■第二章 「消す側」
足音は、一定だった。
焦りも、迷いもない。
ただ、真っ直ぐこちらに向かってくる。
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スーツの男は、路地の中央で止まった。
年齢は三十代か四十代。
整った顔。
どこにでもいそうな会社員。
だが、
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“輪郭が、薄い”。
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見えているのに、定まらない。
視線を外すと、すぐに記憶から抜け落ちそうになる。
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「……見えてはいけないものを、見ていますね」
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声は穏やかだった。
だが、その奥に“温度”がない。
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「誰や、お前」
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浮浪雲が、だるそうに言う。
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男は視線だけを動かす。
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「対象、二名確認」
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淡々とした口調。
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「優先度変更。
同時処理を実行します」
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その言葉が終わる前に――
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世界が、一瞬だけ“飛んだ”。
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視界がブレる。
音が消える。
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次の瞬間。
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さっきまであったはずの看板が、
消えていた。
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「……は?」
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いや、違う。
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“最初からなかった”ことになっている。
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壁は、ただの壁。
そこに看板があった記憶だけが、こちらに残っている。
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「始まったな」
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浮浪雲が、小さく言う。
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「これが、“削除”や」
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男が一歩、近づく。
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「あなた方は、観測の整合性を乱しています」
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「そのため、調整を行います」
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意味が分からない。
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「調整……?」
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思わず聞き返す。
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男は、こちらを見たまま答える。
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「社会は、“共有された認識”によって維持されています」
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「そこに例外が生じると、歪みが発生する」
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「歪みは、修正されなければならない」
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その言葉は、理屈としては分かる。
だが、
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やっていることが異常すぎる。
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「……つまり、俺らを消すってことか」
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浮浪雲が言う。
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男は、わずかに頷いた。
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「“存在しなかったこと”にします」
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あまりにも簡単に言う。
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「記録からも、記憶からも」
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「完全に」
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背筋が凍る。
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そのとき。
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自分の手が、
薄くなっていることに気づいた。
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透けている。
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輪郭が曖昧になっている。
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「……なんや、これ……」
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声が震える。
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男は、静かに言う。
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「すでに処理は始まっています」
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「あなたの存在は、現在“削除中”です」
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頭が真っ白になる。
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――消される?
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いやだ。
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「待て!」
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叫ぶ。
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「なんで俺が――」
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その瞬間。
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言葉が、途中で消えた。
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口は動いている。
だが、音にならない。
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存在が、言語ごと削られている。
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「……っ!」
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恐怖が、一気に押し寄せる。
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そのとき。
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隣で、ため息が聞こえた。
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「やれやれやな」
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浮浪雲だった。
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「毎回これや」
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だるそうに頭をかく。
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「もうちょい、手加減いうもん知らんのか」
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そして、
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ゆっくりと前に出る。
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空気が変わる。
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明らかに、“質”が変わる。
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「お前らな」
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浮浪雲の声が、低くなる。
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「消す側やったら、ちゃんと消し切れや」
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その瞬間。
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空間が、歪んだ。
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視界の奥に、
“別の層”が見える。
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今いる路地の裏に、
もう一つの“構造”が重なっている。
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無数の線。
情報。
名前。
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「……なんや、これ」
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理解が追いつかない。
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浮浪雲が言う。
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「見えとるやろ」
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「これが、“裏”や」
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そして、
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男に向かって、一歩踏み込む。
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「見えんようにしとるだけで、
最初から全部“ある”んや」
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男の表情が、初めて崩れる。
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「……異常個体確認」
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「再評価。危険度上昇」
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その瞬間。
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浮浪雲の姿が、
一瞬だけ“消えた”。
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いや――
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“外れた”。
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次の瞬間。
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男の背後に立っている。
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「遅いで」
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軽く言う。
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そして、
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男の肩に、手を置いた。
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空気が止まる。
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男の身体が、
ノイズのように崩れ始める。
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「……ありえない」
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初めて感情が出る。
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「あなたは――」
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浮浪雲が、静かに言う。
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「言うたやろ」
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「ワシは、一回“外”見てきた人間や」




