第7話 断片の理論
影狼との一件から数日、二人は静かな渓谷沿いの村に腰を落ち着けていた。宿の一室で、アルヴィンは鍛冶屋の老婆から譲り受けた古書を、机の上に広げていた。
「これが、あの本……」
ノアが覗き込む。古びた頁には、見慣れない術式図と、掠れた文字がびっしりと書き込まれている。
「読めるんですか、これ」
「半分は、な。残りは推測になる」
アルヴィンは頁をめくりながら、独り言のように呟いた。
「……そろそろ、話しておくべきかもしれないな」
「え?」
「俺が、何を探しているか」
ノアは驚いた顔をしたが、すぐに居住まいを正して椅子に座り直した。急かすでもなく、ただ静かに続きを待っている。その様子に、アルヴィンは小さく息を吐いてから、言葉を選ぶように話し始めた。
「時間魔法――時の流れそのものに干渉する術式を、俺は探している」
「時間、ですか」
「理論上は、時を巻き戻すことも、止めることも可能だとされている。だが、完成した術式は、もうどこにも残っていない。失われた魔法だ」
ノアは黙って耳を傾けている。アルヴィンは古書の一頁を指し示した。
「この本によれば、時間そのものを直接操るのは不可能に近い。だが――重力によって空間を歪め、その歪みの中で光の速度を操作すれば、局所的に時間の流れを狂わせることができる、とある」
「重力と、光……」
「お前の重力の資質と、俺が積んできた光の術理。この二つが揃って初めて、理論上は成立する術式だ」
ノアの目が、大きく見開かれた。
「わたしが……関係あるんですか、この魔法に」
「ああ」
短い肯定に、ノアはしばらく言葉を失っていた。何かを言おうとして、口を開きかけては、また閉じる。それを何度か繰り返した後、ようやく彼女は絞り出すように言った。
「わたしの魔法……ずっと『不完全』としか言われたことなかったのに。そんな、大きなことに関わってるなんて」
「まだ理論の段階だ。実際に成立するかどうかは、分からない」
「それでも」
ノアの声が、少しだけ震えていた。
「それでも、嬉しいです。誰にも必要とされなかったこの力が、あなたにとっては必要なものだったなんて」
アルヴィンは、彼女の顔をまっすぐ見られず、視線を古書に戻した。
「……なぜ、時間魔法が必要なんですか」
その問いに、アルヴィンは長い沈黙で応えた。窓の外で、風が木々を揺らす音だけが響く。
「……いずれ、話す」
「今じゃなくて?」
「今じゃない」
以前と同じやり取りだった。だが、今度のノアは、少しだけ違う表情をしていた。
「分かりました。無理に聞きません。でも」
彼女は、まっすぐにアルヴィンを見た。
「話したくなったら、いつでも聞きますから」
その言葉に、アルヴィンは何も返せなかった。ただ、胸の奥で、何かが少しだけ緩むのを感じた。
※
その夜、ノアが眠りについた後も、アルヴィンは一人、古書と向き合っていた。
断片的な記述の中に、術式の完成に必要な条件が、少しずつ見えてくる。重力の資質を持つ者と、光の術理を極めた者――二人の魔力を同調させる工程。それは、単独では決して届かない領域だった。
(フィリア……)
脳裏に、久しく思い出さなかった顔が浮かぶ。明るく笑う、あの声。もう二度と聞けないはずだった、あの声。
もしこの術式が完成すれば――
その先に何があるのか、アルヴィンにもまだ、はっきりとは分からなかった。それでも、確かに一歩、近づいている実感だけが、静かに胸の中で燃えていた。




