13 帰還
頬の中に隠しておいたお菓子を食べながら、ドリムは通風孔の狭い穴をてくてくと歩きました。人間にとっては狭い通路ですが、ドリムにとっては馬車道のように広い道でした。通風孔はドリムがいた大きな建物の、色々な部屋につながっていたので、ドリムは色々な部屋を覗きました。ほとんどは天井から見降ろすことになりました。ほとんどの人間はベッドに寝ていました。
たくさんの部屋に、ただ寝ている人間がたくさんいる。ドリムにはそう見えました。寝ている人間が、全員病気か怪我をしているということまでは、わかりませんでした。ドリムがいる場所を、人間たちが病院と呼んでいることをドリムは知りました。
ドリムは、病院以外に大きな建物を知りませんでした。ドリムには、人間はただ寝ているだけの動物に見えました。
ドリムはフィリップのところに戻るつもりでした。フィリップと約束したのです。
フィリップの中から、病気を追いだすと約束したのです。
フィリップを、自分の部屋に戻れるようにすると約束したのです。
フィリップと、ずっと一緒にいると約束したのです。
一つ目と二つ目は、フィリップが誰かにお願いしたのを、ドリムがお願いされたと信じただけでしたが、ドリムは約束したと思っていました。
とぼとぼと歩いているうちに、フィリップのいる部屋を見降ろす穴にたどり着きました。
フィリップはベッドに座っていました。他の人間と話をしていました。ドリムは、フィリップが一人になるのを待ちました。待っているうちに、話が聞こえてきました。
「手術は三日後に決まったそうよ」
フィリップに言ったのは、大きな人間でした。高い声をしたひょろひょろとした人間で、フィリップの知り合いのようでした。
「手術は嫌だな」
「でも、手術をしないと、元気になれないのよ。外に出て遊べるようになりたいでしょ」
「このままじゃ駄目なの? ぼく、ずっとこのままでもいいよ」
「フィリップ、今のままでも、決して長くは生きられないのよ」
フィリップともう一人の人間は、お互いの顔を見たまま気まずそうに黙ってしまいました。
ゆっくりと、大きな人間が言いました。
「また、お医者さんと話してみるといいわ」
フィリップは答えず、首を振りました。話しをしたくないのでしょうか。大きな人間は出ていきました。
ドリムは、ほかに誰もいないことを十分に確認してから、通風孔から飛び降りました。うまい具合に、フィリップの頭の上に落ちました。
「わぁっ……」
「すいません、驚かしましたね」
隠れるつもりも驚かすつもりもなかったドリムは、フィリップの頭から飛び降りました。
「ドリムなの?」
「見ればわかるじゃないですか。まあ、人間にはネズミの見わけは難しいかもしれませんね。ワタシはこの鼻の形がどくとくなので、慣れればすぐ見分けられますよ」
「よかった。心配していたんだよ」
ドリムは少し考えました。どうしてフィリップが心配したのか、よくわかりませんでした。少し考えて、わかったような気がしました。
「ずっと一緒にいるって言いましたからね。でも、フィリップが寝ている間に出かけただけだから、そんなに長い間じゃないでしょう?」
ドリムはフィリップの部屋の中を見回しました。
「うん……そうだね。でも、心配したんだ。ひょっとしたら、ただの夢だったのかもしれないって。話ができるネズミなんて、ほかにいないから……何を探しているの?」
「あちこち歩いて汚れたので、体を洗う水がありませんか?」
「ネズミが汚いかもって言ったこと、気にしているの?」
「気にはしていませんよ。でも、今はあまりきれいじゃありませんからね」
フィリップの枕元に、コップに注がれた水がありました。ドリムはフィリップの体を上ってコップにたどり着きました。
「あっ、ぼくがやる」
「ありがとうございます」
食事用のトレーの上で、ドリムの頭にフィリップが水をかけました。ドリムは水浴びをして、体を洗いました。思えば、体をきちんと洗ったのはこれが初めてかもしれません。ネズミを汚いと思う人間がいても、仕方ないのかもしれません。
「ところで、どこに行っていたの?」
「お医者さんのところです。フィリップの中から病気を追いだす方法を聞こうと思って」
「大丈夫だったの?」
「見ての通りです」
ドリムは、水が滴ってほっそりした体でフィリップに言いました。フィリップがタオルをくれました。
