第四話 大切な人
僕には、母親がいない。いや、正確には父の再婚相手がいるのだが、本当の母親だと思ったことは一度もない。
実の母は、僕が小学5年生の冬に、ある事件で命を落とした。
それまで優しく、誰にでも笑顔を向けていた櫻は、あの日を境に変わってしまった。
今から6年前。小学5年生の冬、櫻は母と商店街のケーキ屋でクリスマスケーキを買い、その帰り道を歩いていた。
「母さん、今日は父さん、早く帰ってくるかな?」
「そうね。早いといいわね」
「クリスマスは、みんなで過ごしたいよ」
「本当ね。このケーキ、今年はみんなで一緒に食べられるといいわね!」
「うん!」
母の希は、いつも通りの優しい口調で僕に応える。
「父さん、いつも家族に優しいよね」
「そうね。私が選んだ人だもの」
少し恥ずかしそうに、けれど誇らしげに、母は僕に自慢した。
「さすが母さん! 僕、父さんと母さんの子どもで本当に良かったよ」
「ふふ、私も櫻が元気に育ってくれて嬉しいわ。そっか、櫻もそろそろ中学生になるのね」
「もう子どもじゃないからね!」
「じゃあ、こうして手を繋ぐのも卒業かしら?」
母がからかうように言うと、櫻は少し顔を赤くした。それでも、繋いだ手は絶対に離さなかった。
そんな他愛のない会話を交わしながら歩いていると、空から雪が舞い降りてきた。
「あ、雪だ! 桜みたい!」
櫻は少し興奮気味に声をあげる。商店街のピンク色の街灯が雪を照らし、まるで桜の花びらが舞っているかのように見えていた。そう感じていたのは櫻だけでなく、希も同じだった。
うっすらと雪が積もり始めた商店街の通りを抜け、僕たちは信号待ちをしていた。僕は母の手を、こぼれ落ちないようにしっかりと握りしめていた。
「春になったら、みんなで桜を見に行こうね! 母さん、桜が大好きだから」
「ありがとう、櫻は優しいね。桜、見に行きましょうね!」
「うん!」
……それが、僕と母が最後に笑い合った瞬間だった。
背後から、刃物を持った女が母に向かって突進してきた。
僕も母も、その狂気に気づく隙すらなかった。冷たい刃が、母の背中に深く突き刺さる。
僕は、見てしまった。
見知らぬ女が、世界で一番大好きな母を無残に切り裂く、その最悪の瞬間を。
母はその場に崩れ落ちた。
だが希は一切の悲鳴を上げなかった。ただ周囲の騒然とした悲鳴だけが耳に突き刺さる。女はすぐに、通りすがりの人たちに取り押さえられた。
「こいつが……こいつが! 私のぉーー!」
女は何度も狂ったように叫んでいたが、やがて力尽きたように黙り込んだ。
周囲が慌ただしく救急車や警察を呼ぶ中、僕は倒れ伏す大好きな人の前で、声も出せずに涙を流していた。
「母さん……っ、死なないよね? 約束したよね、一緒に桜を見に行くって……!」
赤く染まっていく雪の上で、母は最後の力を振り絞り、掠れた声で答えた。
「……ごめね……さく。約束……守れそうに、ないわ……。櫻は、こんな……人になっちゃ、だめよ……」
白いコートが、見る見るうちに深い赤へと染まっていく。
「櫻を必要としてくれる人は……必ず、いるから……。その人たちを……大切にするのよ……。私は、ずっと……櫻のことが、大好きだからね……」
母は最後に、愛おしそうに微笑んで、そのまま息を引き取った。
櫻はただ泣き叫んだ。櫻の悲しみを覆い隠すように、夜の雪は激しさを増していった。
本当に見てくれてありがとうございます!
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