第8話 小さな習慣
渓谷沿いの村を出て、二人はしばらく穏やかな旅路を歩いていた。事件も、噂も、追ってくる者もない、ただの移動の日々。
「アルヴィンさん、朝ごはん、パンだけですか」
「それで十分だろう」
「せめて何か一品……あ、この辺、木苺が生ってます」
道端の茂みから木苺を摘み取って、ノアが小さな器いっぱいに集めてくる。半分をアルヴィンに差し出し、残りを自分の分として口に運んだ。
「甘い」
「そうか」
「そうか、じゃなくて。師匠も食べてください」
「師匠と呼ぶな」
「アルヴィンさんも食べてください」
言い直されて、アルヴィンは仕方なく一粒口に含んだ。ほのかな甘みが広がる。悪くない、とは思ったが、それを言葉にするのは、まだ少し照れくさかった。
「……美味い」
「でしょう?」
ノアが得意げに笑う。この数週間で、こういうやり取りにも、ずいぶん慣れてきた自分に、アルヴィンは内心少し驚いていた
※
昼過ぎ、川辺で休憩を取っていると、ノアが唐突に切り出した。
「アルヴィンさんって、昔からそんな感じだったんですか」
「そんな感じ、とは」
「人と話すの、苦手な感じ。今日みたいに、木苺一つ食べるのにも一言多い感じ」
「……余計なお世話だ」
「昔からだったんですか」
食い下がる問いに、アルヴィンは少し考えてから、ぽつりと答えた。
「……昔は、もう少しましだった」
「へえ」
「隣に、口の回るやつがいたからな。何も考えなくても、勝手に会話が成立した」
言った後で、少し失言だったかと思ったが、ノアはそれ以上深掘りせず、ただ「そうなんですね」とだけ言って、川面に目を戻した。踏み込みすぎない、その距離感が、今のアルヴィンには救いだった。
「わたしも、昔は違ったかもしれません」
「……そうか」
「今度はわたしの番ですね。今じゃない、って言っておきます」
からかうような口調に、アルヴィンは思わず小さく息を漏らした。笑ったつもりはなかったが、それに近い何かだった。
「……好きにしろ」
三度目の「好きにしろ」に、ノアはくすくすと笑った。
※
夕暮れ、野営の準備をしながら、ノアが焚き火の起こし方をアルヴィンに教わっていた。
「こう……ですか?」
「もう少し薪の間隔を開けろ。詰めすぎると、空気が通らない」
「あ、本当だ。よく燃える」
小さな成功に、ノアが満足げに頷く。アルヴィンはその様子を横目に見ながら、荷物の中から地図を広げた。
「次はどこへ?」
「北にある、大きな図書館都市を目指す。この古書の続きが、そこにあるかもしれない」
「遠いですか」
「十日ほどだ」
「じゃあ、あと十日はこの生活が続くんですね」
ノアの声に、不満そうな響きはなかった。むしろ、どこか楽しげでさえあった。
「悪くないな、って思ってます」
「……そうか」
アルヴィンは短くそう返しながら、地図を畳んだ。
誰かと共に旅をする日々が、こんなにも静かで、それでいて悪くないものだとは、思っていなかった。もう二度と、こんな時間は訪れないと思っていたのに。
焚き火の向こうで、ノアが小さくあくびをする。その何気ない仕草を見つめながら、アルヴィンは、自分の中に芽生え始めた小さな変化に、まだ名前をつけられずにいた。




