第三章 「思い出せない名前」
音が戻ってきた。
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路地の空気が、ゆっくりと流れ出す。
さっきまでそこにいたスーツの男は、
もう――
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いなかった。
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いや。
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“いなかったことになっている”。
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足元を見る。
何もない。
争った痕跡も、気配も、存在の余韻すら消えている。
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「……終わったんですか」
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声が、かすれる。
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浮浪雲は、肩をすくめた。
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「一体はな」
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“いくつもいる”前提で言う。
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「また来るで」
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あっさりと言い切る。
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現実感が、追いつかない。
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それよりも。
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胸の奥に、別のものが残っている。
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あの男の言葉。
削除。
観測。
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そして――
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“消された存在”。
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「……あんた、さっき言いましたよね」
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浮浪雲を見る。
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「俺、四人家族やったって」
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浮浪雲は、少しだけ目を細める。
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「ああ」
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「それ、どういう意味ですか」
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沈黙。
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少しだけ、空気が重くなる。
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浮浪雲は、缶を足元に置いた。
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「……ほんまに、覚えてへんのか」
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その言葉は、軽くない。
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「覚えてないから聞いてるんです」
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少し強く言う。
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浮浪雲は、こちらをじっと見る。
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逃げ場のない視線。
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「ほな、試してみるか」
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「……何を」
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「思い出すことや」
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浮浪雲は、ポケットから何かを取り出した。
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古びた写真。
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それを、こちらに差し出す。
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「見てみ」
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受け取る。
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少し色あせた家族写真。
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父。
母。
そして――自分。
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……三人。
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「ほら、三人じゃないですか」
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言いかけた、その瞬間。
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違和感。
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写真の“端”が、妙に不自然に切れている。
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構図がおかしい。
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まるで――
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誰かを“切り取った”みたいに。
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「……なんや、これ」
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指先が震える。
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もう一度、よく見る。
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すると。
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そこに、
“影だけ”が残っている。
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人の形の影。
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だが、本体がない。
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「気づいたか」
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浮浪雲の声が、低くなる。
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「そこに、おったんや」
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頭が痛い。
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何かが、
思い出そうとしている。
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だが、
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同時に、強烈に拒絶している。
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「……やめろ」
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無意識に口に出る。
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「無理に開けると、壊れるで」
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浮浪雲が言う。
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「でもな」
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静かに続ける。
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「お前、もう戻られへんとこまで来とる」
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言葉が、刺さる。
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「……どういう意味ですか」
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「“見てもうた”からや」
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あの黒門での出来事。
あの“見えない人間”。
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「一回気づいたらな」
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浮浪雲は、空を見上げる。
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「向こうも、放っとかん」
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そのとき。
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視界が揺れた。
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ノイズ。
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音が遠のく。
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そして――
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一瞬だけ、映像が流れ込む。
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知らないはずの記憶。
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笑い声。
小さな手。
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「にいちゃん」
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声。
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幼い声。
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振り向く。
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だが、顔が見えない。
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ぼやけている。
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存在しているのに、
認識できない。
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「待って」
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手を伸ばす。
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届かない。
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その瞬間、
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映像が、強制的に切れる。
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現実に引き戻される。
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呼吸が荒くなる。
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「……今の、なんですか」
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浮浪雲は、静かに言う。
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「お前の記憶や」
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「……嘘や」
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即座に否定する。
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だが、
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身体が理解している。
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あの感覚。
あの声。
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知らないはずなのに、
確実に“知っている”。
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「お前な」
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浮浪雲が、ゆっくり言う。
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「“誰か”忘れとる」
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「それも、かなり大事なやつや」
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言葉が、重く落ちる。
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沈黙。
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逃げたくなる。
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だが、
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もう逃げられない。
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「……その人は」
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やっとの思いで、口を開く。
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「なんで消されたんですか」
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浮浪雲は、少しだけ考える。
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そして、
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こう言った。
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「理由は二つや」
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「一つは、“邪魔やった”」
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冷たい現実。
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「もう一つは――」
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そこで言葉を切る。
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「……なんですか」
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浮浪雲は、こちらを見る。
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その目は、
今までで一番、真剣だった。
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「お前が、“選んだ”んや」
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