第17話 決行前夜
理論の最終調整が整い、術式を発動させる日が、三日後に決まった。それまでの猶予を、二人は静かに過ごしていた。
「アルヴィンさん、今日は解読、お休みですか」
「……ああ。もう、詰めるべきところは詰めた。あとは、当日を待つだけだ」
久しぶりに予定のない朝、ノアは伸びをしながら窓の外を見た。図書館都市の空は、いつになく晴れ渡っている。
「じゃあ、散歩でも行きませんか」
「……たまには、いいか」
珍しく素直な返事に、ノアは少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑って支度を始めた。
※
二人が向かったのは、町外れにある小高い丘だった。図書館都市全体を見渡せる、静かな場所だ。
「ここ、エリスさんに教えてもらったんです。天気のいい日は、遠くの山まで見えるって」
丘の上に立つと、確かに、都市の塔と、その向こうに連なる山々が一望できた。ノアはしばらく、その景色に見入っていた。
「アルヴィンさんは、術式が成功したら、どうするんですか」
「……考えていなかった」
「え?」
「フィリアに会うことばかり考えていて、その先のことは、何も」
正直な答えに、ノアは少し驚いた顔をしたが、やがて穏やかに笑った。
「そうですよね。ずっと、そのために生きてきたんですもんね」
「……お前は」
「わたしですか?」
「術式が終わったら、どうする」
問い返された質問に、ノアは少し考え込んだ。
「分からないです。でも」
彼女は、丘の下に広がる町並みを見つめながら、続けた。
「アルヴィンさんが良ければ、もう少し一緒にいたいな、って思ってます。まだ、学びたいことも、たくさんあるので」
その言葉に、アルヴィンは何も言えず、しばらく黙っていた。フィリアのことしか考えていなかったはずのこの旅の先に、いつの間にか、別の未来の形が見え始めていることに、彼自身、戸惑いを覚えていた。
「……その先は、術式が終わってから、考える」
「はい」
ノアは、それ以上何も追及せず、ただ穏やかに頷いた。
※
夕方、丘を降りて宿への道を歩きながら、ノアがふと足を止めた。
「アルヴィンさん」
「なんだ」
「明後日、怖くないですか」
率直な問いに、アルヴィンは少しの間、答えに詰まった。
「……正直に言えば、怖い」
「わたしもです」
ノアは、隠すことなくそう認めた。
「でも、アルヴィンさんが隣にいるから、大丈夫だと思ってます」
「……根拠のない自信だな」
「根拠なら、あります」
ノアは、いたずらっぽく笑った。
「これまで、ずっと一緒に乗り越えてきたので。影狼のときも、禁書のときも」
その言葉に、アルヴィンは、静かに頷いた。
「……そうだな」
夕暮れの道を、二人は並んで歩いた。もうすぐ訪れる、決行の日。その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。それでも、二人でいれば、きっと乗り越えられる――そんな確かな予感だけが、静かに胸の中に灯っていた。
「アルヴィンさん」
「なんだ」
「明後日、頑張りましょうね」
「……ああ」
短い返事に、いつもよりわずかに柔らかい響きが混じっていることに、ノアは気づいていたかもしれない。
夕日に染まる図書館都市を背に、二人はゆっくりと宿への道を歩いていった。




