第3巻 第3章 『無音のビル』
黒門の喧騒から、ほんの数分。
だが——
そのビルに一歩入った瞬間、世界は完全に切り替わった。
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音が、ない。
エレベーターの駆動音も、空調の唸りも、
人の気配すらも、存在しない。
「……病院みたいやな」
浮浪雲が呟く。
だが、それは違う。
病院には“生”がある。
ここには——
処理しかない。
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案内されたのは、地下三階。
扉が開く。
白い。
無機質な白。
光はあるが、温度がない。
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「ここが記録層だ」
国家観測局の男が言う。
「消去前の最終確認が行われる」
「最終確認、ねえ」
浮浪雲はゆっくり歩き出した。
並ぶモニター。
そこに映っているのは——
人間だった。
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食事をしている男。
笑っている女。
子どもを抱く母親。
どれも、ごく普通の風景。
だが——
画面の端に、小さな表示がある。
【削除待機】
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「……これ、全部か?」
「そうだ」
「理由は?」
「存在の整合性を保つためだ」
浮浪雲は足を止めた。
「整合性?」
「世界は“矛盾”を許容できない」
男は淡々と言う。
「記録に対して過剰なズレを起こした存在は、削除される」
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「つまり」
浮浪雲は振り返る。
「都合悪なった人間を、消しとるだけやろ」
一瞬。
空気が固まる。
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「……言い方は自由だ」
男の声が、わずかに低くなる。
「だが結果は同じだ」
「せやな」
浮浪雲は笑う。
「人間が人間を“なかったことにする”」
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そのとき。
一つのモニターに目が止まった。
そこに映っていたのは——
自分だった。
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若い頃の浮浪雲。
誰かと笑っている。
だが——
隣の人物の顔が、ぼやけている。
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「……これや」
浮浪雲の声が、低く沈む。
「俺が忘れとるやつ」
男は、答えない。
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画面の表示。
【削除完了】
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その瞬間。
映像が、消えた。
完全に。
何も残らない。
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頭の奥に、痛みが走る。
記憶が、揺れる。
何かがあった。
確実にあった。
だが——
掴めない。
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「……ええ趣味しとるな」
浮浪雲は、ゆっくりと息を吐いた。
怒りではない。
だが、静かに燃えるものがある。
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「これはな」
男が言う。
「必要な作業だ」
「誰にとってや?」
「世界にとってだ」
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その言葉に。
浮浪雲は、はっきりと笑った。
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「世界てなんや?」
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沈黙。
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「誰が決めとる?」
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さらに沈黙。
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浮浪雲は、一歩踏み出した。
モニターの列を抜ける。
奥へ。
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「まだ奥あるやろ」
「……そこは許可されていない」
「ほな、見に行く価値あるな」
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扉があった。
重い。
黒い。
明らかに、別の領域。
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その前で。
男が初めて、迷いを見せる。
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「開けたら戻れない」
「戻る気ない」
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静かに、扉に手をかける。
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その瞬間。
スピーカーから声が流れた。
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「そこまでにしておけ」
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低い。
落ち着いた声。
だが——
圧がある。
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「初めまして、浮浪雲晴明」
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浮浪雲は、わずかに口角を上げた。
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「……やっと出てきたか」
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「君は例外だ」
声は続く。
「だから観察していた」
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「観察、ねえ」
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「だがここから先は、君にとって“害”になる」
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その言葉に。
浮浪雲は、迷わず答えた。
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「もう十分、害や」
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そして——
扉を、開けた。
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中は、暗かった。
完全な闇。
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だが。
その奥に——
“人の気配”があった。
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複数。
いや。
無数。
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そして、その中心に。
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一人の人間が、座っていた。
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光のない空間で。
ただ、こちらを見ている。
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「……お前か」
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浮浪雲が呟く。
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その男は、静かに笑った。
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「ようこそ」
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「観測の中心へ」




