第12話 名前だけの記憶
禁書の一件から数日、図書館都市での滞在も落ち着きを取り戻していた。宿の一室で、アルヴィンは手に入れた古書の術式図を、丁寧に写し取っていた。
「アルヴィンさん、これ、差し入れです」
ノアが焼き菓子の包みを机に置く。エリスに教わったという町の菓子屋で買ってきたらしい。
「気を遣うな」
「気を遣ってません、ただ食べたかっただけです」
言い訳めいた台詞に、アルヴィンは思わず小さく息を漏らした。ノアはその反応に満足げな顔をしながら、隣の椅子に腰を下ろす。
「解読、進んでますか」
「……少しずつ、な」
机の上に広げられた紙には、術式の構造が細かく書き写されている。その片隅、余白の部分に、アルヴィンが無意識に書き込んだ小さな文字があった。
「これ……名前、ですか?」
ノアが指差したのは、『フィリア』という三文字だった。アルヴィンは、しまった、というように紙を手元に引き寄せる。
「……ただの、書き癖だ」
「書き癖で人の名前は書かないと思います」
ノアの追及に、アルヴィンはしばらく黙り込んだ。誤魔化す気力もなく、かといって話す踏ん切りもつかない、その狭間で言葉を探しているようだった。
「……フィリア、っていうんですね。その人」
核心には触れず、ただ名前だけを、確認するようにノアが呟いた。追い詰めるでもなく、急かすでもなく。アルヴィンは、その距離感に、静かに救われた。
「……ああ」
短く肯定した。それだけで、随分と大きな一歩を踏み出したような感覚があった。
「昔、一緒に――」
言いかけて、また言葉が止まる。ノアは急かさず、ただ静かに待っていた。
「……ここで、一緒に学んでいた相手だ」
「そうなんですね」
それ以上、ノアは何も聞かなかった。ただ小さく頷いて、焼き菓子の包みを開き、一つをアルヴィンの前に差し出した。
「今日は、これで休憩にしましょう。解読は、また明日でも」
その気遣いに、アルヴィンは何も言えず、差し出された菓子を一つ受け取った。
※
しばらく、二人は無言で資料に目を通していた。窓から差し込む淡い光が、埃の舞う空気を照らしている。
「アルヴィンさん」
不意に、ノアが本から顔を上げた。
「その人のこと、まだ話したくないなら、それでいいです。でも」
彼女は、まっすぐにアルヴィンを見た。
「わたしは、今、ここにいますから」
その一言に、アルヴィンは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。何と返せばいいのか分からず、しばらく黙り込む。
「……ああ」
やっとの思いで、そう答えるのが精一杯だった。
ノアは満足そうに微笑むと、また本のページに視線を戻した。それ以上何も聞かず、何も詮索せず、ただ隣に座り続けている。
(不思議な子だ)
踏み込みすぎず、それでいて逃げもしない。その距離の取り方が、フィリアとはまるで違うのに、なぜか同じくらい、安心できる。
アルヴィンは、そっと机の傷跡に指を這わせた。かつての記憶と、今この瞬間の温もりが、静かに重なっていく。
まだ、フィリアのことを、ノアに話せる日は来ていない。それでも――
(もう少しだけ、前に進めるかもしれない)
そう思えたことが、アルヴィン自身、少し意外だった。




