第八話 始まり
昨夜から、櫻の家には彼の知り合いの紅葉が泊まっている。
今日は土曜日。しかし、櫻はいつもと変わらず早朝から、ランニングの身支度を整えていた。静かな家の中に着替えの音が響く。すると、紅葉が寝ていた部屋のドアがそっと開いた。
「櫻くん、おはよう。…もしかして、今日もあの神社まで走りに行くの?」
「おはよう、紅葉。そうだよ。…一緒に行くか?」
紅葉の頬が赤く染まる。
「うん! ちょっと待ってて!」
少し嬉しそうに部屋へと戻り、一分後彼女は制服姿で出てきた。
「お待たせ!」
「…じゃあ、行くか」
外へ出ると、ひんやりとした朝の空気が坂になだれ込んできた。緩やかな坂道を登り、やがて大通りへと出た。この時間帯はまだ行き交う車が少なく、静かだった。
並んで歩いている中、しばらくして紅葉が話しかけてきた。
「初めて会った時、気に入ってるからあの神社に通ってるって言ってたけどら特にどこが好きなの?」
「あの神社は、昔よく母が連れてきてくれたんだ。特に春は、桜が綺麗だから好きかな」
「確かに! 私が初めて来た時も、桜がすごく綺麗だった!」
「そういえば、紅葉と出会ったのも春だったね。少し喋っただけなのに、半年間もよく僕のことを覚えていたな。」
櫻が少し感心したように言うと、紅葉は「当たり前だよ!」と強気に言った。
「助けてくれた人のことを、忘れるわけないよ。櫻くんだって、昨日私のことちゃんと覚えていてくれたじゃん。」
「……まあ、なんか覚えてた」
「でも嬉しかった」
「うん」
そっけない櫻の返事にも紅葉は嬉しそうに微笑んだ。
そうこうしているうちに神社に着いた。
「櫻くんはいつも、お参りとかしてるの?」
鳥居をくぐりながら、紅葉が聞いた。
「してないよ。ただ、音楽を聴いているだけ。」
「確かに、私が初めて話しかけた時もイヤホンしてたもんね笑」
「本当によく覚えてるな」
「暗記とか、何かを覚えることは得意なんだよね。」
「学校の成績とかも良い方なのか?」
「……頑張って点数を上げても、意味なんてないよ。」
「……そうだね」
櫻はそれ以上聞かなかった。彼女の痛みが、ほんの少しだけ分かった気がした。
二人は初めて話した時のあのベンチに腰を下ろした。
「やっぱり、ここの神社いいね。落ち着いた雰囲気が、すごく癒される」
「癒されるっていうのは僕にはよく分からないけど、人があんまいないから余計なことを考えなくて済むから好きだな。」
それから三十分ほど、二人は並んで座っていた。
二人は何も話していないのに、お互いに気まずいという感情は生まれなかった。
二人はまた雑談を交わしながら、来た道をゆっくりと歩いて帰路についた。




