第六章 『欠落する記憶 ―観測者の死角―』
夜の黒門は、妙に静かだった。
風がない。
音がない。
いや――違う。
「音があったはずの記憶」が抜け落ちている。
⸻
浮浪雲晴明は、煙草をくわえたまま、動かなかった。
火はついていない。
つけた記憶が、ない。
⸻
「……ちっ」
舌打ちがやけに乾いている。
いつからここにいる?
誰と話していた?
さっきまで、何を――
⸻
思い出せない。
⸻
その瞬間だった。
背後で、足音。
いや、“足音だったはずの気配”。
振り返る。
誰もいない。
だが、確かにいた。
⸻
「……おい」
声に出した瞬間、自分で違和感に気づく。
声をかけた“相手の名前”が、最初から存在しない。
⸻
頭の奥が、鈍く軋んだ。
⸻
(来たな)
⸻
それでも、浮浪雲は笑った。
⸻
「そういうことかよ」
⸻
彼はポケットから小さなノートを取り出す。
古びた革の手帳。
中にはびっしりと文字が詰まっている。
⸻
――だが。
⸻
数行が、削れている。
⸻
インクが“消された”のではない。
最初から書かれていなかったように、そこだけが空白だ。
⸻
「……やりやがる」
⸻
その空白の下に、たった一行。
⸻
『自分を疑え』
⸻
浮浪雲は、そこでようやく確信する。
⸻
⸻
自分もまた、“観測から外されかけている”
⸻
⸻
その時だった。
⸻
目の前の景色が、わずかに歪む。
黒門の提灯の灯りが、揺れる。
いや、違う。
⸻
“灯りを見ている自分”が揺れている。
⸻
⸻
「……懐かしいな」
⸻
ぽつりと呟いた。
⸻
その言葉は、無意識だった。
⸻
なぜ懐かしい?
どこで?
いつ?
⸻
――答えは、すぐに来た。
⸻
子どもの頃。
雨の帰り道。
誰かと歩いていた。
笑っていた。
確かにいた。
⸻
だが――
⸻
顔がない。
⸻
「……誰や」
⸻
その瞬間、世界が一瞬だけ“切れた”。
⸻
音が消える。
光が消える。
思考が止まる。
⸻
そして――戻る。
⸻
⸻
浮浪雲は、膝をついていた。
⸻
呼吸が荒い。
額に汗。
だが、笑っている。
⸻
「おもろなってきたやんけ」
⸻
⸻
彼は、ついに“思い出す”。
⸻
完全ではない。
だが、確信だけはある。
⸻
⸻
自分は一度、“消されている”
⸻
⸻
だからこそ、
* 記憶が異常に強い
* 情報を失わない
* 世界の“ズレ”に気づける
⸻
⸻
「なるほどな……」
⸻
煙草に火をつける。
今度は、確かに“つけた”。
⸻
煙がゆっくりと上がる。
⸻
「俺は、“外を知っとる側”か」
⸻
⸻
その時。
⸻
背後から声。
⸻
今度は、はっきり聞こえた。
⸻
「気づいてしまいましたね」
⸻
振り返る。
⸻
そこにいたのは――
⸻
自分と同じ顔の男。
⸻
⸻
「……誰や、お前」
⸻
男は、穏やかに笑う。
⸻
「あなたですよ」
⸻
⸻
沈黙。
⸻
風が吹く。
⸻
黒門の灯りが、完全に消えた。
⸻
⸻
男は静かに言った。
⸻
「あなたは、“二度目の観測者”です」




