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水音が森に響く。
森の滝に、弧乃咲は居た。滝の水が溜まった泉の中心、その水面ぎりぎりに浮き胡坐を掻いて。
目を閉じて、耳からの情報に集中する。
気を抜けば浄化されてしまうだろう。
姿勢はぴんと真直ぐに。深く呼吸をする。
どれほどの時間が流れたのだろう。
ぴちゃんと、水が撥ねる音がした。
紅が、泉に入ったのだ。
見える事はないけれど、この森の生者は彼女だけ。
泉を進む音が始まる。弧乃咲に、近付いてくる。
儀式の、仕上げに入るのだ。
後ろで、音が止んだ。
右肩に、細い物が二本触れる。
細い、彼女の指。
するりと右肩を指が滑った。
弧乃咲は身動ぎ一つ取らない。唯黙って受け入れる。
「森へ、」
紅の声が鼓膜を揺らす。
何時も通り、それ以上に静かな声だった。
「森へ」
もう一度、彼女が繰り返した。
すっと、実体の無い筈の身体に紅が入り込む。
森全体に紅が広がった。
弧乃咲は、身体中の息を全て吐き出す。
紅に、意識を向ける。
動作、息遣い、声。そのどれもが明瞭に感じられた。
「意識を」
――預けなさい。
何処迄も、透明な声だった。彼女の全てが、透き通っていて。
さわさわと、森が揺れる。
意識が、森に溶けていく。
紅の感覚が伝わってきた。
閉じられた瞼の裏に、森が映る。
揺れる木、
流れる水、
澄んだ泉、
流れる滝、
これが、森。
これが、死の森。
これが、
――紅の見る景色。
ああ、怖い。
生が、近くなる。
死が、其処に来ている。
生が、死が、紅が――弧乃咲を見ていた。
滝の音だけが、響く。
肩に触れていた指が、頬に移った。撫でる様に、やわく。
紅が前に回るのが分かった。
瞼をなぞられて、ゆっくりと開く。
目が合った。
――血色が、見据える。
はっきりと、視線が絡む。
紅の両手が弧乃咲に伸びる。頬を包む様に触れられた。
温度の無い手。冷え切った、氷の様な水の様な森の手。
紅が顔を持ち上げた。
彼女が、静かに口を開く。
「私は、貴方を――」
実感した。
死と生の境界に、これから触れるのだと。
実態が在る分、紅の方が危険な行為。掴みやすいから、連れ去られやすい。
「――受け入れましょう」
繋ぐんだ。
この森を――介して。
水が撥ねた。
弧乃咲の身体が、紅の身体が、泉に沈む。腰まで浸かったところで、木々がざわつく。
水が冷たく感じた。
紅の感覚か、弧乃咲の感覚か。
これが――森の力。
冷たい息が、弧乃咲の髪を揺らした。
風が、黒髪を靡かせる。
弧乃咲は片手を伸ばす。
黒髪を、彼女の耳に掛けた。
月明りが彼女をを照らし出す。
血色が、鮮やかな紅へと変化を遂げた。
死が、生が、彼女に纏わりつく。
「貴方に、」
――森の御加護を。
森が、弧乃咲を包んだ。
泉に立つ巫女と霊体のモノ。
額同士を合わせ、紅はその瞳を隠す。
弧乃咲もまた、ゆっくりと瞼を下ろした。
滝の音だけが、森に響いていた。




