。ところで、住みこみのアルバイトにはどんな仕事があるのだろう。ぱっと思いつくのは旅館やホテルのスタッフ、あるいは工場勤務だが、いずれにせよ街中を彷徨っていて見つかるものではなさそうだ。
やはりどこか店に入って求人サイトで探したほうが得策か。そんなことを考えているうちに片側一車線の道路に突き当たった。近くにカフェはないだろうか。右へ行くか左へ行くか迷った末に左へ進路を取った。
正面から若い女の集団がこちらへ歩いてくるのが見えた。狭い歩道なので緋毬は車道に出てすれ違おうとした――そのときだった。
すぐ近くでブレーキ音を聞いた。背後から手が伸びてきて緋毬の口を塞いだ。太い腕が腰に巻きつき、体を後方へ引かれた。目の前で車のドアが閉められていく。隙間に若い女らの呆け面が覗けた。
「んーっ、んーっ!」
車は走り出した。自由が利くのは目線だけだ。車内には数人の男がいた。八人乗りの乗用車だろう。窓ガラスにはスモークが張られている。
――うせやん。真っ昼間やぞ!
緋毬は一瞬で事態を把握した。拉致されたのだ。洒落になっていない。口許にまとわりつく手に思いきり噛みついた。
「痛っえな、このアマ!」
容赦ない力で頬を打たれた。シートが倒された後部座席に横向きに転がった隙に腕を取られ、背後に回された。手首に何かを嵌められた。冷たく、そして硬い。おそらく手錠だろう。猿ぐつわまで噛まされ、声を出すこともできなくなった。
――二度あることは三度あるって……三度目が重すぎるやろ!
車内に視線を巡らせた。運転席に一人、助手席に一人、後部座席に二人、全員が二十代前半の男たちだ。最も近くにいる男の腕には入墨が彫られている。
入墨の男が緋毬の髪を掴み、無理やり顔を起こさせた。
「オレの顔、覚えとるか?」
緋毬は頬と頭皮の痛みに耐えつつ、男の顔を見返した。見覚えがあるかと問われれば、ない、としか答えられない。
「ヤスさんが言ってたとおり、上物っすね」猿みたいな顔の男が助手席から振り返り、いかにも小悪党といった笑みを浮かべた。
「せやろ? たっぷり楽しんだ後は一儲けや」
「動画なんてどこで売るんすか。足、つきません?」
「そこらへんのガキに十万で売り捌いたらええねん」
「カツアゲやないすか」
「こんなええ女の裸やぞ。オレやったら喜んで買うわ」
冗談じゃない、と緋毬は思った。まずい、まずい、まずい、と頭の中で自分の声がこだまする。このままでは強姦されるだけでは済まず、デジタルタトゥーまで背負わされることは明白だ。
「んーっ! んーっ!」
猿ぐつわのせいで喋ることはできない。入墨の男が「なんや」とほくそ笑んだ。
「でかい声を出しても外には聞こえへんぞ」
たしかに車内には爆音で音楽が流されているため、緋毬が叫んだところで声は外まで届かないだろう。聞こえたとて車は走行中だ。怪しむ者がいても怪しんでいるうちに車は視界から消えていく。
「大人しくしとけや」
それでも緋毬が「んーっ、んーっ」と声を発し続けていると、入墨の男は気怠そうに「なんやねん」とぼやいて猿ぐつわを外した。
「……お前、誰や」
「ほんま覚えてへんのか」
「どっかで会うたか? なんで私がこんな目に遭わなあかんねん」
「先週、梅田で話した」
「梅田……?」
記憶を探っていると、猿顔の男が助手席から顔を振り向けた。「ヤスさんが飲み行こうやって声かけたのに断ったんやろ? 素直になっとけばこんなことにならんかったのに」
「はあ?」
――振られた腹いせか。そんなことで私はこれから強姦されるんか!
「ヤスさん、オレもいいっすよね」
「お前は最後だ」
「へへ、最後でも十分っすよ。こんなええ女を抱けるかと思うと、ああっ、あかん」
「もう勃っとるんか。このどあほう」
ふざけんなっ、と緋毬が叫ぼうとしたときだ。
「おい」
と、車を運転する長髪の男が低い声で後部座席に呼びかけた。
「どうした」
「あのバイク、さっきからずっとついてきとる」
「あ?」
入墨の男がリアガラスを振り返った。緋毬も同様に顔を向けると、この車のすぐ後ろを一台のバイクが走っていた。
ボディは漆黒、クラシックタイプの中型自動二輪車だ。運転しているのは二十代前半か、後半程度の男だろう。ヘルメットを装着しておらず、風に黒髪をなびかせている。耳にイヤホンをつけているのが見えた。
「撒け」
「わかっとるわ」
入墨の男は緋毬に「お前の連れか」と訊いた。緋毬が無言で首を傾げたとき、がんっ、と金属音が響いた。
バイクに乗った男が並走し、左足で後部座席のドアを蹴っていた。何か怒鳴っているようだが、車内の音楽のせいで聞こえない。
「当てろ」
入墨の男の一声で車は右へ揺れた。緋毬は「あっ」と声を上げた。バイクの男は車の動きを予測していたのか、寸でのところで衝突を回避したが、一時バランスを崩したことで減速した。
――ああっ、誰か知らんけど、唯一の希望が遠ざかってく。
緋毬が乗った車は赤信号を無視し、交差点を左に折れた。そのまま凄まじいスピードで道路を進む。リアガラスの向こうを懇願するように見つめていた緋毬の視界にさっきのバイクは映らない。
――終わった。
がっくりと項垂れた次の瞬間、
「なんやねん、こいつら!」
運転席から悲鳴に近い声が上がった。はっとして顔を起こした緋毬は目を剥いた。無数のバイクが車を取り巻いていた。前にも、後ろにも、左右にも――数えるのも馬鹿らしいほどの台数だった。




