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ざああ、と滝が立てる水音が紅の耳に届いた。
沈んでいた腕を、持ち上げる。
ぱしゃんと、泉に波紋が広がった。
滝から少し離れたところの、もう一つの泉。滝の水が地下を経由して出来た、少し小さい泉。
そこで紅は、禊をしていた。
この森で暮らし始めてから、毎日する大切な事。何時の間にか、習慣化していた。
上を向くと、淡く光った月と目が合った。遮る物は無い。森の水辺は、周囲から木々が減っているから。
此処から見る空が、紅は嫌いではなかった。
湿って冷たい髪が肌に張り付く。
少し邪魔に感じた。
雫が滴った。
ほうと息を吐く。
冷たい筈なのに嫌と感じる事は無い。
唯々心地いい。
ふるりと躰が震えた。
そろそろ、出た方が良いのだろう。
冷やし過ぎは、あまり良くない。
けれど、
(もう、少しだけ・・・)
何度目かの言葉を浮かべ、水中に肉体を沈めた。
泉の中央へ、そっと足を進める。
黒髪が、水面に広がる。
あまり、中央へ行く事は無かった。滝程じゃないけれど、此処も充分深いから。
紅が溺れる事は無いだろうけれど。
一度、弧乃咲が叱ってきた事があったから。
今日くらいは、許してくれるだろう。
許しを得る必要が、あるのかは分からないが。
澄んだ水は、凄く綺麗で。
両手で掬い、空に向ける。
ゆっくりと、皿の形を崩した。
雫が、零れ落ちる。月明りを受けて、輝いた。
腕を、冷たい物が伝っていく。
そっと、紅はその血色の瞳を隠した。
今はただ、この場に居たかった。
水が撥ねる音がする。
弧乃咲は木の枝に座り、幹に背を預けていた。
幾ら実体が無くとも、地面にそのまま座るのは抵抗があったから。
かといって、禊について行く気も無い。
紅は年頃の娘なのである。たとえ本人にその自覚が無くとも。裸を見られたところで何も思わなくとも。
する事も無い弧乃咲は、紅の禊が終わるのを待っていた。
何時もよりも長いそれに、溜息を吐いた。
分かっていた事だ。紅にはこの森が必要で。この森にもまた、紅が必要である。
それを弧乃咲は勿論、紅も理解していた。
だからこそ、紅が森を出ると判断を下した事に、弧乃咲は驚いた。
自分は、
――自分は、どうしよう。
紅は、森を出る。
では、弧乃咲は?
紅の居ないこの森で過ごす?
(僕は・・・)
「お待たせ致しました」
木の下から声がした。
「っ、紅か・・・。終わったの?」
ふわりと木から降りる。
ふわふわと浮くこの体は、何時まで経っても慣れない。
「はい。遅くなりました」
いつも通りの無表情。ただ、その黒髪は纏められておらず、服だって何時もの着物ではなかった。通常白である筈の白衣は、黒で。下の緋袴は通常の赤。
濡れているからか更に艶を帯びた黒髪からは、ぽたりぽたりと雫が垂れている。
見慣れた、禊後の紅の姿。
「髪、まだ濡れてんじゃん」
「ああ、手拭を忘れてしまって」
着物で拭く訳にもいきませんからと、紅は言った。
「一回家戻る?」
「そうしようかと」
頷いた彼女は歩き出した。弧乃咲も、後に続く。
「暗いねえ。転ばないように気を付けなよ」
何時の間にか、真暗だ。
それに、着物を持っているのだから足元が見にくいだろう。
「はい」
――弧乃咲さんも。
変わらない無表情。紅は腹立つくらいに何時も通りだった。
霊体である自分に言う事ではない気もするけれど。弧乃咲は小さく笑みを零した。
「彼奴。森出れた?」
話題を振られた。
――彼奴、コハヤの事。
「無事に」
「そう。怯えてた~?」
「一度、立ち止まったそうです」
何か考えていたようでと紅は言った。
考え事ねえと弧乃咲が漏らす。
「行きはよいよい、帰りは怖い。ってやつ~?」
楽しげな声。きっと揶揄い交じりに笑っているのだろう。
「意味が違うのでは」
童歌だったか。
「行きは楽しくて、帰りは怖いんでしょ?何がかは知らんけど」
「確か――怖い、というのは疲れを指す言葉だったかと」
「え、今と違うんだが。はっ、これがジェネレーションギャップ・・・!」
「ジェネレーションギャップ・・・?」
聞き慣れない言葉。多分、異国で使われている物。
一体、何処から仕入れているのだろう。何時も森に、紅の側に居るというのに。
禊の時、だろうか。それとも、その後の紅が御役目を果たしている時か。
なんとなく、聞いても答えない気がした。




