第2話 弟子、初めての魔法
街道を三日ほど歩いた頃、ノアが痺れを切らしたように言った。
「師匠、いつになったら魔法教えてくれるんですか」
「師匠と呼ぶな、と何度も」
「じゃあ先生」
「それも違う」
「アルヴィンさん?」
「……それでいい」
名前を呼ばれることに、微妙な据わりの悪さを感じながらも、アルヴィンはそれ以上言い返さなかった。押しに弱いのか、単に言葉のやり取りが面倒なだけなのか、自分でもよく分からない。
「それで、魔法は」
「まだだ。基礎もできてないだろう」
「基礎ならできます。属性は変でも、魔力の扱いは学校で少しは習ったので」
むっとした顔で言い返され、アルヴィンは仕方なく足を止めた。
「……見せてみろ」
ノアは待ってましたとばかりに鞄から小さな杖を取り出し、構えた。詠唱――といっても、たどたどしい呪文だ。手のひらの周りの空間が、ぐにゃりと歪みかけては、すぐに元に戻る。
「あ、あれ……いつもこうなるんです。うまく形にならなくて」
「属性は」
「分からないです。誰に鑑定してもらっても、『不明』って出るので」
アルヴィンは黙って彼女の手のひらに視線を落とした。歪んで戻る寸前の空間――その揺らぎに、見覚えのある感触があった。
(これは……重力か)
重力を操る術式自体は、決して珍しいものではない。だが、この揺らぎは――既存の重力術式とは、明らかに何かが違う感触をしていた。
「……もう一度、やってみろ」
「はい」
二度目の詠唱。同じように、空間は歪みきれずに崩れていく。アルヴィンはその崩れ方――重力場が霧散する瞬間の魔力の流れを、じっと感じ取っていた。
「ノア。お前がいつも教わっていた詠唱、それは『土』か『力』か、既存の属性の型を無理やり当てはめて教わっているんじゃないか」
「え……はい、そうです。一番近いのが『重力』属性だろうって、重力の詠唱式を教わりました」
「型は合っている。だが、根本のリズムが違う」
アルヴィンは杖も使わず、ただ指先に小さな魔力を灯した。
「型を変える。これを真似てみろ」
彼が示したのは、既存の重力術式のどれとも違う、独特の詠唱のリズムだった。既成の型を壊し、素の魔力の流れそのものに寄り添うような、奇妙な唱え方。
ノアは戸惑いながらも、見よう見まねでそれをなぞった。
――手のひらの周りの空間が、今度こそ、静かに歪んだまま留まった。
足元の小石がふわりと浮き上がり、崩れることなく、そこに在り続けた。
「……できた」
ノアの声が、驚きに震えていた。
「初めて、消えずに……」
アルヴィンは宙に浮いた小石を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
(この魔力の質感――どこかで覚えがある。ただの重力操作じゃない、この感じ……)
思い出そうとするほど、記憶は霧のように遠ざかっていく。ただ、確かな既視感だけが、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。
「アルヴィンさん?」
呼ばれて、我に返る。
「……いや、なんでもない。今日はそこまでにしておけ。魔力切れを起こすぞ」
「え、まだやれます」
「無理をするな」
思いのほか強い口調になってしまい、ノアが驚いた顔でこちらを見た。アルヴィンは気まずさを誤魔化すように、視線を逸らして荷物を担ぎ直した。
「……とにかく、今日はもう休め。歩くぞ」
「は、はい」
ノアは不思議そうな顔をしながらも、素直に頷いて後をついてきた。
※
その夜、野営の火を挟んで、ノアがぽつりと言った。
「今日、褒めてくれたんですね」
「褒めてない」
「褒めてました。『できた』って言った後、ちょっと驚いた顔してたので」
「……見てない」
「見てました」
アルヴィンは何も言い返せず、黙って火に薪をくべた。ノアはそれ以上追及せず、満足げに焚き火を見つめている。
(あの重力の魔力の質感――)
アルヴィンは記憶の糸を辿るように、目を閉じた。既存のどの重力術式にも属さない、あの独特の性質。空間そのものを、ねじ曲げるでも、押し潰すでもなく――そっと「留める」ような、奇妙な質感。それはまるで――
――何かを、あるべき場所に引き戻そうとする力に、似ている。
確証は何もない。ただの気のせいかもしれない。それでも、アルヴィンの中で、小さな予感が音を立て始めていた。
(この子の力は、もしかしたら――)
自分が何年も追い続けてきたものと、無関係ではないのかもしれない。
焚き火の向こうで、ノアが小さくあくびをする。何も知らないその横顔を見ながら、アルヴィンはまだ、その予感を口にすることができなかった。




