第3巻 第5章(最終章) 『選択される世界』
白が、砕ける。
世界が、バラバラになる。
音も、光も、意味も——
すべてがほどけていく。
⸻
その中心で。
浮浪雲だけが、立っていた。
⸻
「……強制的に外す気か」
周囲は、何もない。
いや——
何も“定まっていない”。
⸻
「ここは“未定義領域”だ」
あの男の声が響く。
姿は見えない。
だが、確実に“いる”。
⸻
「ここで観測を切れば、お前は完全に消える」
⸻
「……なるほどな」
浮浪雲は、静かに笑った。
⸻
「最後は“存在そのもの”か」
⸻
「お前は例外だ」
男の声は、どこか静かだった。
⸻
「だから危険だ」
⸻
「せやろな」
⸻
一歩、踏み出す。
足場はない。
だが、落ちない。
⸻
「で、どうする?」
男が問う。
⸻
「ここで消えるか」
⸻
「それとも——」
⸻
一瞬の間。
⸻
「戻って、従うか」
⸻
静寂。
⸻
浮浪雲は、目を閉じた。
⸻
浮かぶ。
黒門の喧騒。
酒の味。
どうでもいい会話。
⸻
そして——
思い出せない“誰か”。
⸻
「……あいつ」
小さく呟く。
⸻
「名前、出てけえへん」
⸻
胸の奥が、きしむ。
⸻
「消されとる」
⸻
その瞬間。
目を開ける。
⸻
「せやけどな」
⸻
顔を上げる。
⸻
「おるんや」
⸻
確信。
理屈ではない。
⸻
「俺の中に、まだ残っとる」
⸻
沈黙。
⸻
「それで十分や」
⸻
その言葉に。
空間が、わずかに震える。
⸻
「……非合理だな」
男の声。
⸻
「記録もない。証明もできない」
⸻
「せやな」
⸻
「それでも“ある”と言うのか」
⸻
浮浪雲は、笑った。
⸻
「あるもんは、あるんや」
⸻
一歩、前へ。
⸻
「お前が消してもな」
⸻
「完全には消えへん」
⸻
その瞬間。
空間が、大きく歪む。
⸻
「……なぜだ」
男の声に、初めて感情が混じる。
⸻
浮浪雲は、ゆっくりと言った。
⸻
「観測されんでも」
⸻
「覚えとるやつがおる限り——」
⸻
「消えへんからや」
⸻
沈黙。
⸻
長い、沈黙。
⸻
やがて。
男の声が、静かに響いた。
⸻
「……それが、誤差を生む」
⸻
「世界は歪む」
⸻
「崩壊する」
⸻
「だから、消す必要がある」
⸻
その言葉に。
浮浪雲は、首を振った。
⸻
「逆や」
⸻
「それがあるから、“人間”なんやろ」
⸻
一歩、さらに前へ。
⸻
「全部きっちり整えたらな」
⸻
「それ、もう人間ちゃう」
⸻
沈黙。
⸻
そして——
世界が、静かに戻り始める。
⸻
光が戻る。
音が戻る。
重さが戻る。
⸻
「……選んだな」
男の声。
⸻
「どっちやと思う?」
⸻
「……壊す方か」
⸻
浮浪雲は、笑った。
⸻
「ちゃうな」
⸻
振り返る。
⸻
「“外す方”や」
⸻
その瞬間。
空間の“固定”が外れる。
⸻
観測が、揺らぐ。
⸻
男の気配が、一瞬だけぶれる。
⸻
「な……」
⸻
「お前も“人間”やろ」
⸻
「完全やない」
⸻
「せやから——」
⸻
「外れる」
⸻
その言葉と同時に。
世界が、大きく歪んだ。
⸻
そして——
暗転。
⸻
■ エピローグ
黒門。
いつもの喧騒。
⸻
浮浪雲は、いつもの場所で酒を飲んでいる。
⸻
何も変わっていない。
ように見える。
⸻
だが——
ふと、視線を上げる。
⸻
向かいの席。
⸻
誰かが、座っている気がした。
⸻
顔は見えない。
名前もわからない。
⸻
だが——
確実に、“いる”。
⸻
「……おるな」
⸻
小さく呟く。
⸻
そして、グラスを一つ置く。
⸻
「飲めや」
⸻
返事はない。
⸻
だが——
ほんのわずか。
空気が、揺れた。
⸻
浮浪雲は、笑った。
⸻
「見えるもんが全部や思うなよ」
⸻
グラスを傾ける。
⸻
遠くで。
誰かが、こちらを見ていた。
⸻
それが——
誰なのか。
もう、確かめる術はない。