「話は聞けた?」
ドリムは体を拭きながら答えました。
「話は聞けましたが、別の人にも聞きに行かないといけないみたいですね」
「誰?」
「神様って、どこにいるんですか?」
フィリップの目から、涙がこぼれました。
「目から何か出ていますよ」
「ぼくの病気、神様にしか治せないの?」
ドリムはタオルで体を拭いていました。フィリップが目をこすります。コップを持ったままでした。コップが傾いて、ドリムの頭にかかりました。フィリップは気づきませんでした。ドリムは、せっかく拭いた体がまた濡れましたが、怒る気にはなりませんでした。
「病気を体から追いだすには、お医者さんじゃ駄目みたいですよ」
ドリムは聞いたままを教えました。その言葉がどんなことを意味しているのかは、解っていませんでした。
「でも、手術するんだよ」
「手術をすれば良くなるかもしれないし、ならないかもしれないみたいです。お医者さんが言っていました」
ドリムの言ったことは、正確ではありませんでした。手術が上手く行けば、フィリップは元気になるとお医者さんは言いました。ドリムは、ドリムにわかることしか伝えることができませんでした。
「ぼく、手術が怖いんだ」
フィリップが顔から手を放しました。顔が濡れていました。ドリムは、自分の体を拭いたタオルをフィリップに手渡しました。
「ちょうどいいじゃないですか。ぼくが神様にちょっと頼んできますから、手術をしないで待っていてください」
「ドリム、神様がどこにいるのか知っているの?」
「いいえ。でも、フィリップは知りませんか? だって、フィリップは部屋で神様を呼んでいたじゃないですか」
ドリムからタオルを受けとり、フィリップはネズミの体を拭いたタオルで顔を拭きました。
「ううん。知らない。でも……きっととっても高いところだよ」
「塔の上ですか?」
「もっとずっと高いところ」
「どうやっていけばいいんです?」
「ドリム、神様のところに行くの?」
「ええ。直接話をしてきます」
「どうして?」
「フィリップの中から、病気を追いだすためですよ。だって、そうお願いされましたから」
フィリップは黙ってベッドに横になりました。ドリムに向かって手を伸ばしました。人間の手につかまれるのは嫌でしたが、ドリムはフィリップの手に乗りました。フィリップは、ドリムが嫌がることはしないと思ったのです。理由もなく、そう感じていました。
ドリムはフィリップの隣でくつろぎました。
フィリップはベッドに横になり、天井を見つめていました。
ドリムは眠くなりました。
フィリップは言いました。
「ぼく、手術を受ける」
ドリムは驚きました。
「どうしたんです? 手術を受けても、良くならないかもしれないんですよ」
「でも、手術をすれば、良くなるかもしれないんでしょ」
「ぼくが神様にお願いしてくれば、手術しなくても良くなるかもしれないんですよ」
「ドリムが神様のところに行ったら、ドリムはぼくのそばに居なくなるだよね」
「そうですね。でも、帰ってこられますよ」
「ドリム、神様はたぶん、生きたままじゃ会えないんだよ」
フィリップはまじめに言っているようでした。ドリムは少し考えました。
生きたまま会いに行けないということは、会いに行ったら死んでしまうかもしれません。魔法使いに作られたドリムは、魂がありません。死ぬことは、怖くありませんでした。でも、死んだらフィリップのそばに居られなくなります。フィリップのお願いを二つ叶える代わりに、一つ約束を破ることになります。
「本当ですか?」
「間違いない……と思う」
フィリップが手術をして成功すれば、ドリムは一つも約束を破らなくてすみます。ドリムはフィリップを見ました。フィリップはなぜかとても心配そうにしていました。
「では、ぼくは何をしていたらいいんですか?」
「一緒にいてよ。ぼくと一緒にいて。それだけでいいから」
「……フィリップと一緒にいて、何をしていたらいいんですか?」
「色々あるよ。お昼寝とか、しり取りとか、ゲームもあるよ」
ドリムは自分の顔を撫でました。考えていたのです。解ったのは、フィリップはドリムに居てほしいということでした。
「じゃあ、お昼寝から始めますか」
フィリップは嬉しそうに、自分の枕をドリムのベッドにしました。




