第11話 勝手に選ぶ本
地下書庫の三日目、ノアが書架の奥から一冊の本を見つけた。
「アルヴィンさん、これ……」
表紙には題名もなく、ただ黒ずんだ革の装丁だけが施されている。妙に手に馴染む重さで、ノアはそれを不思議そうに見つめた。
「棚から、勝手に落ちてきたんです。わたしが近づいたら」
「……落ちてきた?」
アルヴィンは眉をひそめ、本を受け取った。表紙に触れた瞬間、微かに魔力の残滓のようなものを感じ取る。
「古い封印術式が、施されている。それも、かなり雑な仕事だ」
「危ないやつですか」
「分からない。だが――」
ページを開こうとした瞬間、本が独りでにぱらぱらとめくれ始めた。そして、ある一頁で、ぴたりと止まる。
そこに書かれていたのは、見覚えのある術式図だった。重力と光を組み合わせた図形――だが、これまで見てきたどの資料よりも、遥かに詳細で、完成された形をしている。
「これは……」
アルヴィンの声が、思わず震えた。
「まさか、完成された術式が、ここに……」
そのとき、書庫の奥から、低い唸るような音が響いた。本棚が、微かに振動している。
「アルヴィンさん、何か――」
「離れろ!」
アルヴィンが叫んだ瞬間、床の魔法陣が青白く発光した。古書に施されていた封印術式が、何かの拍子で反応してしまったらしい。
「封印の残滓が、暴走してる……!」
書架の間から、影のような何かがにじみ出し始めた。輪郭のはっきりしない、黒い靄のような塊が、二人を取り囲むように広がっていく。
「エリスを呼びに――」
「時間がない。今、ここで対処する!」
アルヴィンは即座に防御術式を展開した。だが、靄はその輪郭を変幻自在に変えながら、術式の隙間をすり抜けようとする。
「捉えどころがない……!」
「アルヴィンさん、重さなら!」
ノアが叫び、両手を靄に向けた。輪郭の定まらない相手であっても、そこに「質量」さえあれば、彼女の力は届く。
「重く、なれ!」
靄の一部が、ずしりと沈み込むように床に縫い付けられた。完全に無力化はできないが、動きが目に見えて鈍くなる。
「今だ!」
アルヴィンの凍結術式が、動きの鈍った靄の核を正確に捉えた。氷が広がり、靄全体を包み込むように固めていく。
やがて、靄は完全に凍りつき、そのまま砕け散って消えた。
静寂が戻る。
「……終わった、か」
「はい……」
二人はしばらく、荒い息のまま立ち尽くしていた。床に転がった古書は、何事もなかったかのように静かに閉じている。
※
しばらく、二人は無言で資料に目を通していた。窓から差し込む淡い光が、埃の舞う空気を照らしている。
「アルヴィンさん」
不意に、ノアが本から顔を上げた。
「その人のこと、まだ話したくないなら、それでいいです。でも」
彼女は、まっすぐにアルヴィンを見た。
「わたしは、今、ここにいますから」
その一言に、アルヴィンは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。何と返せばいいのか分からず、しばらく黙り込む。
「……ああ」
やっとの思いで、そう答えるのが精一杯だった。
ノアは満足そうに微笑むと、また本のページに視線を戻した。それ以上何も聞かず、何も詮索せず、ただ隣に座り続けている。
(不思議な子だ)
踏み込みすぎず、それでいて逃げもしない。その距離の取り方が、フィリアとはまるで違うのに、なぜか同じくらい、安心できる。
アルヴィンは、そっと机の傷跡に指を這わせた。かつての記憶と、今この瞬間の温もりが、静かに重なっていく。
まだ、フィリアのことを、ノアに話せる日は来ていない。それでも――
(もう少しだけ、前に進めるかもしれない)
そう思えたことが、アルヴィン自身、少し意外だった。




