2
――開けた場所に出た。
風が止んでから、どれだけ進んだのだろうか。長い間歩いたような気もするし、少ししか歩いていない気もする。
正しいのは、きっと少し。
ざああ、と水が撥ねる音がした。否、ずっとしていた。気付いたのが今だっただけ。
顔を上げると――視線を奪われた。
彼女は岩に腰掛け、何処かを見ていた。具体的な大きさは分からないけれど、座れる程度に大きいのは確か。
何にも染まらぬ黒の髪に、装飾の付いた――棒、だろうか。それを挿している。装飾は黒と、赤と、透明な球体の石。宝石、だろうか。
透明な物は、硝子?
そして――彼女の、その端正な顔立ちに息を呑んだ。
雪の様に――否、それよりも白いだろう真白の肌。
まるで、人形の様な――。作り物の様に整った、端正な顔立ち。
赤い瞳は変わらず何処か遠くを見つめている。
彼女は見慣れぬ服に身を包んでいた。確かあれはキモノ――着物。全体は黒で首元・・・襟、でいいのだろうか。そこに赤が使われていて、見慣れた服装ならばスカートに当たる部分。そこに、霧のような赤い模様が入っていた。
自分は正しい物を知らないけれど、似合っていると感じた。
彼女の全てが、何処か浮世離れしていて。この世界から浮いている――そんな錯覚を覚えた。
赤が、此方を向いた。
「あ・・・」
意味の無い声が零れ出る。何度も零れるが、言葉になる事は無い。
「き、みは」
如何にか形になった言葉は拙くて、単調で。在り来たりな物だった。
「貴方でしたか」
初めて聞いた彼女の声は、何処迄も静かな物だった。
抑揚も、感情も無い。静かな。
「僕を」
――知っているの。
身体が強張る。
「さあ」
――定義に寄ります。ゆるりと目を伏せた。
定義――何処迄を、何処からを知っていると称すのか。
「個人について」
出た声は硬かった。
なら、と彼女は口を開く。
「知りません」
あからさまに、強張りが緩む。
「私が知るのは、この森に入ってからの貴方だけ」
ふ、と彼女の顔が此方を向く。
――貴方は。
「お戻りになる気は、無いのですか」
無感情な声だった。抑揚の無い声。
本当に、何処迄も静かで。
まるで――
まるで、深い水に沈んでいく様な。
抵抗する間も無く、身体に沁み込んでいく感覚。
怖いとも、心地いいとも思えた。
不思議な人だと思った。
「貴方も、不思議な方だと」
――思いますと、抑揚の無い声で言った。
声に出ていたのだろうか。
嫌な癖だと思う。思考を知られるというのは、落ち着かないから。
なんと返せばいいか分からなくて、沈黙が流れる。
その間にも、水音は聞こえていた。
出所は――また、目を開いた。
「滝・・・」
ゆっくりと、滝に近寄る。
無意識に、口から零れた。
音の正体はこれだったのか。
それが切っ掛けなのか、視界が広がった。
彼女の座る岩は、滝の側に在る物で。
何故、岩に座っているのだろう。何故、この森に居るのだろう。
何処から、来たのだろう。
不思議と、この森に居ない彼女を想像出来なかった。
「あ、と・・・」
彼女は黙って聞く体制を取る。
「髪」
勢いよく口から出た。
「綺麗な色です、ね」
「有難うございます」
脈略の無い突然の話題に、彼女は静かに答えてくれた。
戸惑ったのだろうか。表情は変わっていないが。
「すみません。あの、・・・見慣れなくて」
黒の様で、でも普通の黒ではない。初めて見る色。
「濡羽色、と」
「ぬればいろ」
濡羽色――異国で、濡れた鴉の羽の様な艶のある色を指す言葉・・・だったか。
また沈黙が流れる。
それを破ったのは――彼女だった。
「御名前を、伺っても」
丁寧な人だと、今更ながらに思った。
「コハヤ、です。コハヤ・シアマネ」
確かめる様に、届くように口にする。出来る限り、はっきりと。
「コハヤ、様」
――私は、
復唱した後、彼女は手を揃えた。




