第五章 「観測から外された街」
黒門市場の裏路地は、昼でも暗かった。
観光客の笑い声が少し離れた場所で響いているのに、ここだけは別の時間が流れているようだった。
湿ったコンクリート。
古びたシャッター。
そして――
「ここ、や」
浮浪雲が立ち止まる。
主人公は息を飲んだ。
「……ただの裏通りにしか見えませんが」
「そう見えるように“されてる”んや」
浮浪雲はポケットから煙草を取り出し、火をつける。
一口吸って、ゆっくり吐く。
「ええか。世界いうのはな、“見えてるもん”だけで出来てるんやない」
「……」
「見えへんようにされたもんで出来てる」
⸻
浮浪雲は壁に手を当てた。
次の瞬間。
空気が――歪んだ。
主人公の視界がぶれる。
耳鳴り。
足元が浮く感覚。
「な……っ」
気づいたとき、景色が変わっていた。
同じ場所のはずなのに、色が違う。
音が違う。
人が――いない。
「ここが……」
「“観測から外された街”や」
浮浪雲は、当たり前のように言った。
⸻
道の端に、古い看板が落ちている。
店の名前は読めるのに、思い出せない。
見たことがある気がするのに、記憶が引っかからない。
「これ……何なんですか」
「“存在はしてた”けど、“忘れられた”場所や」
「忘れられた……?」
「ちゃうな」
浮浪雲は煙草を踏み消す。
「“忘れさせられた”場所や」
その言葉が、重く沈む。
⸻
■ 真実の一片
「人間はな」
浮浪雲がゆっくり歩きながら話す。
「観測されてる限り、存在できる」
「……量子の話ですか」
「それもある。でもな――」
振り返る。
その目は、さっきまでと違っていた。
鋭く、深い。
「社会も同じや」
「……え?」
「記録される
語られる
思い出される
それで“存在”は維持される」
一歩、近づく。
「逆に言えば――」
低く、静かに。
「それを全部消されたら、人はどうなると思う?」
⸻
主人公は、言葉を失う。
頭では分かる。
でも、理解したくない。
「……消える?」
「せや」
浮浪雲は笑わない。
「肉体があっても、“いなかったことになる”」
背筋が凍る。
⸻
その瞬間。
主人公の頭の奥に、何かが引っかかった。
記憶。
曖昧な影。
誰かの声。
「……俺……」
言葉が震える。
「俺も……」
浮浪雲が止まる。
振り向かずに言う。
「気づいたか」
⸻
頭が痛い。
強烈なノイズのような感覚。
思い出そうとすると、拒絶される。
「誰か……いた……」
声が出る。
「子供の頃……」
断片が浮かぶ。
笑い声。
手を引く誰か。
名前が――思い出せない。
「消されてるな」
浮浪雲が静かに言う。
⸻
「ワシもや」
主人公は顔を上げる。
「え……?」
「一回、“完全に消された”」
空気が止まる。
「でもな」
浮浪雲はゆっくり振り向く。
その目は、底知れない。
「戻ってきたんや」
⸻
そして、軽く笑う。
「見えるもんが全部や思うなよ」
⸻
遠くで、足音が響く。
誰もいないはずの街で。
“何か”が近づいてくる。
人の形をしているが、どこか欠けている。
存在が――薄い。
「……あれは?」
主人公が震える声で聞く。
浮浪雲は一言だけ言った。
「あれが“消された人間”や」
その瞬間。
“それ”が、こちらを向いた。
目が合う。
――認識された。
世界が、軋む。




