第六話 静かな食卓
駅の事務室での事情聴取は、思っていたよりも長引いた。
同じ質問に何度も答え、ようやく解放されて改札を出たときには、電車の電光掲示板はすでに消灯していた。
「あ……」
紅葉が小さく声を漏らす。彼女の家の方へ行く終電は、完全に終わっていた。
「櫻!」
その時、改札の向こう側のベンチから、父さんが勢いよく立ち上がってこちらへ駆け寄ってきた。
警察から連絡を受けて、仕事終わりか何かにそのまま急いで駆けつけ、僕が出てくるのをずっと待っていてくれたみたいだった。
「父さん……」
「無事だったか? 怪我はないな?」
「うん、全然大丈夫だよ。事情聴取が長引いただけ」
父さんは僕の肩を掴んでホッとしたように息を吐くと、僕の隣にいる紅葉に気づいて視線を留めた。
「こんばんは……。櫻くんの知り合いの、紅葉と申します。」
「こんばんは。……紅葉さんは、ご両親のお迎えは?」
父さんの問いかけに、紅葉は気まずそうに視線を落とした。
「あ、えっと…親とは、ちょっと連絡がつかなくて。終電もなくなっちゃったので、どうしようかなって…。」
人通りの少ない夜の改札前。
警察からの連絡ですぐに駆けつけてくれた僕の父さんと、夜遅くになっても迎えに来る気配すら見せない紅葉の親。僕は何も言えなくなった。
父さんはしばらく紅葉の様子を見ていたが、やがて優しく微笑みながら言った。
「そうか。女の子をこんな時間に一人にはさせられないな。…紅葉さん、もしよければ、今夜はうちに泊まっていきなさい。もう遅いし、車で送るよ。」
「えっ? でも、そんな……悪いですよ。」
「いいんだよ。櫻と一緒に事件に巻き込まれて大変だったろう。さあ、行こう」
父さんの温かい提案に、紅葉は
「……ありがとうございます」
と小さく頭を下げた。僕が口を挟む間もなく、帰る場所のない紅葉を乗せて、車は我が家へと向かった。
鍵を開けて家に入ると、家の中はすっかり静まり返っていた。
妹の結菜と弟の大樹は、もうすでに自分の部屋で寝てしまっているようだ。
「二人とも、お腹空いてるだろ。今からパパッと簡単なもの作るから、座って待ってなさい。」
父さんは上着を脱ぐとすぐに台所へ向かい、手際よく冷凍のうどんを茹で、温かい出汁を張ってネギを散らしただけのシンプルな夜食を用意してくれた。
「お父さんは先にお風呂に入ってくるから、二人で先に食べちゃいなさい」
テーブルの上に湯気の立つ器を二つ並べると、父さんはそのまま脱衣所へと向かった。
リビングには、僕と紅葉の二人だけが残される。
お風呂場からシャワーの音が聞こえ始め、家の中は静寂に包まれた。
二人でテーブルに向かい合って座り、箸を進める。
温かいうどんの出汁が、じんわりと身体に染みていく中、櫻が口を開いた。
「...いつもは僕の弟の大樹と妹の結衣がいるんだけどもう遅いから寝たと思う。母は夜勤だよ。」
なんで今家族の話をしたのか自分でも分からなかったが、それに続いて紅葉が話し始めた。
「……ねえ、櫻」
「ん?」
「さっき、拓海くんが言ってたでしょ。……『昔のこともあるんだから、抱え込むなよ』って」
紅葉の言葉に、心臓が小さく跳ねた。
「あの時、櫻は大丈夫だって笑ってたけど……本当は、全然大丈夫じゃなかったよね。駅のホームで刃物を持った男を見たとき、櫻、信じられないくらい体が震えて、声も出なくなってた。確かに目の前に刃物を持った人がいれば普通かもしれないけど何かこう、トラウマみたいなものを感じた。」
紅葉はスープの湯気を見つめながら、当時の僕の姿と、拓海の残した言葉を、頭の中で繋ぎ合わせるように話した。
「櫻が駅であんなに酷く怯えてたのは、拓海くんの言う『昔のこと』が関係してるんじゃないかって思ったの。初めて会った時に櫻くんが母が亡くなったって言ってくれたのも。」
彼女の察しの良さに、僕はただ黙って視線を落とすしかなかった。
嘘をついて誤魔化すこともできた。だけど、目の前で僕のために真剣に胸を痛めてくれている紅葉を見ていると、なぜか不思議と、本当のことを話してもいいような気がした。
僕は、リビングの棚に飾られている、本当の母さんの小さな写真立てに目をやった。
「……僕が小学5年生の冬にね、本当の母さんが死んじゃったんだ。ある事件で。」
紅葉は何も反応せずただ真剣に櫻の話を聞いていた。
「今日、駅のホームで動けなくなったのは、あの日の光景を思い出してたからだと思う。6年前のクリスマスの日、商店街の帰り道。僕の目の前で、母さんが知らない女に刺されて死んだ。」
紅葉が息を呑み、完全に動きを止めた。
僕はそのまま、犯人が父と母の高校の同級生で、逆恨みの末の犯行だったこと。犯人はその場で自害したこと。そして、白いコートを赤く染めながら、母さんが最期に僕に遺してくれた言葉を、感情を挟まないように、淡々と話した。
「今の母親は、高校生になる前に父さんが再婚した人で、大樹はその人の連れ子。本当の母さんだと思ったことは一度もないし、一度も『母さん』って呼んだこともないんだ。僕が勝手に、壁を作ってるだけなんだと思う。」
話し終えて紅葉を見ると、彼女の目から大粒の涙がボロボロと溢れ落ちていた。
「櫻くん……、ごめん、なさい。私、何も知らなくて……。そんなに辛い過去思い出したくないだろうに、私に話してくれて...」
「泣かないでいいよ。全然気にしないで、むしろ今まで隠しててごめん。」
こんなに親身になってくれるとは思っていなかった。だから僕はそれしか言えなかった。
「ううん……櫻は、あんなに怖かったはずなのに、誰かのためにって警察に協力して……。櫻は、本当に強いよ……っ」
紅葉は涙を拭おうともせず、自分のことのように泣いてくれた。
その涙を見て、僕の胸の奥の凍りついていた何かが、静かに溶けていくような気がした。
『櫻を必要としてくれる人は、必ずいるから。その人たちを、大事にするんだよ』
母さんの最期の言葉が、泣きじゃくる紅葉の姿と重なる。
「何かあったらいってね!絶対力になって見せるから!」
彼女は笑いながら真っ直ぐに僕を見た
「……ありがとう。」
櫻の秘密を共有した、静かな夜の食卓。僕たちの止まっていた時間は、今、動き出そうとしていた。




