第一章「浮浪雲」
電話は、三回目で切れた。
知らない番号。
知らない名前。
――浮浪雲。
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「……誰やねん」
独り言が、妙に空虚に響く。
さっきの出来事が、まだ頭から離れない。
見えない人間。
足跡。
そして、あの声。
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――忘れんといてな。
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舌打ちする。
こんなもの、気にしても仕方がない。
そう思った瞬間、
また携帯が震えた。
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同じ名前。
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少しだけ迷って、出る。
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「……もしもし」
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数秒、沈黙。
そして、
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「やっと出たか」
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低い声。
落ち着いているが、どこか気の抜けたような響き。
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「誰ですか」
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「名前、見とるやろ」
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「それが分からんから聞いとるんです」
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小さく笑う気配。
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「まあええわ。今どこや」
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「は?」
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「黒門やろ。さっき“見た”やろ」
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背筋が凍る。
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「……なんでそれを」
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「見えた人間はな、だいたい同じ顔するんや」
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間。
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「話、聞く気あるなら来い」
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「どこに」
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「裏や。人おらん路地。すぐ分かる」
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そこで通話は切れた。
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しばらく動けなかった。
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だが――
足は、勝手に動いていた。
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黒門の喧騒から一歩外れると、
世界は急に静かになる。
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観光客もいない。
店も閉まっている。
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まるで、
“最初から人が来る予定のなかった場所”。
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その奥に、
男がいた。
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壁にもたれ、缶チューハイを飲んでいる。
無精髭。
少し猫背。
どこにでもいそうな、だらしない中年。
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だが――
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目だけが違う。
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濁っているのに、妙に鋭い。
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「……あんたか」
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男は、こちらを一瞥する。
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「遅いな」
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「誰ですか、あんた」
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間。
男は缶を軽く振り、残りを飲み干す。
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そして、
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「浮浪雲や」
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それだけ言った。
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沈黙が流れる。
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「……あんた、あれ見えたんやろ」
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浮浪雲が言う。
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「あれって何ですか」
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「おるのに、おらんやつや」
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言葉が、妙にしっくりくる。
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「……見えました」
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素直に答えてしまう。
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浮浪雲は小さく頷く。
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「ほな、お前はもう“こっち側”や」
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「こっちって」
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「普通やない側や」
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軽く言う。
だが、その言葉は重かった。
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浮浪雲は、次の缶を開けながら言った。
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「お前な」
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視線が、こちらに刺さる。
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「何人家族や?」
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「……は?」
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「ええから答えろ」
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「……三人です。父と母と俺」
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即答だった。
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だが、
浮浪雲は首を振る。
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「違うな」
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「は?」
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「お前、四人やったはずや」
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心臓が、一瞬止まる。
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「何言ってるんですか」
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「ほんまに三人か?」
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言われて、
初めて“考える”。
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記憶を辿る。
写真。
思い出。
食卓。
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――三人。
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の、はず。
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だが、
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どこかに“余白”がある。
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埋まっていない席。
思い出の中の、空白。
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「……なんや、これ」
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頭が痛む。
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「気づいたか」
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浮浪雲が言う。
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「それが、“消された跡”や」
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「……あんた、何者なんですか」
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浮浪雲は笑う。
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「何者でもないで」
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そして、少しだけ間を置いて、
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「ただの、“消され損ない”や」
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空気が変わる。
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「ワシな、一回“消された”んや」
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「……は?」
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「記録からも、記憶からも」
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淡々としている。
だが、その言葉の重さは異常だった。
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「ほな普通、どうなる思う?」
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答えられない。
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「おらんようになる」
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当たり前のように言う。
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「でもな」
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浮浪雲は、こちらを見る。
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「ワシは、残った」
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その目が、
一瞬だけ“底なし”になる。
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「なんでや思う?」
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沈黙。
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「……分からん」
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正直に答える。
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浮浪雲は笑う。
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「ワシも分からん」
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だが次の瞬間、
声が低くなる。
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「せやけどな」
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ゆっくりと、
言葉を刻む。
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「一回外に出た人間は、戻ってきたときに“ズレ”るんや」
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「ズレ?」
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「世界の見え方がな」
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そして、
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あの言葉を、初めて口にする。
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「見えるもんが全部や思うなよ」
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そのとき。
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路地の奥から、
足音がした。
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規則正しい。
迷いのない歩き方。
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振り向く。
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スーツの男が立っている。
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表情はない。
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ただ、
こちらを見ている。
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そして、静かに言った。
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「……見えてはいけないものを、見ていますね」
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空気が、凍る。
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浮浪雲が、ため息をつく。
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「ほら来た」
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そして、小さく笑う。
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「“消す側”や」




